9-2
――トイレの怪談。
といえば、一般的に何が出て来るだろう。
ハナコさんとか。紙をくれとか。扉の上の隙間から覗いて来るやつとか。
色々な話があったけど。
……何も、これが全部纏めて来なくてもいいんじゃないかな。
……用事も済んで、さて遅いし帰ろうかと、
その前に、ちょっと、ご不浄に。
いそいそと、近場のトイレに入る。
誰も居ない。男性用便器が五つ並んでいる。その向かいには部屋で区切られた西洋式便器。
用を足そうとして――何も考えてなかったけど、ふと思う。
人間、なぜだか端っこを好む傾向がある。
例えば電車。都会に出てよく見るようになったのは、席が空いてると取り敢えずその端っこに座る。たまに見るのは、端っこに誰かが座っている、その隣に座っている奴が、端っこに居る奴が駅で降りて居なくなった途端に、その端っこに座り直す――という現象。
なぜだろう。人は端っこがいいのか。本能がそれを好んでるのか。真ん中は嫌だという、理屈では説明しがたい何かが、人の遺伝子レベルでは存在してるのか。
考えてみて、敢えて真ん中に行く事にした。深い意味はない。どうせ誰も居ないんだしな。
ズボンのチャックを開け、用を足す――その最中、背後から、妙な気配が。
……背後は個室。扉が開いてるから、中が見えていて、誰も居ない。
それで気配がしたって事は、十中八九、“何か”が居るって事なんだろうなあ。
背後に何かがっていうのは落ち着かない。これが極端になると某ゴルゴみたいになるんだろう。
――ねえ。
声がした。
小さい子みたいな声だ。女の子の声。
……いやちょっと待て。
男子トイレで。男子が用を足している前で。女の子が居るってちょっと待て。トイレの霊といえばハナコさんだけど。この場合ハナオ君でないと、ちょっと問題があるのでは。
――ねえねえ。
また声だ。やっぱり女の子の声に聞こえるなあ。
――赤い紙がいい? 青い紙がいい?
何やら別の話が混ざっていた。
こんなの、まともに答えない方がいいに決まってる。と、少し考えてみて。
「いまよういろをダンボールで」
――え。
「いまよういろをダンボールで」
――え、えっと、なに?
「いまよういろをダンボールで」
大事な事だから三度も言ってやって、後ろを向く。個室の中には誰も居ない。けどその個室の上、仕切りの上から何か顔が覗いていた。黒い影になっていてよく見えなかったけど。
――いまよういろ……。
「なんだ。お前はいまよういろを知らないのか」
――し、しってる。いまようの色でしょ。
「いまようとは?」
――……。
「流行の色という意味だ。因みに今様色は昔の流行の色だから、今の今様は知らないな」
――う、うう……。
「色をネタにするんなら、色々と勉強しろ小娘」
上手い事言って締め。
すっきりしたのでトイレを出て行く。ぐすぐすと、ちょっと泣きそうな声が後ろからしてた気がした。
時間も遅くなって来ると、変なのが沸いて出て来るのか。
嫌なんだけどな。いい訳がない。間に合ってますから。
このトイレから出て、真向かい、窓の向こうには、なぜかニノミヤキンジロウの像がある。勤勉者の代表的な像が。
……あった。筈。
台座だけあって、その上がない。
……ごと。ごと。
廊下の奥から音がして、そっちを向くと、案の定。何かが来た。
本を読みながら、木の束を背負ってるキンジロウさん。
ごと。ごと。
こっちに歩いて来る。
いや足は動いてないから、擦り寄って来る、か。
じっと見つめる。俺。
……どうでもいいけど。本を読みながら歩くのは。
目の前まで来た時に、すっと足を差し出してみる。
がっ。ぐら――ごたん!
……引っ掛かって、やっぱり思いっきりこけた。
「ちゃんと前を見て歩かないと危ないだろ」
とはいえ俺のせいでもあったから、起こすのを手伝ってやる。……むっちゃ重い。石像だけに。なんとか元通り立たせると、本の上の部分がちょっと欠けていた。
……やばいかな。でもこれで視界は確保出来たのか。
本を読む体勢そのままで、またそいつはごとごと歩いていった。
「気を付けて行けよキンジロウ」
返事はなかった。きっと彼は無口なんだろう。
――さて。
これらは凄まじく良くないぞ。なぜにこんなに、今日だけで色々怪談系の体験をさせられるのか。自分の部屋じゃない、大学の校舎内で。
さっさと外に出ようと思う。というか帰りたい。妙な話に巻き込まれても、俺はゴーストバスターズとかじゃないからどうにも出来ないぞ。俺を襲って食べても美味しくないよ。
という訳で急ぎダッシュで玄関に。外は黄昏色。閉まってる扉へと一直線――と、
一瞬お約束なまでの嫌な予感がして、
がんっ!
……痛い。
扉に体当たりをかます事になった。
かましても、それで扉が開いたりしなかった。
鍵?
そんな馬鹿な。大学なんだぞ。戸締りとかには早くないかい?
がちゃがちゃ。
押しても引いても開きやしない。
……閉じ込められた。
この学校の怪談満載の所に。
――かちかちかち――。
その時、背後から、何かかちかち音がした。
時計? じゃない。そもそもそんなものの音が急に湧いて出る筈が――。
後ろを見る。輪っかがあった。廊下に、鉄の? 自転車の? 車輪の剥き出しみたいなのが。
下の方に棒があって、ちょっと上がっているその先に、黒い、女の子みたいなのが、
――かちかちかち――。
その棒で、輪っかを押すみたいに、黒い女の子は廊下を横切っていった。
……、なんだっけ。どっかの絵で、こんなのを見たような。いやルパンだっけな。有名な絵だった気がするけど、名前がちょっと出て来ない。
いやいやそんな疑問は今はいい。問題は、遂にここまで怪談の魔の手がやって来たのだという事。
どうなるんだ。これはこのままこの一晩閉じ込められて、七不思議全部を見せられるのか?
冗談じゃない。今すぐここから出て行きたい。だけどこの玄関が開かないとなると――。
……、非常口。
非常口はどこだ。今現在がまさに非常なんだから、そこを使うしか。
駆け出す。とにかく変なものに出会う前にとっとと逃げ出さないと。まともな奴が全然居ないんだ。人間がどこにも居ないなんて。
……そして見えた。扉に向かって駆け出す人間の図、が描いてある非常灯。当然そこには扉があるんだけど。
やっぱりと言うか、そりゃそうだよな。俺でも誰かを逃がさないとなったらまずそこ押さえるわ。
それは非常口の絵と同じような姿で、非常口の真ん前に居た。黒い輪っかと、さっきの黒い女の子。
どうしたらいいんだ。こんなの近寄りたいと思えない。何されるか解らないもの。そこに陣取ってるんだから、近寄ったら何かをして来るんだろうけど、どういう意図で、どういう手段で俺を止めようとするのか、全然予想出来ないから怖い。
仕方ない。進路変更。横に階段があったから、そこを上る。二段飛ばしで。
……だから、最後の一歩が一段しかなかった事に気付いて、悪寒がした。二段飛ばしだったんだから、最後が一段だったという事は、その段数は奇数という事になる。魔の十三階段って話があるけど、今俺は何歩で駆け上がったんだっけか。いやあんまり深く考えない方がいい。
そして踊り場。こんなもの今までなかっただろ。でっかい鏡!
人の姿を丸ごと映せる大きい鏡。どういう意図があるんだよ。しかもよく見ると、鏡には俺の姿があって、その後ろに、気付くともう一つ鏡があって、つまりは合わせ鏡で、そこには無限の俺が――。
勘弁してくれよ。と、鏡の真ん中から逃げようとして踊り場の窓の方に、
すかっ。
え。
窓が開いて。
すかっ、て。体が。ここは階段の上――。
―――
「はっ」
気が付いたら、目の前には校門があった。
……外だ。
太陽が殆ど沈んでいて、一番星が空にあった。
かあー、かあー。
カラスが鳴いてる。
夕暮れで、カラスが鳴く。ああ、帰ろうかと、そんな気分になる。
というか一刻も早くここから出たい。カラスが鳴くのはいい。けど電線に何羽も止まっていて、それがみんなこっちをじっと見てる気がするのはなんでだ。俺が何かおかしく見えるのか。カラスから見て。
「はいはいすぐ帰りますよ……」
まあ家に帰っても今の続きみたいなもんだけどな。
本日の教訓。
関わってしまうと逃げられない。
怪奇とはそれを認識する人間の元にどんどん集まって来るものである。
慎ましく穏やかな生活を得る為には、まずは彼らと、お友達から始めてみるしかなさそう。
――因みに、七不思議の最後の一つは、詳しくは聞いてない。
何やら、旧校舎が関係してるらしいんだけど――。
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