キャンバスに影

美王幻想豚丸

見劣りする絵

乱雑に、面白おかしく考える。


見劣りする絵があるとしたら、それは何か。


大前提だ。

この切り出し自体がナンセンスなのか。

私にとって、それもよしだが、あり得ないとも言える。

あらゆるアンチテーゼは然るべきだ。

見劣る絵はあるし、それをナンセンスだと反論する人も受容されるべきだ。

論理はいくつあっても面白いのだ。


そして、本題に戻る。

見劣りする絵、とは。

これをナンセンスと形容する人間にとって、『主観』という言葉が最も大きな要素になるのではなかろうか。


日々の中に依る小さな選択

選択に依る経験。

経験に依る価値観。

価値観に依る人格。


この連続性が、主観の拠り所を作る。

故に、人格が違う、価値観もしく感性が違う、経験が違うので、見劣りするだなんて滅多に言えない。

このような論理が私の頭に霞み、澱む。

しかし、この論理を「わかる」と私は決して口にしてはいけない。

それでは、見劣りする絵は無くなってしまう。

少なくとも、見劣りはあると、私は確固たる意志で言葉を紡ぐのだ。





いいかげん、私は問いに答える。


数字において見劣りする。


見劣りは評価だ。

相対的な言葉から考えられるのは、主観的な表現や感情や経験によるものではない。


であれば、逆。

客観。逆の数値的事柄。

感情や経験ではない。


どれだけ新しかろうと劣る。どれだけ古かろうと勝る、そんな判断基準がある。

それは、綺麗の有無ではない。正しさの有無である。

正しいか否か。それが全てである。

では、正しさとは何か。

芸術における正しさ。主観を抜きにしなければならない正しさ。


それは、価格。それは需要。それは価値の受容者の数。

つまり、やはり、その美しさを認めた人間かつそれを所有したいと望む人間の数とその人間が代償としても良いと踏んだ値段であろう。

とても営利的だが、そこにしか見劣りの可否はない。


死後与えられる名誉は?ゴッホの絵は生前見劣りしていたのか?

死後という価値がついたから。という焦った判断をしてはいけない。

観客に見えなかった。それだけのことだ。

かの人は、精神異常者であった。故に、人と絵が近すぎた。

いいや、当時は人が優っていたのか?

人と絵画の緊密な関係性、その対立という意味では、見劣りしていたのだろうか。

いや、そうではない。

創作物を作る人と創作物そのものの関係性は切って離せるものではないが、それは相互作用でもある。数値という平等な環境では、人+作品であっても、人−作品であっても、何も悪くない。

正しい。


何にしろ、見劣るには『誰か』が『見る』、そして『劣る』と判断しなければならない。そもそも誰にも見られていないのであっては、評価すら成し得ない。

見劣りする。つまり、誰にも見られない。少数にしか見られない。

超ニッチか超レッドオーシャン。つまり、商業的価値は希少。


故に、革新。


故に、排他。


故に、孤独。


見劣りとは、日々触れぬものへの非理解でしかない。


故に、私は、見劣りを悪だとするならばそれは静観する側であると結論づける。




総合的な結論を出す。

見劣る絵とは、価格の低い絵だ。

そして、そもそも見られていない絵は論外だ。言葉通り、見劣りしない。


人の力で売れようが、技術が低かろうが、そこに『主観的』に魅力を感じた人がいる。それが大事だ。


その価値を望んで代償を払いたい観客がいる。

それが全てだ。



しかし、私はアンチテーゼが大好きだ。さらにいうなら、別解も考えることも。

今回は、別解だ。

決して本筋とは逸れない内容だ。


そもそも、絵とはなんだろう。

どこに目的があるのだろう。

その問いへの回答は2つある。

1.絵を手段にして、メッセージを伝えることが目的

2.絵を描く行為そのものが目的


おそらく、この問いは失敗だ。


なぜなら、「どちらも」が回答になる。


描くこともメッセージを伝えることも大事な目的、だなんて回答は普遍的でつまらない。


しかし、ここからが考え所だ。

では、見劣る絵など、存在するのか。

私の答えはすでに出ている。存在する。

厳しく、客観的に、事実的に、存在する。


ならば、こう考え直す。

『絵はとにもかくにも美しくあるべきだ。』

自分だけでも、この絵は美しいと思っている。

多くの人がどうかは知らないが、これは美しい。

これは、写実的で実に素晴らしい風景画だ。

これは、テーマを劈くいい風刺画だ。

これは、全く奇抜だが、新しい価値観の絵画だ。


全て、我が芸術、我が美、我が世界を表現したいがため。


技量や結果を全くの度外視に。

姿勢は、走り出しから見劣りを目的とはしない。

やはり一時的な結果として、見劣りが発生する。


しかし、やはり仮定は大事だ。

もし、見劣ることを前提とした絵があったら。

なんと『絵はとにもかくにも美しくあるべき』という定説に反論したい輩がいるらしい。

何かが欠けている、何かが不足している。何かが失われている。

わざと欠いた。わざと外した。わざと消した。

その結果、もちろん見劣った。

自分ですら、見劣りしていると感じた。

誰かに負けるために、何かに劣るために、自分にすら満足できないようなもの。


なぜ消した?何を外した?どのように消した?なぜ描く?

積もる疑問があるにも関わらず、私は、直感的に感じる答えを得ている。

反抗だ。

美しいこと、自分が最も満足すること、自分に納得すること。

それら甘い蜜が、気に入らない。


なんとストイックなことか。

言葉の通り、自さつ行為。

己に抗い、己を罰する。

作品に自己との関係性を欠如させ、道徳を外し、我欲を消した。

まさに此れ社畜と言祝むべきではないだろうか。

美しくない何かを永遠と作り出す。

自らの痴態を残したいドMはなんとも稀だ。


しかしこうなると厄介だろう。

一生涯をかけて自ら暗雲に入る。

他人も、誰より自分が美しいだなんて感じない駄作を作る。

一生自分を押しつぶす。

矛盾ではあるが、美しさを求めない生き方に安息を覚える。

美しくあるよりマシに思う。


こうなれば、目的は一つ。

絵は伝えるべきことを伝える道具でしかない。

自身の作品への影響を極力に抑えて、依頼された絵のみを描く。

しかし、やはり見劣りはしない。

観客にメッセージを十全に伝えられるだろう。

そして、メッセージは十分な価値として機能し、価格となって現れる。

自らが自尊心を投げうっても、見劣るかどうかに関係性はそうない。

自らが美しいと思うかどうかなど、関係ないのだ。

客観的に、数値的に相手がどう値をつけるか。

見劣るかどうかは、これが全てなのだ。


別解2。やはり単純な技術的な差異はあるだろう。

レッドオーシャンで生き残れない手合いは、差別化ができていないのだ。

相手の需要を掴めない、相手の受容を引き出せない。魅力を追求できない。

それでも描きたいという身勝手。

誰かに見てもらわらければ、誰かに魅力を与えなければ、価値はない。だなんていうつもりはない。

しかし、少なくとも自分が満足しているかを何度も問いかけなければいけない。


そろそろ締めだろう。

これもエピソード。結論をいくつ出しても、話は終えることができない。

ということで、最後に。

私は絵は描かないので、このように文字にすがる。

主観だけ、まさに自己満足という姿勢をとる際に最も覚悟すべき事柄は、必ず全てに劣ることを自覚することだろう。そしてそれを見て見ぬふりをすることをしなければ自己保身はできまい。自己を満足させるには、他者をいかに見ないかが最も大切になるだろうから。


私もそのように。物語を書く。

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