1-8 二日目
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私には色々なものがある。
それが故に、更に色々なものを求めようとする。
もし最初から、色々なものが“ない”者が居るとしたら、
その色々を求めようとする発想すらもないんだろう。
}
・
田舎の朝はとても早い。
外が薄明るくなり始めた頃、と言うのがいいだろう。それはこの辺りでは各家のご婦人達が家事活動をし始める時間帯だ。
小鳥達も、朝方の涼しさの中でちゅんちゅんと可愛らしく鳴き始めている。
そんな朝早くに、ぱっちりと目が覚めた。
夏場仕様の薄っぺらい掛け布団を取っ払い、上半身を起こして、両手を組み上げながらうーんと背伸びをする。そうして立ち上がって、窓の所まで行って網戸を開けた。
薄明るい、外の景色。木々に覆われた山々と、その下には広々とした田んぼだらけの光景。
それを見ながら呼吸をする度、外の新鮮な空気が肺に入る。
ここは空気がとてもいい。都会の空気と田舎の空気、爽やかさを比べてみるととても大きな差があるのが良く解る。昨日まで都会に居た身としては、ここの気持ちのいい空気はとても貴重に思える。昔は当たり前みたいにこっちの空気を吸っていた訳なんだけど。気付かなかった事に気付く事。それはとても大切な経験になる。
大きく深呼吸をしてみる。すると、朝の涼しい空気が肺の中いっぱいになった。
気持ちがいいな。なんだか深呼吸していたらラジオ体操なんてものの存在を思い出したり。夏の休みの朝とくれば、そりゃあこれ以外にないだろう。
ラジオ体操か……最後にやったのは一体何年前だっただろう。確か、中学生の始めくらいの歳だったと思うけれど。
折角だから、してみようか。ラジオは何時からやるんだっけ。
……、忘れた。新聞でも見ればいいか。私は一旦やりたいと思った事は必ず実行するたちだ。やらない理由も今はないし。
野暮ったい寝巻きから、運動のしやすい白シャツとジーンズに手早く着替えて、部屋を出て廊下を通り、玄関まで行く。そして鍵を開けて外に出る。目的だった新聞は、この時間には既に新聞受けに入っていて、
「おっ」
その下に、真白い中身の詰まった牛乳瓶が二つ置いてあったのを発見。これはいい。
我が家では牛乳配達に大層お世話になっている。同じく明け方の象徴である新聞配達以上には。まあ原因は完全に私だ。昔は毎日二本、朝とお風呂上がりには必ず消費していたからなあ。勿論腰に片手を当てて、ぐいっと一気に飲むスタイルで。この家を出て行って結構経つけど、それが私の居なくなった今も変わらず持って来てくれていると思うと、ちょっとこれは感慨深くもなる。
その場で新聞を広げる。見るのは勿論ラジオ欄だ。目的であるラジオ体操の始まる時間は、六時三十分とある。胸に下げてる懐中時計を確かめてみると、現在の時刻は五時半辺り。始まるまでにまだ一時間程も間が開いている。
そんなに待ってられるかい。
玄関に置いてあった牛乳瓶二つと新聞を持って、そこから台所に行く。冷蔵庫を開けると、そこにはまだ牛乳が一本残っていたので、冷えていたそれを取り出して新しいものと入れ替えた。新聞をテーブルに置いて、その隣に一筆、母さん宛てのメモ紙を書き残しておく。
“牛乳入れといた。一本貰ったよ”
――よしっ。
そうして良く冷えた牛乳瓶を手に持って、台所から外に繋がる廊下へ。そこでサンダルを履いて縁側から庭に出る。東の空の、丘に見える凄く低い位置に、頭の全部がまだ出ていない太陽があった。じーっと見ていると、それは本当、凄くゆっくりと山の頭から動いて出て来るのが見える気がする。
ゆったりとした時間だった。
いいものだった。
ことん、と冷たい牛乳瓶を、庭に面する廊下に置く。瓶の外側に滲み出した水滴が、ちょっとだけ床を濡らした。
すー。はー。と深呼吸を一つ。
――ラジオ体操第一――。
うろ覚えのラジオ体操の音を、頭の中で再生してみる。
軽快なピアノの音と共に、おじさんの声も頭の中に響いた。
――腕を前から上に上げて――。
記憶にあるリズムや台詞を思い起こし、それに合わせて体を動かしていく。腕を振ったり体を曲げていったり。その場で飛び跳ねる、みたいなのもあったな。
疲れない程度の動き。だけどこれはしっかり体全体が動かせている気がする。
成程これは古い歴史を持つだけあるな。何十年も、体操とは斯くあるべき、という理念が守られてる証拠だろう。
そうして体を動かしていって、遂にラスト、深呼吸ゾーンへと。
――はい深呼吸――吸ってー、吐いてー、ごーろく、しち、はぁち。
――一通りの体操が終わって。まさに一仕事を終えた感じで、ふう、と一息吐く。
なかなかこれは、何年ぶりでも意外と内容は憶えているものだ。多分ピアノの旋律がいいんだろうな。リズムに乗れて、体を動かせる。そして朝一番で新鮮な空気を吸い込んで、体を動かすのは気持ちがいい。
さて運動も終わった。牛乳を飲もう。
眩しい朝日に照らされる中で、昨日のお風呂上がりのように腰に手を当てて一気に飲む、キンキンに冷えた牛乳。全てが清々しい感じがする。これぞ健康。いっそこのままラジオ体操第二までやってやろうかと思ったけど、流石にそっちは記憶に殆どないからやめた。
東を見ると、もう丘から殆ど頭を出していた太陽があった。眩しい朝日に目を細める。太陽は直接見てはいけません。今はまだいいけどな。
太陽から目を逸らして頭上の空を見上げると、そこには雲は殆どなくて、空色に溶けて薄青くなっていた月と、逆一番星こと明けの明星が見えていた。
うん、今日も暑くなりそうだ。今のうちに、涼しい朝を堪能しておかないとな。
という訳で。ラジオ体操二回目開始。
――腕を前から上に上げて――。
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