1-5

 家族からの話を聞くに、私は長風呂の傾向があるらしい。

「貴方はお風呂に浸かり過ぎよ」と遥かな昔から母さんに言われ続けているし、子供の頃には毎回お風呂場の様子を覗かれていた記憶もある。お風呂の中で溺れてるんじゃ――と思われていたらしい。

 認識の違い。他人の嗜好というものはそうそう理解されないものであって。軽いいざこざから大戦争まで、知恵を持ってしまった人間の業とは計り知れないものですよ。そりゃあ神様も楽園から追放するわ。

 そんな若干哲学じみた事を考えながら、身も心もさっぱりして。さて後はよく冷えた牛乳とかあれば完璧と、体にバスタオルを巻いたままで台所、冷蔵庫の前に向かう。私は風呂上がりにすぐに着替える事はしない。なんだか気持ちが悪いんだ。折角お風呂に入ってさっぱりしたってのに、暖まった体で服を着ればすぐにべったり汗をかいてしまう。この夏場なら尚更だ。これは勝手知ったる我が家だから出来る事。流石にこんなはしたない格好は、よそ様には見せられない。

「母さん、牛乳ある?」

 そう言いながら冷蔵庫の戸を開くと、戸の内側部分に牛乳瓶が二つ並んでいた。これだこれだ、お風呂上がりはやっぱり真っ白な牛乳に限る。これを腰に片手を当てて一気に豪快に飲むんだ。これもまた固定概念の産物だろうけど、好きでやってる事だからな。

 私が牛乳瓶の一つを取る様子を、料理中の母さんが横で見ていて「もう、しようのない子ねえ」と小さく笑った。よく冷えているだろう牛乳瓶の、口の部分を掴み上げた。蓋を取って、その場で腰に右手を当てて、半分程一気飲みする。冷たいものが喉を通る。火照った体にこのキンキンの冷たさは、とても気持ちがいい。飲んだ後、「っかーっ!」とおっさんじみた声が出るのもまったく自然な事よ。

 居間の方からはテレビ――野球中継の解説が聞こえて来た。どこかの誰かがいい感じのヒットを打ったらしく、抜けたー! という実況と歓声が響いて来た。野球の事はあんまり詳しくない。だから、どこのチームの誰々さんを応援するとか、そういう気持ちは残念な事に全然解らない。解ればまあ面白いんだろうけどな。現にここでも、野球中継を見ている人物、父さんが居るんだから。

 台所から居間を覗いて見てみる。ちゃぶ台を囲んで、二人が背中を向けて座って、野球中継を見ていた。丁度さっきのヒットでどっちかのチームが一点を取った所だったらしい。

 この家は今、父さんと母さんの二人で住んでいる。母さんは台所。そしてこの居間には二人が居た。一人は父さんで、この新たに出て来た三人目は、私がお風呂に入っている間にここに来たんだろう――、

「おおっ、やーはーたー!」

「うおっ、うおあっ!」

 我が愛しの弟、浅木八幡(あさぎやはた)は、私の叫びにびっくりしてこっちを向いて、びっくりしたままこっちを見た。

 飲み掛けの牛乳瓶を持ったバスタオル女こと私は、この弟の背中に飛び付くくらいの勢いで抱き付いて、しゃがみ込みながら手をその頭にやって、かいぐりかいぐりと撫でまくってやった。

「折角の感動の再会だぞっ。挨拶しに来いよーハグしに来いよー」かいぐりかいぐり。

「やめろっ、やーめーっ!」

 もがく八幡。だけど右手は頭を抑え、左腕は首元を完全ロックしてるんだ。もう容易には抜け出せない体勢に入ってしまっているぞ。姉なめんな。

「ほれほれ、あんまり動くなよ。このバスタオルが外れてしまうぞ」

「だったら離せー!」

「うん、だが断る」

 我が尊敬する漫画家の決め台詞を言ってやる。姉としては、例え恥ずかしい思いをする可能性があるとしても、己の体を武器にしてでも、弟をいじらなければならない時があるんだ。

「……お前、まだ牛乳か」

 野太く静かな声が横から。八幡の隣に居た父さんのものだ。その台詞は、私が今持っている中身半分くらいの牛乳瓶を見て言ったんだろう。

 この父さんはまるでどこかの鉄道員の如く「自分、不器用ですから」とでも言い出しそうな雰囲気がある。無口にして口下手、誰に対しても家族に対しても本当不器用。大学に進んで家を出るまで、一緒に居た私でも一日の間に声を聞く割合は、父さん以外が九割九分、酷い時には「おはよう」と「おやすみ」の二言のみしか聞かない、という日も多々あった。私と八幡は、どうやら母さんの性格に似たらしい。

「お風呂上がりはやっぱり牛乳に限るでしょー」かいぐりかいぐり。

「二十歳過ぎだろ。ビールにしろ」

「さっぱりしてからの夕飯前にビールラッパ呑みしろって? 嫌だよおっさんくさい。すっきりばっちりまずは牛乳でしょ」かいぐりかいぐり。

「……ずっと子供だな、お前」

 思いっきり皮肉が含まれて聞こえた。でも皮肉のつもりで言ったんじゃないだろう。父さんはそんなユニークな性格じゃない。不器用過ぎて皮肉や冗談を言える器用さだってないんだ。皮肉に聞こえたと思った理由があるなら、それは自覚があるが故に、というより他にない。

 言わせるな恥ずかしい。体格の事は言わせるな。

「っていうかいい加減放して……」

 八幡が暴れるが故に首に回していた腕を、ぱんぱんとタップされる。むう流石に少しいじめ過ぎたか。

「だったらさ、お姉さんにごめんなさいって謝ったら放してあげよう」

「なんでさ!」

「感動の再会後回しにしたからに決まってるでしょーが。なんだよ私より野球なんて見ててさー」

「風呂場に突入するのを推奨するってか!?」

「大昔はさー、一緒に入って洗いっことかもしてあげたのにさー」

「ごっ――憶えてねーってそんなの! ほんと大昔だろ一桁の歳の時とかの昔だろそれ」

「一桁だろーと二桁だろーといーじゃねーかよーキョーダーイ」かいぐりかいぐり。

「少しは恥じらいを持てー!」

 うーん、どうも言われた通り、私の恥じらいって八幡の前だと無茶苦茶薄まってしまうらしい。

 例えば以前、母さんからの要請で、八幡の一人暮らしの部屋に突撃どっきりをしに行った事がある。一人で上手くやっていけているかの抜き打ち確認だ。その時も開幕抱き付きからの羽交い絞めかいぐりを繰り出してしまったし。いやいや、愛故にの行動だ。これを弟愛と言う。犬や猫やらがじゃれ合う感じ、と言ってもいい。どうだ微笑ましいものだろう。問題なんて何もない。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る