24.いつもそう
お屋敷を出る前に
そのお嬢様は今、駅ビルの一角で可愛いを連発している。
「ねえ、絢ちゃん。これすっごく可愛いと思わない?」
「可愛いけど、橙珂さんにはちょっとちっちゃいかもですね。サイズ聞いても?」
「F。あ、こっちも可愛い」
下着売場である。
これまでほとんど外に出ることもなく、身の回りの買い出しも全て使用人任せだった彼女は、自分好みの衣類が選び放題という状況がいたくお気に召したらしい。服から鞄からアクセサリーから、あらゆるファッションアイテムを制覇するつもりのようだ。
すでにその格好も着てきたワンピースではなくなっている。ふわふわと揺れるミニスカートにかっちりとしたジャケットを合わせたスタイルは、しかし確実に先ほどまでの姿よりも彼女に似合っていた。
そして、脱いだ服や買った品物を全部まとめて押しつけられているのが
彼が荷物持ちに転身させられてしまったので、車椅子を押すのは絢世の仕事になっていた。
「サイズ合うのは無いですね……。こっちはどうですか? 同じ黒いので……、あとピンクとか。橙珂さん、ピンク似合いますよね」
「そうかしら。……ねえ、勇哉」
両手にFカップの下着を持ったまま、おもむろに彼女は居心地悪そうな勇哉を振り返った。
「どっちがいいと思う?」
「俺に聞くな……」
「まー、せっかく選ばせてあげるって言ってるのに」
「なんでだよ。勝手にすりゃいいだろ」
「何よ、ノリの悪い奴ね。じゃ、両方買おっと」
顔も上げない彼に
「あなたは何か買ってく? 付き合わせちゃったお礼に好きなものをプレゼントしたいわ」
「え、えっと、あたしは下着よりも、今はおなかすいちゃって。どこかで休憩しませんか?」
絢世の提案に、勇哉があからさまにホッとした表情を浮かべる。昼食前に家を出たので現実に空腹なのもあるが、それ以上に振り回されっぱなしの彼がいたたまれなかったためでもある。
「そういえばそうね。ここってレストランも入ってるの? じゃ、とりあえずこれだけ買って、お昼にしましょ」
と、すんなり了承してくれた橙珂は、絢世の押す車椅子でレジまで向かうと、リボンのついた長財布を覗き込んで一瞬硬直した。それまでの買い物では次々に湧いてくる万札で一般人二人をおののかせていたのだが、とうとう資金が尽きたらしい。何も知らない女性店員が彼女をせかす。
「お客様?」
「……何でもないわ」
取り澄ました顔で、鈍い銀色のカードを財布から抜く彼女。しかし店員は冷静に、お嬢様へ追い打ちをかける。
「クレジットですね。ではこちらにサインをお願いします」
「……見ない方がいいです?」
「……いいわよ、もう」
諦めた声音で、差し出されるペンを取る橙珂。わがままな時とは一転してしおれた彼女の様子がなんとも可愛らしく、絢世は浮かんでくる微笑みをこらえなければならなかった。
もういい、と言ったくせに彼女はこちらの目から隠すようにサインをして、購入した下着の袋を抱えて店を後にする。そのふくれっ面に、やっと視線を上げた勇哉が訝しげに眉をひそめた。
「お客様、白石桃子様。カードをお忘れです」
追いかけてきた店員の一声で、せっかく隠していたお嬢様のフルネームが暴露された。思いがけない不意打ちに勇哉は噴き出し、橙珂は顔を真っ赤にして店員からカードをもぎ取ると、八つ当たりのように小声で叱責する。
「少しは空気読みなさいよ!」
「え? はぁ、申し訳ありません」
当然状況を飲み込めないままの彼女が店に戻っていった後も、ツボにはまってしまったらしい勇哉の笑いは収まらない。
「もー、勇哉さん笑いすぎですよ」
「あっはは、悪い。そうか、じゃあ俺は白石って呼ぶかな」
「……やめてよ、この名前嫌いなんだってば」
「なんで。白石桃子、だろ。普通じゃんよ」
「やめてって言ってるでしょ!」
橙珂がヒステリックな叫びを上げる。本気の怒声に、絢世と勇哉の表情も凍り付いた。
「なんでって聞いたわね。祖母と同じ名前だからよ。あたしとあたしの母親を、父にふさわしくないからって理由で家から追い出した人よ。あいつのせいであたしは誰からも大事にしてもらえないのに……。そんな名前で呼ばないでよ」
きつい吊り目に浮かんだ涙を、乱暴に手の甲で拭う彼女。
「……すまん。わかった、悪かった」
「何がよ。ちょっと聞いただけでわかった風な口利かないで!」
「あのなぁ……」
荷物を下ろした勇哉は
「そりゃ、お前の抱えてるもん全部わかったとは言わねぇよ。つーか、
後半の言葉は思わずこぼれたぼやきのようだったが、本人も気づかなかったらしい違和感に絢世は首を傾げる。
「いつも?」
「……あんたとは今日が初対面だけど?」
「……悪い。何言ってんだ、俺」
「……もういいわ。早くご飯食べに行きましょ」
ため息をつく橙珂に、勇哉も立ち上がる。彼自身はまだしきりに首をひねっていた。うやむやになったような形だが、ひとまずは和解できたらしい。
ほっとした絢世の鞄の中で携帯が鳴った。
「……鳴ってるぞ?」
「あー、いいです。たぶんどうせまた非通知のだから」
「非通知?」
「最近かかってくることが多くて……。あ、止まった」
取り出した携帯の液晶を確認すると、着信は慧哉からのものだった。悪い事したな、と思っているうちに、その彼からメッセージが届く。
「大丈夫か、
「馬鹿ね、非通知にどうやってかけ直すのよ」
「あ、大丈夫です。違う人からだったので。……あたし、えーと、ちょっとお手洗いに」
そう言うと絢世は、車椅子の持ち手を勇哉へ託し、そそくさとその場を離れた。わざとらしさに自分でも冷や冷やする。虚を突かれた顔の二人を残して階段を駆け降り、そのまま駅ビルの外まで走り出る。
慧哉からのメッセージには『勇哉にばれないようにここまで来れる?』との一文と、どこかへ通じる道順が示されていた。どういうつもりなのかは知らないが、そこで待っているという意味だろうか。
休日の駅前はビルの中以上に混み合っている。人混みにもまれつつ、絢世は指示のあった通りを選んで、徐々に寂れた裏路地へと踏み込んでいった。
割烹、黒竹。見た感じは大きな黒い箱である。そこが、慧哉に指定された店だった。
入り口には『準備中』の札が下がっている。勝手に入っていいものだろうか。もう一度慧哉からのメッセージを読み返してみても、補足の情報はありそうにない。
しばらく掛札を睨んで絢世が立ち尽くしていると、軽やかなドアベルの音と共に、真っ黒な扉が外側へ開かれた。しかし、出てきたのはお馴染みの俳優ではなく、和服にたすきを掛けた初老の男性である。鋭い目と鷲鼻は、板前というよりも頑固職人といった印象だ。
「…………」
「……あの、待ち合わせをしていて」
「…………」
口を利いてくれない。
背筋を冷や汗が流れ始める。ひょっとして場所を間違えたのか。どう見ても子どもが一人で来るような店ではないし、食事の値段も高そうである。これは絶対間違えた、と確信した絢世が
「えっと、じゃあ、お邪魔します」
ドアをくぐると、外との明度差で一瞬目の前が真っ暗になった。
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