F 曰くの刻より、愛を込めて

 夏の季節の、直前の事。

 色々なものが、突然になくなる。そんな事を少しも考えなかった訳じゃない。

“有る”ものは、いずれ“無く”なる。

 例えば、それは既になくなっているじゃないか、と、誰かに、誰にでも言われるものだったとしても、


 それは、確かにここに居た。

 誰に忘れられても、“私”は確かに憶えている。




「そろそろ戻るからな」

 ずっと観覧車の窓に引っ付いてる里香さんとコロすけを抱き上げて、鞄の中に戻す。流石にここから人だらけの所に降り立った時に、動く人形を解き放つ訳にはいかない。

 二人は大人しく鞄に入った。コロすけが、鞄を閉める最後まで、こっちを見つめてるように見えた。


 ――そして部屋にまで戻ったら。


「なんで動かなくなったんだろう……」

 ちゃぶ台の上に、仰向けに置いてある里香さんの人形を囲んで、俺と姉ちゃん、そしてコロすけが居た。

「さてね」

 姉ちゃんが、とても珍しく真顔で言う。けれど――。

「さてねって……」

 里香さんは、遊園地に行って、帰って来てから動かなくなった。ならその中に原因があるとしか思えない。

「多分だけど、この子は気付いたんだよ。手を離せる事に」

 手を離せる事……言ってる事がよく解らないけど。

「元々命がなくなったってのはこういうものなんだよ。よっぽど強く何かにしがみ付いていないとこっちには居られない。そうする必要がないって解っちゃえば、後は簡単、しがみ付く力を抜くだけでいいんだから。あんたは婆ちゃんの事覚えてない?」

 ……婆ちゃんは。今はもう居ない婆ちゃんは――。

「あの日、婆ちゃんって最後に父さんが帰って来るまで起きてたんだ。目を見開いて。まばたきもしてなかったよ。なんでそこまでして、って思ってたけどね」

 ……そうだ。そうして、父さんの顔を見て、ほんの少し後に動きが止まった。婆ちゃんの息子、俺達の父さんの姿を一目見てから、逝った。

 しがみ付く力を抜くだけ。実際にそれを見た事があったんだ。

「あんたはどうよ、弟」

「え……?」

「もしかしたら、今これがぎりぎりのラインなのかも知れないよ」

 もし、ここからもう一歩進んだら――。

 姉ちゃんはその先は言わなかった。「何かあったら連絡しなさい。いつでもすぐに行ってあげるからね」それを最後に言って、大学のある自分の町へと帰っていった。そう、俺も姉ちゃんも自分のやるべき事がある。それは解る。だけど――、

 どういう意味なのか解らない。ぎりぎりのラインって、それはどういう線引きなんだ。

 畳の上、仰向けになったままの里香さんを見て、そのまま幾ら考えても解らなかった。その一線を越えたとして、一体何が起きるのか――。

 あの時、里香さんは空を見ていた。空は、天だ。里香さんは、もしかすると、空のずっと向こうにある所を見ようとしてたのか――。


 次の日になっても里香さんは動かない。

 なんだかこうして動かないと、おかしいし。……怖い。

 この部屋に来て、幾らも怖い思いはしたんだけど、

 動いていたものが動かなくなる。こういう怖い思いをしたのは初めてだった。

 動かない里香さん。それを見ている最中、

 くいくい。

 と、コロすけが服の裾を引いた。

「なあ、お前も寂しいだろ」

 ? と首を傾げる。

「なんとかしてやってくれよ。いじけてないで、いつも通りに掃除でもなんでもやってくれって」

 首を下に。俯く。

 はあ。なんでだろ。

 なんでこんな気持ちになるんだ。

 普通はこれが当たり前なんだ。何もおかしい事がない。妙な異常が一つ消えただけだ。

“人形が動くなんて現実にあるものか”

 ――人形(にんぎょう)は人形(ひとがた)。言葉の通りに人の形として、それを模したものを――。

“人×が動くなんて現実にあるもの――”

 ――。




 見知らぬ土地での、一人暮らし。

 不安――というよりも、少し怖かった。

 何かあったらどうしよう。俺はちゃんと対応出来るのかと。

 でも少しして気付いた。

 なんにもない事も、意外と怖いものなんだと。

 初めて一人だけの所で眠る。その時には、心の底に沸いて出た、悪い思いや嫌な思い、全部を無理やり押し殺して無理やり寝た。強がった。

 今更怖い、寂しいなんて言っても、仕方がない。どうしようもない。誰も居ない。このまま先に進むしか――。


 ここに来て、

 少なくとも退屈はしないで済んだ。

 都会は寂しい所だった。

 でもそんな事を思う暇もなくなったのは、悲しい事に生きてる人間のお陰じゃなくて――。


 ――ぅぁぁ……。

 ちゃぶ台の上にある里香さんの人形。それを見続けてた時に、不意に頭上から妙な声が聞こえた。

「お逆さん」

 天井から、垂れ下がる黒いのが。髪の毛だ。天井から頭が出て来て、とても長い髪の毛を垂れ下げている女が居た。勿論そんな変な事をする人間は居ない。居ないんだから、これは人間の仕業じゃない。じゃあこれはなんなんだ。天井から垂れ下がっている人間っぽく見えるこれを、どういう存在だと証明出来るんだろうか。その上唸ったり、髪の毛をざわざわ動かしたり、サダコみたいな眼で見たり、生霊になった俺を掴んで投げ飛ばしたりした。

 それは一体なんなんだ。俺にはこれを、“幽霊”としか定義する事が出来ないぞ。

「なあ、お逆さんなら解るか?」

 里香さんが今どうなっているか。

 問い掛けてみても、答えは何もない。

 声もしない。

「お逆さん?」

 見上げると、そこには天井以外の、何もなかった。

 当たり前だった。

 珍しくない筈だ。突然現れて、突然消えてたりする。

 そういうものだ幽霊は。解ってる。

 解ってる。

 だけど里香さんは動かない。


「にゃあ」

 窓の外に茶トラのヒトシサンが居た。いつもみたいに、窓枠から飛び降りて入って来る。

「ああ、ちょっと待ってろ」

 いつもみたいに冷蔵庫に仕舞ってあった魚肉ソーセージをやった。食った。

「お前でも解らないかなあ」

 食い終わって部屋の隅で寝転ぼうとしてた、それが止まって。

 ヒトシサンが俺の方に寄って来る。

「うにゃあ」

 一声鳴いて、俺の肩に跳び乗って来た。

 ちょっと目眩がして、それから部屋の中に色々と見えない筈のものが見えた。

 ――猫の眼には死者が映る――。

 つまりそういう事。以前にもそんな事があった。

 この部屋は、そういうもので溢れてる。だから最初、不動産屋はそれをひた隠しにして、家賃も安く、敷金を高めにして俺が入居してすぐに出て行くのを期待してたらしい。

 その期待は裏切ってやった。最初の投資は高く付いたけど、条件にしては低価格。今ではもう元は取れている。お金の面ではありがたいけど、だけど確かに、ここには現実には考えられない、色々な念が渦巻いてる。

 色々と居る。

 そしてその目に映った里香さんは、

 里香さんには、その色々な所が全然見えない――。

「おあぁ……」

 一声鳴いて飛び降りる。俺の方を少し見ていて、それから窓際に跳んで、そのまま行ってしまった。

 ……解ってるんだろ、言わせるな。

 そう言われた気がした。

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