30.人間の範囲
ひとまずがらんとしたバス停のベンチに移動し、
「
立ったままの勇哉が、手にした携帯に向かって問いかける。
『休憩中ー。送ってくって言ってたからさ、そろそろ着く頃かと思ったんだ』
「そりゃ、ぴったりだったけどな」
「さっさと用件を済ませたらどうだ。それから、
一気にまくし立てる杏輔。その苛立ちを煽るように、電話口からはふざけた答えが返ってくる。
『だって翠羽はどっちかっていうと犬でしょ? にゃんの方が良かった?』
「そんなことは聞いてない!」
『聞いたじゃん』
「聞いてないと言っているだろう! 貴様は人権を何だと思ってるんだ!」
『君、人権好きだねぇ……』
子供のようなやり取りを交わした後、慧哉は呆れ声で続ける。
『じゃあ聞くけど、そもそも人間ってどこからどこまでを指すのかな?』
面食らったのは杏輔だけではなかった。
「……どういう意味だ」
『そのまんまの意味。例えば君だって、肌の色も目の色も話す言葉も違うのに、外国人を同じ人間だと思うわけでしょう? それは何故? それとも、思ってなかったりするのかな?』
「……遺伝子だろう。人間の遺伝子を持っているものは人間だ」
あくまで楽しそうな慧哉の声に対し、杏輔の返答は舌打ち混じりである。
もちろんそんな通り一遍の答えで正解をくれる相手ではない。すぐさま痛烈な皮肉が返ってきた。
『へぇ、じゃあ君は初対面の人はまず遺伝子検査をしてもらって、それでやっと相手を人間だって納得するんだね。いちいち面倒だねぇ』
堪忍袋の緒が切れる音が聞こえた気がした。しかし、杏輔が手を伸ばす前に、勇哉は彼の腕が届かない場所まで後退して難を逃れていた。携帯電話を庇うようにしながら、眉を
「おい、いい加減にして、さっさと用事言えよ」
『無駄話じゃ用事にならない?』
「切るぞ」
『せわしないね、勇。あのさ、翠羽の友達は今何人見つかってるのかな?』
ようやく慧哉は本題を切り出した。
翠羽が一方的に知り合いだと主張する相手。現時点ではリェールことクローヴィス、三条兄弟が
絢世は翠羽の友人探しにあれこれと手を出したが、そのことに何の意味があるのか、なんて考えてもいなかった。
『四人か。じゃあ、
聞いたことのない名を挙げる慧哉。
途端、のんびりと座っていた翠羽の様子が変わった。呆然と勇哉の携帯を見つめる彼の顔色が、みるみるうちに蒼白になる。その表情は、何か取り返しのつかないことが起きたと雄弁に物語っていた。
「翠羽君……?」
「……翠羽」
隣からかけられたクローヴィスの声に、翠羽がびくりと身を震わせる。恐る恐るといった仕草でそちらを伺い、麗人が相変わらずの無表情であることに当惑したようだった。
「……リェール、**、白羚、***?」
「その人物は私の関係者か? 生憎、聞き覚えのない名だが」
「言い訳したって伝わってませんよ」
八つ当たり気味の杏輔の声も耳に入らないかのように、クローヴィスは、彼にしては珍しくやや強引に翠羽へ詰め寄った。
「翠羽、その白羚というのは女性ではないか? 美しい金髪の……、彼女も私をリェールと呼ぶ」
しかし、翠羽はそれ以上口を開かず、顔を伏せて沈黙してしまう。長い髪に遮られ、表情も窺うことはできなかった。
「先生、それってあの絵の人ですよね」
美術室で見た儚げな油絵が脳裏に浮かぶ。浅く頷いたクローヴィスは、色の違う双眸をわずかに歪ませていた。
「……三条慧哉」
『ん? 君は、噂の先生かな?』
「どこで聞いた。その、白羚という名を」
『どこも何も、翠羽から聞いたんだよ。わんの調教中に、彼がぽろっと口を滑らせてね?』
「何やってんだお前!」
勇哉が思い切り突っ込んだ。
『うん、気になってもう一度聞こうと思ったんだけど、その後は何やってもダメだったよ』
笑い声と共に紡がれる「何やっても」という台詞が薄ら寒い。果たして、ただの比喩であるのかどうか。ひょっとして、翠羽の異変は彼の言う「調教」のせいではないか。
『そうか、先生には何か心当たりがあるんだね。そういや、君だけ明らかに毛色が違うけど』
「……私の夢に出てくる女性が白羚なら、彼女も私と同世代のはずだ」
『うーん、確かに年齢もあるけど、それよりリェールって名前の響きが仲間はずれじゃん。どうも君だけ一人浮いてる感じするっていうか』
考え込むような口ぶりの慧哉。その時、電話の向こうで別の人物が彼を呼ぶ声がした。
『あ、撮影始まるみたい。そろそろ切るね』
「先ほどの、どこまでが人間かという問いだが」
『うん?』
クローヴィスが話題を戻す。どうやら気にしていたらしい。慧哉も慧哉で、その答えにきちんと耳を傾けるつもりのようだ。
「その答えの一つは、相手が理性を持っているかどうか、ではないだろうか。例え言葉が通じず、またそれが私にはわからない理屈であろうとも、理にかなった思考ができるものを人間と呼ぶのだと思う」
『……なるほどね、良い答えだ。でも』
慧哉の、少し
『伝わらないんじゃしょうがないね』
「……伝える努力をすることはできる」
『気の長い話だ。……じゃ、お仕事行ってくる。絢ちゃん愛してるよ』
「え、あ、どうもー」
さらりと付け加えられたひと言に杏輔が怒鳴るより早く、通話が切られた。
「あの男、性懲りも無く……!」
「そんなに怒んなくっても良いのに」
「お前な……!」
怒りの矛先がこちらを向いた。しかし、きょとんとした絢世と目が合うと、彼はため息を一つついて頭を抱えてしまう。
続けて、クローヴィスまでが疲れたような息を吐いた。
「すまん、騒がしい奴で」
「いや……」
謝罪する勇哉に首を振ってみせ、俯いたままの翠羽に向かって、彼は淡々と呟いた。
「もし、お前の理屈が私には到底理解できんようなものであったら、私はお前をどう見るのだろうな……」
自分に対しての言葉と察したのか、翠羽はそっと顔を上げ、深緑の瞳を不思議そうに瞬いた。
「……わん?」
「犬には見えん」
柔らかそうな彼の猫っ毛に手を乗せ、クローヴィスはほんのわずかに目を細めて笑っていた。
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