清らかな懺悔

乱雑に、面白おかしく考える。


懺悔とはまずもって醜いものである。

懺悔は自らが自らの罪を認め、法で救わぬ心を人が救う。

懺悔は自らの悪を、神に晒すこと。

そして懺悔とは、その罪に赦しを乞うことでもある。

我が罪を救済してほしい、と。

結局は自身かわいさではないだろうか。

自分を大事に、という言葉は普段私にとって、なんら意見を思わない。

だけれど、今回は、罪という明らかな主題がある。罪の告白が主題であり、もしくその罪によって被害を被った人々にこそ救済を願うべきものだ。それでこそ、私は救済すべくものだと考える。

罪を犯した側が救われよう、というのは言葉上はとてもでないが反省と呼べるものでない。一生十字架を抱えて生きるべきだ。


と、ここまで温情なく語り連ねてみる。

実際のところは罪状によるだろう、というのが私の所感になる。

人殺しが自らの救済を願うことと、万引き犯が救済を願うことには明らかな差異がある。責任の大きさなり、関係者の赦しの有無なり、法的に受ける罰の妥当性なりとあるだろう。

しかし、万引き犯が神に赦しを頂こうと、そう祈ることに対して、やはりお前は自分が救われることにも意識しているじゃないか。罪を背負って、罰を受け入れる気はないのか。と。心が歪曲した部分の私が難癖をつけるわけだ。


そしてここまで語り、いつもの方式にて試みる。仮に、『自らの罪に赦しを乞わず、その罪を神に打ち明け、その罪を贖うための行動のみに執心する人』がいたとする。

これは清らかな懺悔だろうか。


罪に焦点を当て、赦しは必要としない。では、神には何を求めるべきなのだろう。そもそも、そんな心持ちであれば懺悔など必要ないという話か。

違うはずだ。

懺悔は、個のためのみでない。他者のため、大きくすれば社会のためのことを想う、行為でもある。自らが今後どのように動けば、社会は善となるのか。社会は善に行くのか。

善の定義などどうでも良い。善を想い、善だと思しきことを行いたいとする。

善を形成しようとする行為に至るのは、自らの悪を清算する行為だけでない。

その善によって、自らが犯した被害者に報いるのだ。

自らの心が救われずとも、被害者が赦しを与えずとも、その善をその人のためにこなす。これぞ清らかな懺悔ではないだろうか。

だとするならば、自分はその人、社会に与えた害を修正するために何をすればいいのか、と神に問うわけだ。


私はこの自答に満足できない。

なぜなら傲慢に思うからだ。

妙な文脈で結論となるが、私のこの問に対する答えは、ありえない。となる。

最初に考えた通り、やはり懺悔は醜いものだ。

自らを顧みなければ懺悔ではないのだ。

立ち返る。

もし清らかな懺悔があるとして、と考えて神に求めるものが修正の方法だとする。ここに一つも自らの罪の救済を願わないものとする。これはこれでとても傲慢だ。

まるで責任がないようだ。

ひどいことだが、少しは苦しめ、という気持ちになるのだ。

すました顔で、「私は私の罪のためでなくあなたに害を与えたという事象に責任を持って何かをお返しします」

歯がゆいのだ。

それはなんだ。「あなたの不幸は私のせいですね。私は謝罪すべきだし罪の意識を持つべきかもしれませんが、そこは重要でない。あなたの不幸にこそ着目すべきだ。私がなんとかして幸福にします」とでも言うつもりか、と。

これはこれで自らが罪に頓着がないように思う。勝手に不幸を撒き散らした挙句、勝手に補おうとするな。というイメージだ。

特にストーカー事例は顕著だ。被害者にとって、加害者が関わらないことがもっとも救済にあたる。加害者が何も被害者のことについて一切の思考をしないことが救いに一番近いのだろう。


懺悔は、赦しを乞うものだ。そうでないと傲慢だ。清らかであってはいけないのだ。

情けなくあるべきだ。罪を犯した己を情けないと自認する。

ここから始めなければいけないのだ。

悪であったことを認めるより先に恥じることがもっともすべきことなのだ。

はじ、救済を求めるほかない。

その上で、救済がないこと。救済されないこと。容赦のない現実を、受け入れ難い状況を、苦しむことが科せられた見えない罰だと私は思う。そこに被害者は関係ない。

懺悔に被害者を巻き込んではいけない。どこまでも誰かのためでなく、自らを救済するためだけに、神に求めることをすべきだ。

だから、清らかな懺悔などない。


だが、別解もある。

当事者以外、誰一人としてそれを罪と思わないことだ。

例えば、「息をしている、これはとても罪深い。救済を願う」などと言われれば、さすがに笑ってしまう。何かのプレーだろうか、と。

懺悔は、罪の自認だけでなく、その救済も必要だ。

そもそも救済の必要もないことならば、それは元からその身は清らかなり。清らかな懺悔にほかならないだろう。いい加減無用とでも言おうか。

自分可愛さと言うより、可愛さ余ってにくさ100倍だ。ここまでくるとなんとも邪気のないこと。夜中に口笛を吹く程度の悪行、いや、行為だろう。

いくらそれを罪と自認しようと、自白こそが潔白を示してしまう。

夜の口笛をたいそうな罪だと思って、自白している。と。

たとえ知っていて口笛を吹いていようが知らずに吹こうがこれでは、神もどう罰を与えよう。

そもそも醜いことなど一つもない。赦してほしいと無罪を突きつけることほど微笑ましいこともない。


最後に、語りを締める言葉を綴る。

あらゆる災難や不都合は試練だ、耐えて受け入れるためにある。だなんて今の時勢には合わない。ならば抗うか逃げるか。逃げることを勧めることがやや多いように思う。

私は、抗う選択をするのが好みだ。

無駄な試練、不条理、不都合、無駄に耐えることは不毛だ。

それこそ、無罪に贖罪を願うほど意味のない行為。

自らを過剰に罪人だとか試練だとか演出しない方がいいように思う。

単なる問題で、単なる事象で、単なる結果で。

それがとても受け入れ難い時だけ、抗うことも敵わない時に、人はそれこそ神を求める必要があるだろう。いや、神より人や法に頼るのがもっともなのだが。


私もそのように。語ることで自らの心の美醜をカタチにして見えない、口もつかない誰かに語る。一つの懺悔だ。



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