第10話 夢

 大王は微笑した。

 「エーラーンの大王も手を出さなかったという、スィンドのことか?」

 「ああ、スィンド」

 ロクサネは意外そうに言った。

 それから、あらためて、声にうるおいを戻して言う。

 「スィンドは豊かな国と聞いております。おもしろいかも知れませんね」

 しかし、スィンドより北のバクトリアの姫であるロクサネには、もっと気になる土地があった。

 「それより、北のトカラ人の国はどうです?」

 「果てもないと聞いている」

 大王は平然と言った。

 「草原が続き、そこに点々とオアシスの国があって、そのオアシスを結んで道が通じていると。それが果てもなく続くと」

 「果ては、あります」

 ロクサネは自信ありげに言った。

 「そんなトカラの国にも、果ては、あります」

 「ほう」

 大王は、ロクサネの首の後ろに手を回したまま、軽くひじをついて身を起こした。

 「では、その果ての向こうには何がある?」

 「チンという国があります。半分は草原の国ですが、その向こうは大河の流れる肥沃ひよくな国です」

 「ほう」

 大王は繰り返した。

 「それはバビロニアのような国か?」

 「似ているのでしょうね」

 ロクサネは答える。

 「わたしはバビロニアにはおもむいたことがありませんから、わかりませんが。しかし、チンの国から流れ出した大河は、その下流の肥沃な国ぐにを潤し、東の大海にまで流れ下ると、トカラ人たちは申しております」

 「東にも大海があるのか!」

 大王は興味を示したようだ。

 「ええ。そして、トカラ人たちが伝えるところでは」

とロクサネは続けた。

 「その東の海には、扶桑ふそうと名づける、天にまで届くという木の生えた島がある、毎日、西に沈んだ太陽は、その扶桑の木から新しい命をもらい、また朝の空に昇ってくるのだと」

 「それは、われが、師アリストテレスに学んだ宇宙の構造とは違うが」

 そこでことばを切り、大王は大きく息をした。

 「そういうこともあるかも知れない。我はまだ三十にもなっていない。命が尽きるまでには、その巨樹のあるという島にまで行ってみたいものだな」

 もういちど、息をつく。

 「だが、今夜は、それとは違う女神からのたまわり物を楽しみたい」

 言って、ロクサネの首の後ろに回していた手を肩の後ろに動かし、ロクサネの体を引き寄せた。

 戦いに慣れたその手は、易々やすやすとロクサネの体を大王の体の至近まで引き寄せる。

 息がかかるほどに近いところで、大王は言った。

 「そなたはいつまでも輝く母になるのだ」

 「はいっ」

と答える途中で、ロクサネは息をのむ。

 大王の声は、それまででいちばん強い声だったから。

 「まだ見ぬわが王子たちは、一人はマケドニアの、一人はギリシャの王になり、一人はエーラーンの、そして別の王子たちがスィンドやトカラやチンやその向こう、日が昇るという木があるその島までの支配者となるのだ」

 「それは」

と、ロクサネは、高くはかない声で言った。

 「大きな夢でございますね」

 「夢ではない。そうなるのだ」

 大王は答える。

 「そんな夢ではなく、そなたとは、もっと美しくもっと甘く、もっと心地よい夢を共にしたい」

 「ああ」

 ロクサネの口からは、ため息とも喜びの声ともつかぬ声が漏れた。

 若いアレクサンドロスも、さらに若いロクサネも、このとき、まだ知らない。

 スィンド攻略に難渋なんじゅうし、バビロンに帰還した後、アレクサンドロスが熱病に襲われて亡くなることも。

 ロクサネと、ロクサネが産んだアレクサンドロスの遺児が、その後の宮廷の政争に巻きこまれて死ぬことも。

 したがって、トカラ人の土地やその東の国、まして巨樹が立ち太陽が昇るという島も、アレクサンドロスの王権の下には入らない、ということも。

 それは、残念なことだったのだろうか。


 (終)

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