第2話夜明けを迎える前に

自己陶酔にもほど遠く冷め切ったおまえの瞳は夜よりも昏く、涙を浮かべることもとうに忘れて鏡を見つめる。虚ろな己の裸身の姿を映して、やがて大鴉がその肩に止まって鳴き声を上げるのを抱擁して、羽毛をひとしきり撫でる手になけなしの慈愛を込めて、その身に頬を寄せる。そうして越えてきた夜はあまりに長く、そして静かに横たわって、無音のうちに孤独を紡ぐおまえの心音は、死までの距離を縮めていく。かつて交わした誰かの肉体をなぞるように、記憶を辿って、やがて無数の扉が開かれてゆく。その痛みに耐えかねて大鴉に今夜越境する日付を問う。2355ネン、7ガツ、28ニチ、デゴザイマス。律儀に応える大鴉にはAIが仕込まれており、永遠に2355年7月27日の夜のうちに留まろうとするおまえの時を進めようとする。待ってほしい。まだ、夜明けを迎えられそうにない。スイミンヤクハ スデニ  アナタサマノ オカラダニ チュウニュウ サレテイル ハズデス。ネムレナイノデアレバ ハーブティーヲ メシアガルコトヲ オススメシマス。ちょうど一月前に主治医によって注入された薬も、そろそろ効果が切れようとしている。ハーブの調合師からあがなったハーブティーを淹れようと、裸身にガウンを羽織って寂れたキッチンへと向かう。生薬やハーブの瓶ばかりが置かれた棚からカモミールをブレンドしたものを選んで湯を沸かし、2230年代のティーカップを手に取って、すべるような手つきで淹れる。たちまち甘やかな林檎の香りが満ち、大鴉は羽を広げて首を傾げる。それが彼なりの親愛の表現だった。ずいぶんと人間じみている。人間嫌いの主人であるおまえの唯一の友として飼われているだけに、覚えなくてもいい人間めいた愛想まで身につけたのだったが、おまえはにべもなくカモミールティーを口に運ぶ。夜明けが近く、空は白みはじめているのに不眠の影は一向に去る気配もなくおまえの頭のうちにわだかまり、そこに住まう人々の群れがぼんやりと列をなしておまえの額から、頬へ、胸へ、腹へと降りてゆく。それを手で打ち払おうとしてカップに手が触れ、音を立てて床に砕け散ってカモミールティーがこぼれる。祖母から継いだものなのに、と言葉がこぼれて、さらに祖母の記憶が結ばれてゆく。異常気象によってもたらされた大嵐で水没したこの街を建て直すのに要した時間と労力、そして犠牲となった罪なき人々の名前、失われた在来種の昆虫や変化した植物の生態などを記した本を、祖母は後生大事に抱えては、絵本の代わりにおまえに読み聞かせたものだった。そこにあった植物の名を、一つひとつ誦じて、最後に祖母の名を呼ぶ。オバアサマガ セイゼン ノコサレタ データガアリマス。サイセイシマスカ? 大鴉が濡れた羽毛をふるわせて、その瞳が赤く光る。再生してくれ。カシコマリマシタ。立体映像になった庭に祖母が立ち、おまえにやさしく手を振って、あなたは過ちを犯さないように生きなさいね、いつだって身体を傷つけられるのは女の子なのだから、あなたの魂に悔いのないように……と彼女のお定まりの言葉が延々と繰り返される。三回目でリピートを切って、カップの破片で傷ついた指先が祖母の虚像を鷲掴みにする。ショウキョ ナサイマスカ? ああ。魂に救済はあると思うか。ワタシニハ ワカリカネマス。そうだな。マモナク 2355ネン、7ガツ、28ニチ、アサ5ジ ニナリマス。朝は救いをもたらさないよ。ただこのどうしようもない夜明けの光に焼かれて眠ろう。おまえは傷ついた指先を大鴉に伸ばし、その頭をなでる。眠る前に聞かせてくれないか。私にとっての善き記憶を呼び戻してくれないか。カシコマリマシタ。そうして映し出された立体映像には、おまえと今は亡き父が浮かび上がり、ふたりは旧式の列車に乗って何事か言葉を交わし合うが、その内容は判然としない。車窓にはかつて生えていた木々と、その奥の丘陵地帯に点在する湖が見える。その光が反射しておまえの瞳が煌めき、おまえの肌を渡ってゆく人々の群れの影をかき消して、肌を照らして清めてゆく。


BGM:Billie Eilish/HIT ME HARD AND SOFT

Hommage:bjork/Hidden Place

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