29.わんわん

 一学期の中間テストは何事もなく終了した。あとは結果を神に祈るのみである。

 普通科のクラスでは5教科のみの試験だが、進学科ではそれぞれの授業が二科目ずつある。そのためテストの量も二倍になり、しかも進学科独自の入試対策科目は相当濃い内容だそうだ。杏輔きょうすけがげっそりしていたのも無理はない。

 

「キョウちゃん大丈夫? クマ浮いてるよ?」

「神崎、睡眠不足はあまり推奨できない」

「うるさい……っ」

 

 教科書や参考書がみっちり詰まったバッグのせいで、ともすれば左側に傾きがちの彼。日頃の予習復習も相当量こなしているはずだが、少しでも点数を稼ぐために夜更かしを重ねたのだろう。平均点に届けばいいかな、くらいの気分でいる絢世あやせにはとても真似できない努力である。そのお陰か、中学時代から杏輔の成績は常にトップクラスだ。

 

「でもちゃんと寝なきゃダメだよ。キョウちゃんのことだから、日曜日も一日中勉強してたんでしょ。それとも忙しかったの?」

 

 首を傾げて問いかけると、力無い否定の仕草が返ってきた。限界間際らしい。

 

 今日は翠羽すいはが三条兄弟の元から帰ってくる予定である。剣道部に顔を出すついでに、勇哉ゆうやが送ってくれる手はずとなっていた。久しぶりの彼に早く会いたくて、絢世は引き取りに出るクローヴィスに便乗させて欲しいと願い出た。

 それだけだから別に、わざわざ杏輔が来る必要はない。絢世もあえて声をかけることはしなかったのだが、バス通学の彼とは結局、校門前で合流してしまったのだった。

 

「せめて鞄を置くといい。なんなら持とう」

「要りません。そろそろ来るでしょう、バス……」

 

 目頭を押さえながらの台詞にぴったり合わせたかのごとく、坂道を曲がるバスの屋根が見えた。

 たくさんの学生が連なって乗り込む後部ドアに対し、前側の扉から現れる影は二つだけ。先に姿を見せた勇哉は、絢世と杏輔の顔を見て、「よう」と気さくに片手を挙げた。

 

「お久しぶりです、勇哉さん」

「おう。って、一週間かそこらだろ。あ、これ翠羽の荷物」

 

 と手提げのバッグを差し出したまま、勇哉は視線を泳がせ、クローヴィスのところで止める。

 

「あんたが先生?」

「ああ、クローヴィス・ヴィルオールという。一週間すまなかったな、世話になった」

「いや、俺は全然構わねぇよ。リベンジもできたしな」

「リベンジ?」

 

 首を傾げるクローヴィス。満足そうな勇哉の顔から、どうやら打倒物差しは果たしたらしいと絢世は読み取る。

 そんな彼の後ろから翠羽が飛び出し、クローヴィスの長身に抱きついた。

 

「随分懐かれてんなぁ、あんた」

「何故かは知らんが。……翠羽、楽しかったか?」

 

 具体的な答えを求めての問いかけではなかっただろう。もっとも、上機嫌なその様子を見れば、翠羽がこの一週間をどう過ごしたのかは想像に難くない。

 ぱっと明るい笑顔を振りまく彼。

 

「わんっ!」

「…………」

 

 さすがのクローヴィスも固まった。

 勇哉が顔を引きつらせ、幽鬼のような足取りでバスへ向かっていた杏輔が振り返る。

 

「……わん?」

「わんわん!」

 

 尋ね返す絢世に、嬉しそうな声で答える翠羽。「いや、どういう会話だよ……」と困惑混じりに突っ込んだ勇哉のポケットで、携帯の着信音が鳴り響いた。電話を耳に当てた彼は、次の瞬間血相を変えて怒鳴り声を上げる。

 

慧哉けいや! やっぱりてめぇの仕業か!」

『うるさいなー。いいじゃん、可愛いでしょ』

「可愛いで済ますな! 何のつもりだ」

「三条慧哉? おい、僕に代われ」

 

 杏輔がゆらりときびすを返す。バスは彼だけを残して発車してしまった。

 

「キョウちゃん、バス行っちゃったよ?」

「いい。こんな日に立って乗るのは御免だ。三条、電話を寄越せ。何のつもりか知らんが、僕が話す」

 

 天敵の名を聞いて、すっかり目が覚めたようだ。

 すれ違いざまに押し付けられたバッグの重みで絢世が悲鳴をあげると、すかさず両脇から翠羽とクローヴィスが支えてくれた。親切な二人に感謝しつつ、唇を尖らせてブレザーの背中を睨んでおく。

 兄に対して気が済まないのは勇哉も同じらしく、しばらく逡巡しゅんじゅんした後、通話をハンズフリーに切り替えることで対応した。これならこの場の全員で慧哉一人に文句の言い放題である。

 

「三条慧哉、貴様、何のつもりだ」

『やあ、神崎君かい? そろそろ絢ちゃんとは仲直りできたかな?』

 

 スピーカーから漏れる陽気な声に、杏輔の目がこちらへ向いた。絢世はとっさに顔を伏せる。

 

「……そんな事、貴様には関係ないだろう。僕の質問に答えろ」

『ああ、まだ喧嘩中かぁ。仲良くしてほしいな、友達より恋人を取らせたみたいで申し訳ないじゃん。……あれ、手駒なんだっけ?』

「この……っ!」

 

 爆発しかける彼を慌てて勇哉が制する。徒歩や自転車で校門を抜けていく生徒たちが、各々興味深そうな顔でこちらを見ていた。

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