12ー1 わさわさ

 芥川さんの書いた小説に、蜘蛛の糸、という話がある。地獄に落ちたどうしようもない悪人を、たった一つ、蜘蛛を助けたという善行があった為に、お釈迦様が蜘蛛の糸を垂らして救ってあげようとする――っていう。

 蜘蛛は益虫だ。だから朝蜘蛛は殺しちゃあいかん、と田舎じゃ散々言われてきた。そう言いながら、夜蜘蛛は問答無用でぶっ潰していく婆ちゃんの雄姿を見て、それはどうなんだろう……と子供心に思ったけど、

 今なら解る。なんとなく。

 夜ってのは怖いのが出て来るイメージがあるけど、あんな化け蜘蛛が出るってんなら、そりゃあ潰しといた方がいいって思うだろ。

 まあ遅かったんだけどな。


 夕方頃の時間。

 空も綺麗に赤く染まっていて、それと共にここも赤色な部屋になっている。

 そんな時に、壁にもぞもぞ動くものが目に入った。

 節足動物門鋏角亜門クモ綱クモ目。八本足で、昆虫とは異なる――、

 まあ平たく言えば蜘蛛だ。

 見付けた時にはちょいとびっくりしたけど、正体が解ればなんて事はない。正体の解らないものが居るよりよっぽどいい。

 しかし都会の蜘蛛ってば、妙に小さい奴ばっかりなんだよな。田舎だと、ジョロウグモとか、コガネグモとか、アシダカグモとか。でっかい奴をよく見掛けてたっけ。通称として、それぞれ女王さん、兵隊さん、軍曹さんと、地元では渾名されていた。(例文――台所で軍曹さんがゴ○○○に齧り付いてた!)

 田舎では、まさに歩くナントカホイホイであり、外見や動きにさえ眼を瞑れば我ら人類とは利害の一致する友好的種族だ。

 でも、今この部屋で見付けた蜘蛛はまだちっこい奴だったんだ。大体体長一センチ程度。こんなのじゃナントカホイホイにはならんだろ。良くてダニホイホイが精々だ。

「もっとレベルアップせにゃ駄目だろ」

 動き回るちっちゃい蜘蛛の背を突っ突きながら、一つエールを送ってやる。せめてナントカホイホイくらいにはなって欲しい。欲を言えば曰く付きとかもホイホイしてくれるといいんだけどな。


 ――この言葉。後で猛烈に後悔する。

 こんな変な所で、迂闊な願望とか持ってしまったら。それが突拍子のない、限定するなら曰く関係に結び付くものだとしたら。果たしてどうなる事やら――。


 都会だと、アシダカグモを見た事がないっていう人も多く居る。だからそいつの特徴などや、脅威などを説明しても解りづらい所があるだろう。

 益虫なのは確かだ。田舎では大変お世話にもなった。俺が某害虫の脅威に怯えていた時、どこからともなくそれがやってきてその虫を一瞬でハントしてくれた。脅威Aが脅威Bに変わっただけ、という考え方もあるけど。

 だから一言言っておく。

 アシダカ軍曹と対峙する時は、充分に心の準備をせよ。

 あいつは何はともあれインパクトがある。そして素早い。俺も正直、不意打ちで出てきたらびびる。詳しい描写はここでは避けよう。気持ちのいい話でもない。

 そのアシダカさんが、ある時、部屋の天井、木目に同化するみたいにへばり付いてた。

「うおっ」

 見付けてびびった。でも日常的な事で当たり前にびっくりするって、逆にこの部屋では新鮮だな。

 なんて、日常の尊さを噛み締めていても仕方ない。とにかく、軍曹は色々インパクトが凄まじいんだ。例えば、そうだな。ある時壁を見てみると、赤く染まった手の形が付いていた――。

 曰く的な例えしか浮かんで来ない俺の頭もどうかと思うけど、とにかくそんな感じに匹敵する。

 赤い手の形と違う事は、軍曹は今、確かに生きてここに居る、という事。……生命賛歌は素晴らしい事とは思うけど、誰にだって苦手なものの一つや二つあるだろう。食べ物でさえ好き嫌いがあるんだから。

 と、現実逃避に走ろうとする頭を落ち着けて。

 あの軍曹をどうしよう。朝蜘蛛、夜蜘蛛の話はあるけど、昼蜘蛛の対処法は聞いた事がないなあ。いやそんな問題でもないか。出来るならば、平和的速やかにお引取り願う事が一番いい。

 取り敢えず窓を開けようか。蜘蛛の糸のお話のように、無駄な殺生はしないに越した事はない。そうして放っておけば、勝手に出て行ってくれる事もある。

 窓をがらがらと開ける。

 これで良し。こうしてしばらく待ってみる事にしよう。

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