12-2

 後悔先に立たず、という諺(ことわざ)がある。

 後に悔やむ、と書くものが、何かをするよりも先に出てくる訳がないんだ。

 窓を開けるという行為も、窓を開ける前に悔やむ事が出来る筈がない。

 ……という訳で、後悔する原因をもう一度確認しよう。

 簡潔に言う。蜘蛛が二匹に増えた。

 夕方、赤く染まる光が差し込む窓から、出て行くどころかもう一匹でかいのが入って来たんだ。

 しかも今度は、縞々模様の細い足が素敵なジョロウグモ。

 通称で表現すると、今、女王さんと軍曹さんが、天井にへばり付いたまま対峙して睨み合っていた。

 状況が悪化したんだ。良かれと思って窓を開けたのに。

 女王の方は「わたくしに触れないでいただけます?」とでも言わんばかりに、一番先端の、二つの綺麗な生足を持ち上げて威嚇してるし、軍曹の方は「俺に触ると怪我するぜ」とでも言うみたいに、鍛え抜かれた前足を舌で舐めていた。

 喧嘩ならよそでやって欲しい。

 互いに隙を窺ってるからか、睨み合ってからはどちらも移動する気配がない。

 でも、いずれはその膠着も破られる時が来るだろう。

 そうするとどんな惨劇が起こるのか。100パーセント予想出来るのは、力尽きたどちらかが、或いは組み合った両方が、天井からぽとりと落ちてくるだろう、という事。

 真下に落ちるならまだいい。けど確実に、両者とも暴れた末に落ちてくるだろう。移動を繰り返した結果そうなるか、暴れた勢いで斜めに行くか、真下に居なければ安全――という保障がない。

 ――そして、そこに意識が集中していたからか。俺はまだ、窓を開けっ放しにしていた事を、すっかり忘れていた。

 そこから静かに忍び寄る影。それが睨み合いの横にまで現れた。

 女王さんと軍曹さんが気付いた時、そのソルジャー――兵隊さんことコガネグモが、隙あらばどちらかを一撃で仕留められる位置にまで近付いていた。

 すると、これは厄介な状況になる。その兵隊さんに対して、女王さんと軍曹さんは体を横に向けている。即ちどうやっても兵隊さんに対して不利なんだけど、だからといってどちらかが兵隊さんに向きを変えれば、それは今まで睨み合ってた相手に横を向ける事になる。兵隊さんは有利かと思いきや、どちらかを襲った時点で、もう一方の相手には致命的な隙を晒してしまう事になる。

 これでは誰も動けない。最初に動いた奴が、まず確実にやられてしまう。

 三竦みが成立してしまった。

 こうなると、結果は全く解らない。生き残るのは一体誰か。或いは平和的解決が存在するのか。

 でももう大分暗くなったな。赤い夕日の光も差し込んでこないや。だから電灯の紐を引っ張る。かちっと。

 ――それが引鉄になった。光を求める人間の習性は、彼らにはお気に召さなかったらしい。

 ぱっと灯りが点いた瞬間。西部劇とかで、投げたコインが地面に付いた瞬間みたいに、勝負が開始されてしまった。

 うわあなんて事、切っ掛け一つで大変な事に!

 三匹同士が絡み合い、糸など出して巻き付けていって、互いが互いをがんじがらめにしていった。そして勿論当然ぽとりと落ちてきた。

 床に落ちた、今は一塊となった蜘蛛三匹は、三匹が揃って三倍の大きさになって動けないでいる。今はもう繭みたいになってしまった。

 ……となるとこれ、不戦勝で俺がWIN?

 このまま外に摘み出せば、何も被害を被る事なく事態は解決する。

 よし、やるなら今しか。

 ――ぅぁぁ……。

「待って下さい」

 突如現れた二つの声。

「それに近付いてはいけません」

 天井と、押入れから、それぞれ曰く付きが出て来た。

「里香さん……と、お逆さん?」

 なんだこれ、こいつらが一緒に出て来るって最近だと珍しいな。

「追い出しちゃいけないの?」

「いいえ、でも危ないんです」

 なにそれ、ちょっと解らない。

「もうすぐ、解ります」

 絡み合った蜘蛛は、もう形も見えない。糸はもう完全に繭みたいになって、

 ……あれ、でもその繭、ちょっと大きい……? いや元から大きかったけど、もっと大きくなってないか? 蜘蛛三匹分の大きさだったのが、蜘蛛が十匹――いやそれ以上の大きさになっているように見える。間違いなく。

 どくん!

 鼓動みたいなのが聞こえた気がした。その瞬間、更に繭が大きくなったみたいに見えた。

 どくんどくん。

 ああ解る。なんだか解らないけどやばそうなのは解る。

 繭が、身じろぎするみたいにもぞもぞ動いて、

 ぴし。

 少しだけ、穴が開いた。

 そしてそこから、黒いのが、足が、蜘蛛の足が、でっけえのが、

 ぴしぴしぴし。

 繭の裂け目が大きくなって、そこから更に幾つも足が覗いて出て。

 そして遂に、繭が割れて本体が姿を現した。

「でっけえ!」

 こんな蜘蛛見た事ない。特徴を述べるなら、足が長く、縞模様があって、胴体もぶっとい。さっきの三匹が、まさに合体したみたいな姿だった。

 そして何より、でか過ぎ。その大きさは、里香さんの倍くらいある。もしかして、あれは繭の中で融合でもしたのか?

 冷静に考えたら、「ないだろ」って思う。でも現実に目の前にそれが居る。

 ……その時、頭の中で、過去の発言が反芻(はんすう)された。


 ――もっとレベルアップせにゃ……レベルアップせにゃ……せにゃ……。


 ……あれかあ。そのエールの結果生まれたのが、曰くっていうか妖怪じみた存在なんだと。冗談じゃない。妖怪蜘蛛ってのは大昔から語られていたりするんだけど、まさか現実に見る事になるとは。

「退治しないとやばいよなあ、里香さん」

「はい。ですが、流石にこれは」

 手に余るか。そりゃ里香さんよりずっとでかいんだからな。

 ――ぅぁぁ……。

 その時声が。そして黒い髪の毛が、蜘蛛に向かって伸びていく。

 蜘蛛が、それを敵と見なしたんだろう。威嚇する構えを取って、寄ってくる髪の毛を前足で払おうとする。

 負けじと、お逆さんの髪の毛が更にわさわさと広がっていく。隙あらば、蜘蛛の足を絡め取ってしまおうとするみたいに。

 すげえ。お逆さんが戦ってる!

 そうだ。ここは俺達(認めてないけど)の部屋なんだ。余所者がでかいツラしていい場所じゃねえ!

 しゅるしゅる。

 ずずずずず。

 糸と髪の毛で争ってる。

 ちっちぇえ怪獣大決戦とか見てるみたいだけど。何だろう、題するなら、クモラ対ビオランテって所か。

 ……などと関心してる場合か。女の子(?)が戦ってるんだ。なのに俺はなんていう体たらく。このまま何もしないでいいのか!

 出来る事を探して、辺りを見回す。とっさに目に入ったのが、殺虫スプレー。あんなでっかいのにも効くのか解らないけど、これで怯ませるくらいは出来るかも知れない。

 噴射口を蜘蛛に向ける。近付くのは怖いけど、女の子(?)達は今戦ってるんだ!

「ええい!」

 スプレーのトリガーを押す。白い霧が勢い良く蜘蛛に掛かっていく。

 ぴぎゃああああ――じたばたじたばた。

 ……あれ? かなり怯んでない?

 スプレーを噴射しながら、更に近寄る。

 じたばたじたばた! じたばた、じた、ばた……。

 ころり。

 ひっくり返って、最後の足掻きで弱々しく動く足も、やがて動かなくなった。

 ……勝っちゃった。

「凄いです、ご主人様」

「へ? は、ああ、うん」

 どちらかと言うと、俺はこの殺虫スプレーこそ凄いと思うぞ。これが人類の力なのか。幾らでかくなっても所詮虫は虫なのか。或いはやっぱり、夜蜘蛛は何かと殺されてしまう定めなのか。

 と、

 ころりしてしまった蜘蛛が、更なる動きを。

 一回ぶるっと震えたかと思ったら、どんどん体が崩れていく。いやそれは小さな蜘蛛だ。崩れていった体が無数の蜘蛛になっていた。

 うわこれはもっとまずい事に!

 まさに蜘蛛の子を散らしたそれは、がさがさと足音を立てて、一目散にまだ開けっ放しの窓に向かっていって、次々消えていった。

 後には何も残ってなかった。あれは群体だったのか。

 俺は、開けっ放しの窓を、即行でがらがらぴしゃんと閉めた。


 でかい蜘蛛は、あれ以来出て来ない。

 小さい蜘蛛ならしばしば出て来るけど、あれはあの時逃げそこなった子蜘蛛なんだろうか。

 だとしたら、余計な一言は言わないようにしておく。こいつが益虫だとしても、あんなでっかいのにまたなられても困るからな。

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