アブラカダブラの魔法

乱雑に、面白おかしく考える。


アブラカダブラの魔法は、本当であるべきか。


見劣り絵の際は、私は『仮に』見劣りするとしていたが、今回は違う。


今回は、本当であるべきかどうかを考えたいのだ。


まず、アブラカダブラは魔法だと言われている。

語源と言われるものはいくつかあるが、大体は「私の言葉は現実になる」だ。


中世ヨーロッパでは、ペストやその他の疫病から身を守るために「アブラカダブラ」が使用された。この呪文をアミュレットに刻み、家の扉に書き、病気から逃れるための魔除けとして使った。


ペストはノミ感染の病気だ。

アブラカダブラが物理的なノミ退治の魔法であれば話は早いが、そうではないらしい。魔法は残念ながら届かなかった。


ここで身近な言葉に置き換えよう。

「痛いの痛いの飛んでいけ」だ。


言葉に宿るものがある、現実になるなどというもので、実際に自己啓発系統の主張ではことあるごとに誰かに宣言することを推奨している。


確かにこれは魔法のようだ。

というか魔法なのではないか?


というのが、切り出しなわけだ。


現行、考えたいことは二つ。

1.そもそも魔法とは

2.因果関係がこの論説にどれほど関わるか


まず、そもそも魔法とはなんだろう。

魔法『のような』アブラカダブラと比較したい。

魔法は物理的に超自然的に治癒を施し、息も束の間その傷を癒す。

つまり、事実的に治癒をする。

代わってアブラカダブラはそのような効果はないかもしれない。

この場合、ないとしよう。

アブラカダブラは、事実癒さない。では、何をするか。

宣言をする。

あなたは癒える、私が癒すわけではないが、とにかく何かが癒してあなたを楽にさせる。

手段がわからないのだ。

究極的に超自然でも、科学でも、心理学的療法でも、根気でも、治ればいいのだ。

こう考えれば、最高に目的に則した思考のように思うが、しかし、だからといって何もしない。つまり、言葉に出してあとは責任をどこぞに放棄している。

医者ならば医学、魔法使いなら魔法、心理学者なら・・・そう、事実、手段をもつ。

手段を持ち、責任を持つ。


魔法は、癒す。

魔法は傷をつける。

魔法は壊す。

魔法は作る。

しかして、魔法でなくともそうだ。手段が違うだけ。

魔法は一手段であって、目的に大きな差異はない。


立ち返る。アブラカダブラは、目的のための行為、手段と言えるだろうか。

癒したいから、癒えろと、宣言するだけ。

壊したいから、壊れろと、宣言するだけ。

後者はまるで呪いだ。

アブラカダブラは目的とそのための手段が破綻している。


そして、問題はここにある。

因果関係がこの論説にどれだけ関係を持つか。

アブラカダブラは、魔法として存在しないとすると、ただ言葉に出すのみの行為だ。

暗示、洗脳、心持ち、そういった言葉で、人の底力を引き出すというならば聞こえは多少いいものの、やはり、結果に直接起因する事柄ではない。

アブラカダブラは、私に富も名声も力も授けないわけだ。

しかし、結果として同じようなことが起こったとする。

癒えろと念じて癒えた。

壊れろと念じて壊れた。

それは、時間が解決した事柄ではあったかもしれないが、結果として、その目的を遂行した。

そして、ここに、アブラカダブラの魔法のからくりがあるように思うわけだ。


順序はいくつかある。

一つは魔法であり、結果叶う。

一つは魔法だが、結果叶わない。

一つは魔法ではなく、結果叶わない。

一つは魔法ではないのに、結果かなった。

……いきなりだが、私は、無粋な人間だ。

魔法などあるはずもない。そう思いながら語っている。

その上で、最も良い選択肢と最も最悪な選択肢も鮮明に見えている。

最良は魔法であり、叶うもの。

最悪は魔法でなく、叶わぬもの。

それは、当然だ。どのような手段であれ、直接的に介し、叶う。

手段などなく、ただ言葉に出すだけで、もちろん叶わない。


痛いの飛んでいけなどと言われるより、絆創膏を貼ってくれた方がいいのだ。もし、言われるだけでも良いという人間がいるとすれば、それは同情だ。

例えを変えよう。

とても空腹な人間がいたとする。一方は豊かな人間だ。

豊かな人間が、空腹な人間にあったとして、いつでも食べ物を持っているわけではない。

心ばかり、と、真に意味通り、心から労いの言葉をかけてくれる。

そのような状況に立会い、空腹な人間は怒りを覚えるだろうか。

一部、怒りをはらんだとて、それが全てではないと私は思う。

多くは感謝といたたまれなさを覚える。

私に真なる心遣いから何かを施したく、しかし何もできないという人間に、不自由を覚え、同情する。互いにいたたまれない。


言葉に宿るものは抽象的な責任だ。

なんとかなれ。

誰かがなんとかするわけでも、何か手段を持ってなんとかするわけでもない。

そう言うしかない。

そんなどうしようもない状態にかけられる、祈りの言葉。


だが、さらに大事なのはここからだ。

アブラカダブラが、奇跡を起こす。

本当に、どうしようもない状況を打破する。


今、まさに、稀代にして一度限りの奇跡を使う魔法使いが現れたのかもしれない。

この時、アブラカダブラは魔法であるべきなのか。

最良は魔法であり叶うことだ。そう思う。

しかし、魔法でもないのに叶った。いやはや、もはや魔法のような奇跡だ。

これぞ人の力がなせる業なのだろうか。

詰まるところ、そう言うことを考えたい。


長くなったが、結論だ。

アブラカダブラの魔法は本当であるべきだ。

やはり、最良の選択は魔法であることだ。

どれだけ騙してもいいが、はいたツバは飲み込むべきじゃない。

魔法だといったのならば、それは魔法とすべきだ。決して根気ではないし、まして人の心がなす業でもない。

魔法が治した。再現は不可能かもしれない。

私の言葉は現実になる。傷は癒える。

ただそれだけだ。

その論説に常に無粋な私だったが、結局はそう認めるほかない。

魔法としてその効果を願ったというのならば、認めなければならない。

認めなければ、魔法への冒涜だからだ。不義理だ。


医者が手術を成功させたというのに、患者の心持ちが全てを左右しただとか、私は担当医でも口にしてはいけないと想うのだ。それは、責任を放棄している。私が治す、私がその全霊をかけて、あなたと対峙する。結果をどこぞの馬に掻っ攫われるなど、まして誰かに渡すなど、自らの所業を認めぬ愚か者だ。


だからこそ、叶う叶わぬに関わらず、アブラカタブラと言ったからには、魔法を行使しているのだ。万事魔法として迎え入れるべきなのだ。

責任の所在は罰か成果の隣でなければならないのだから。


さて、今回も締めるための語りを用意しなければならない。

私は、アブラカタブラの魔法を信じる他ない。

たとえそれが疑惑に塗れていても、結果が現れなくとも、その責任の所在は願ったからには魔法にしか向かない。自分に向くべきじゃない。それは道理でない。

とかく、魔法という手段不明の超自然よりも科学や医学に任せるのが責任を持たせやすいものだというのは自明だ。

しかし、人生を生きる中で、不条理、不義理、不毛な争い、非合理、あらゆる災難に遭う中で、その多くの責任の所在を何処かになすりつけるのは不可能だ。

手段不明、道理もない、意味も持たない。ある種超自然で魔法のようなものだ。

生き、語り、書くには、不条理を不条理と理解しなければならない。

何もないものに意味を求めてはならないし、しかし、何かを信じるならば意味を求めずともそれの全てに賭けなければならない。所在は全て賭けたものにある。


生半可に魔法を信じ、人を信じるくらいならば、初めから人を信じ続け、魔法を信じるべきではないということだ。あらゆる神に願いをかけて、それが叶ったとして、誰が叶えたのかわからない。自分が叶えたかすらわからない。それでは、叶ったとして、何が素晴らしいのだろうか。


願いは言葉にすべきでないと言うがこれは真なりだ、そう私は腑に落ちるよ。

なんてったって、語らなければ、何も失わない。

しかし、それ以上も生まれない。


私はそのように。未だ見ぬ私を見つけるために語り書く。

魔法ではない、私の確固たる信念が私を突き動かしてくれるように。


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