翼あるものたち

雨伽詩音

第1話翼あるものたち

忘失してしまった夏の記憶をなぞろうとして、長雨の暗がりのうちにそのかけらを見出すとき、私はもうすでに去ってしまったダニエル・ジャン・バレットの残した絵の数々を思い起こす。両性具有の天使ばかりが描かれた絵のうちに、どちらともつかない心を宿して、すでに亡いたましいのふたごを見出したのだったか、朧げになった記憶のうちに翼を広げる天使たちが私に終末の喇叭を吹き鳴らす。世界はすでに氷海で満たされ、この小さな家の灯火も消えかかっている。わずかばかりのビターチョコレートを手に書き綴った日記の多くも、だんだんとその字が薄れて読めなくなってゆく。あまりにも永く生きすぎた私に、もはや交わる友はいない。足元に眠る大鴉の剥製をそっと机上に乗せて、彼に言葉を託そうとぽつぽつと語りはじめる。あの夏に降り続いた大雨で、私は家族を失い、友と別れて北を目指した。ほどなくして訪れた永い冬に、世界は少しずつ腐食されて、もはや半径数百キロメートルの間に生きる人間は私ぐらいなものだろう。ゴユウショク ヲ メシアガリマスカ? 大鴉に仕込まれたAIが私に語りかける。いつかの時代の物好きが作らせた悪趣味な執事ロボット、名前はCyber Crow 046785、略してCCだ。家を出る時にガラクタの山の中から助け出して、そのまま旅の道連れとなった。夕食はいらない。もうないんだ。天使になりそこなった私たちに残された道は、ただ生き存えること、そして誰かに届かぬともしれぬ言葉をおまえにことづけておくことだ。不死の知能を死せる体に宿したおまえを、その歪さを、私は愛する。共に眠り、夜明けのうちに目覚めて、また日記を綴ってCCに語り聞かせる日々がつづく。かつて存在した夏至の夜に、ダニエルと交わした抱擁と、その先の記憶も、亡き父によって痛めつけられた肉体の傷跡を、翼に変えてくれたダニエルの筆先のなめらかな筆致も。CCの瞳が赤く光り、立体映像が映し出される。古びた部屋の中で、青年はキャンバスへ向かい、私の裸身を丹念に描いてゆく。そして翼を描き足したところで映像は途切れる。おまえ、これをどこで。ダニエル サマ ヨリ タクサレマシタ。ショウキョ ナサイマスカ? いや、いい。おまえがこの氷海の底に沈むときまで、その内側に秘めていてくれ。その翼ある肉体のうちに、私の傷の記憶を閉ざしていてくれ。今日はもう眠ろう。暁ののちに食料を積んだ砕氷船が来るはずだから。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る