28.衝動
菓子鉢に届く位置まで車椅子を進めると、
「それではお嬢様、申し訳ありませんがしばらくお側を離れさせていただきます。何かありましたらお呼びください」
「いらないわ。あんた役に立たないし」
「はうっ! そんなぁ……」
そちらに視線すら向けずに、ばっさり切って捨てる彼女。他人事ながら、
「まあ、人には向き不向きがあるからなぁ。お前が得意な部分を伸ばしていけばいいよ」
「ううっ、朔に得意な事なんか無いです……」
「あるさ。……えぇと、探せば何かあるから。とりあえず上がって話そうや、な?」
「
とうとう泣き出してしまった朔夜を宥めつつ、師範は彼を濡れ縁へ上げ、襖の向こうへ引きずって行った。道場併設の六畳間は主に、人生相談のためにあるらしい。場違いに思われた主従の登場は、つまるところ師範の顔の広さが要因だったようだ。
「元々、うちに朔を連れてきたのが茨木さんなのよ。ボディーガードついでに家事の経験積ませてやってほしいって」
麦茶に口をつけつつ、どうでも良さそうに告げる
「で、お前は何でいるんだ?」
「茨木さんが教えてくれたから、
と、ころっと表情を満面の笑みに変え、濡れ縁に這い寄っていた翠羽の口元へかりんとうを一本差し出してみせる。
「翠羽、あーん」
「…………」
彼女は本当に翠羽がお気に入りのようだ。勝手にしろ、と心の中で吐き捨てながら、勇哉も遅れて濡れ縁にあぐらをかく。
日差しは暖かく、時折木々の間を抜けて吹くそよ風が爽やかで心地良い。腰を下ろすと、動いている間は感じなかった疲労が、落ち着く程度の倦怠感となって体に溜まった。
麦茶に手を出そうとして、助けを求めるような顔の翠羽と目が合う。
「……困ってんじゃねぇかよ。こいつ、子ども扱いされると嫌がるって話だぜ?」
言いつつ、差し出された細い指からかりんとうを奪い、自分の口へ放り込む勇哉。翠羽は明らかにほっとしたようだが、当然お嬢様からは非難を浴びる。
「ああっ、もう! さっきから何なのよ!」
「お前が翠羽困らせてるからじゃねぇかよ。相手の反応くらい見ろっての」
「偉そうに指図しないで。可愛いんだから可愛がって何が悪いの。翠羽も、何でこいつには懐いてるのに、あたしのことは嫌がるのよ!」
「……いやそれ、嫌がるっつうかさ……」
単純に困っているんだと思う。いくら顔がこれでも、翠羽だって男なのだ。加えてこの少年は極めて紳士的で、真面目な努力家だという印象を勇哉は持っている。
となれば、橙珂の過剰なスキンシップに対して彼が取れる反応は限られてくるだろう。避ける。耐える。困る。三択か。
そして今も、狼狽と困惑が入り混じった表情で二人を見比べると、そっと立ち上がって濡れ縁の離れた位置へ避難する彼だった。
「もう、どうしてよ、翠羽!」
ヒステリックな声を上げる橙珂へ一瞬ちらりと視線をやり、何か小さく言い訳しながらさらに後ずさる。
「もしかしてあたし、嫌われてたのかしら……」
「嫌ってたら探さねぇと思うがな。気ぃ遣うんだろ。あいつ、フェミニストだし」
「……そんな理由かしら……」
勇哉が返したフォローの言葉では、彼女の表情は晴れなかった。そこまで思いつめるような事柄でもないように思うのだが。
軽く覗き込んだその瞳は、不安で大きく揺らいでいるようだった。
「……何かあったか?」
ふい、と顔をそらす橙珂。
「……別に、大したことじゃないわ」
「おい!」
語調が荒くなると、気の強い彼女が肩を震わせる。俺が怖がらせてどうするんだ。
豪邸住まいの高飛車なお嬢様。しかし、華やかなその肩書きの後ろに彼女が隠している繊細さを、勇哉はすでに知っている。そこをつつけば、意外なほど脆いことも。
自分があえてその部分に踏み込もうとしているのに気づくが、なぜかやめる気は起きなかった。
濡れ縁から降り、車椅子の少女を見下ろす。裸足の
「言えよ、気になるだろ。足がどうとか、家族に何か言われたとか、そんな事か」
「……そんな言い方……!」
また、泣かせる。
大きな茶色の瞳が、一瞬宝石のようなワインレッドに見えた。そこから割れるのだと思った。
勝手に割れるくらいなら、割ってやる。
俺の手で。
薄い肩を乱暴に掴む。
「隠すんじゃねぇ。俺には全部見せろって、言ったろ……!」
これは誰の記憶だっただろうか。
すっと隣から伸びた手が、勇哉の腕を押さえる。
翠羽だった。
悲しそうに瞳を歪ませ、橙珂の肩から勇哉の手を引き離す彼。一方、見下ろした少女は顔を真っ青にし、自分の体を抱きしめて震えていた。
今の行動を思い返し、勇哉の背筋を冷や汗が伝う。翠羽の制止が入らなかったら、一体自分は彼女に何をするつもりだったのだろう。
「……本当に、大した事じゃないのよ。変な夢を見たの。それだけよ」
「夢……?」
「ねぇ、あんたは何ていったっけ」
「え?」
「あたしは橙珂でしょ。あんたは?」
「
だっけ、と確認すると、翠羽が小さく頷いた。
言いようのない破壊衝動は、勇哉のうちから芽生えたものではなかった。しかし、どこかで同じ思いを味わった覚えがあるような気もする。あれは恐らく、碧珠が橙珂に対して抱いていた感情だ。
噴出したどす黒い感情を否定するように、勇哉は手のひらを握りしめた。
「……あたし、あんたの手を知ってるわ」
独り言のように、ぽつりと橙珂が呟いた。
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