イデア

「だんまり決め込んでるんじゃないよ、つまらない子だねぇ」

 イブキの意識が女郎蜘蛛の腹の底から発せられる声によって、現実に連れ戻される。

「もしかして、アンタがあの人間を逃したのかい?」

 イブキの花羽を見て、巣に何枚か残っていた花羽を思い出したのだろう、生まれつきのつり眉をさらに吊り上げる。

「……だったら、なんなの」

 負けじとイブキも女郎蜘蛛を睨み返すが、怯む様子は全くなく、反対に余裕たっぷりの笑顔を返される。

「アハハ!別にどうもしないさ、こっちだってアンタらに手を出して面倒を被りたくないからね。せっかく恵殿のお墨付きで人間をたらふく食えてるんだ。こんな生活、誰が手放すもんか」

「クソ野郎が……」

 女郎蜘蛛の煽るかのような言葉に冷静さを失いつつあるイブキだったが、未だ、目の前の外道を攻撃することで、世界に更なる混沌が起きてしまうことを危惧する程の余裕はあった。

 先ほどまで春一番が吹き、晴れ渡っていた空模様だったが、どこからか微かに遠雷が聞こえてくる。

「さてと、さっきの人間を探すとするかね。ほら、アンタは目障りだからどっか行っちまいな。しっしっ」

 天候の悪化を気にしたのか、女郎蜘蛛は刺青の入った方の手でイブキを追い払う仕草を見せると、自分がアムを吹き飛ばした方向を見やる。目の前の弱そうな花御子など恐るるに足らない相手だと言わんばかりの、横柄で傲慢な態度だ。

「まって!」

 イブキは思わず蜘蛛の下半身にしがみついて、引き留めてしまった。

「一体何がしたいんだい、ほら、とっとと離れな!」

 イブキでもよく分かっていない突発的な行動に本人ですら呆気に取られていると、女郎蜘蛛から首根を引っ掴まれて吹き飛ばされる。すごい腕力だ。イブキはそのまま大木に叩きつけられ、うめき声を上げる。叩きつけられた衝撃で周囲に花羽が舞う。

 蜘蛛はそのまま一瞥をくれることなく、己の腹を満たすためにアムを探しに行こうとする。

「待てよ、ド派手ババァ!」

 背後から突然浴びせられた罵声に、眉間に皺を寄せ歯を剥き出しにして振り返る女郎蜘蛛。

「……あ?誰がババァだ、この寸胴野郎」

「アムを食べることは私が許さない」

「……ハァ、うるさいガキだね。なるべくなら事を荒立てたくなかったけど、仕方ない。もうアンタも食っちまおう。花御子一人くらい消えたとしても大して騒ぎはしないだろ」

 今度は眉一つ動かさずに冷たく言い放つと、蜘蛛は腹の先からイブキの方に向かってすばやく糸を放ち、まるで首輪のようにその細い首を締め付けた。

 イブキはもがいて糸を外そうとするが、まるで針金のように硬く、脱出できる気がしなかった。

 それに、窒息するよりも先に肉に食い込んでくる糸で首が今にもちぎれてしまいそうだった。

 

 一体、どうすれば。

 目の前の女郎蜘蛛が放つ毒々しい色彩と、山の木の落ち着いた深緑のコントラストが騒がしく、思考を妨げている気がして、イブキは自然と両目を瞑っていた。

 

 視界は一面真っ暗になり、自分の思考に集中できそうだった。目を閉じたせいで聴覚が鋭くなったのか、先ほどの遠雷が近くに聞こえる。

 

 イブキはつい先ほど、アムに表明した気持ちを思い出していた。

 今まで、誰にも告げずに押し込めてきた気持ちだった。

 出会って間もない、得体の知れない相手のヘビーな思いを、アムは跳ね除けるでも無視するでもなく、ただ黙って受け入れてくれた。

 それに、話は途中で終わってしまったが、恵殿に関して自分と同じ気持ちの方向性であることを打ち明けてくれた。

 そんな貴重な相手をこのまま見殺しにしていいのだろうか?

 花姫が作った訳の分からない馬鹿げた約束を守るために、これから先、二度と会うことがないような存在を見捨てて、免罪符を見せびらかす目の前の確実な悪を許していいのだろうか?

 ふと、真っ黒な視界の中にあの黒を思い出す。あの真っ黒で、この世の全てを映すことができるような輝きを持つ瞳。

 アムの瞳だ。

 イブキはあの瞳に、何か揺るぎない信念を感じとったのだ。

 あの瞳をもう一度見たい。

 あの黒に、飲み込まれてしまいたい。

 アムと、まだ話してみたい。

 

 イブキの視界が開かれると同時に、空に激しい閃光が走った。

 同時に轟音のような雷鳴が響き渡る。

「おい、何をした!?」

「……」

 苦しそうに肩で息をするイブキは、蜘蛛の問いに答えない。苦しくて答えられないのか、答える気がないのかは本人しか分からない。

「さっさと答えろ、ブス!」

 蜘蛛の怒号を掻き消すように、今度は閃光と同時に雷が落ちる。

「……っひぃ!」

 直前までイブキの首に繋がる糸を引っ張っていた力が、とたんに弱まる。

 その様子に、得体の知れない花御子の力を恐れて蜘蛛が身を案じているのをイブキは感じていた。

 きっと目の前の女郎蜘蛛も自分と同じ状況なのだ。

 恵殿によって生死を握りしめられている。

 そう思うとイブキは途端に緊張がほぐれ、ついさっきまで大きく見えた女郎蜘蛛が、普通の蜘蛛のように弱くていつでも踏み潰せる存在に思えた。

 

「どうしてもアムを食べたければ、私を倒してからにして」

「くそっ、調子に乗るんじゃないよ!あんな人間一人救ったところで今更何だって言うんだい!?くだらない!」

 再び女郎蜘蛛がイブキに向かって糸を繰り出す。

 しかし、イブキは花羽を広げて素早くこれを避けると一気に蜘蛛との距離を詰める。そして、手をピストルのように握って、人差し指を蜘蛛の額に押し付ける。

「分からない。だけど、アムには私を動かす力がある。……だからきっと、この世界も何か変わるかもしれない。そう思っただけ」

「そんな訳のわからない理由で、約束を破る気か!?」

 蜘蛛の決死の命乞いも、今度は空から発せられる低い雷鳴に有耶無耶にされてしまう。

「元から訳のわからない約束なんだから、破っても問題ないでしょ」

イブキが不敵に笑うと、蜘蛛の額に狙いをすました人差し指がビカビカと光り始める。

「やっ、やめ……、ねぇ、おねがい!」

「それに、魔物一人くらい消えたって誰も気づきはしないって」

「アタシはベーゼなのよ!?アンタ、絶対に酷い目に遭うに決まってる!そうでなきゃ、こんな事許せない!!」

「……それじゃあ、私のこと見守っててよ。地獄で」

 

「『雷花ライカ』!!!」


 イブキの指先から花が開くような閃光が弾けると同時に、蜘蛛の頭部に直接電撃が放たれ、蜘蛛の断末魔が辺りに響き渡る。

 蜘蛛の黒髪は逆立って艶を失い、着物がはだけた色白の胸元には雷の通り道を示すかのように、真っ赤な電紋が刻まれていた。

 女郎蜘蛛は白目を剥いて、地面に臥したままぴくりとも動かない。

 それを確認するとイブキは、ふぅと安堵の息を吐いてその場にヨロヨロと座り込む。

 久しぶりに花御子の力を使ったので、少し疲れていたのだ。

 さっきイブキが使ったような、自然の力を操る花御子の力『イデア』はとても体力を消費する。

 そのため、花御子達はそう簡単にイデアを使えない。ただ、今回のイブキのように感情が昂ったりすると、本人の意思に関わらずコントロール不能になってしまうこともあるのだ。

 

「いてっ」

 イブキは何だか痒い気がして首に手を伸ばしたら、まだ蜘蛛の糸が絡まっていて指を切ってしまった。

 蜘蛛に引っ張られている時よりは簡単に糸を緩めることができたが、それでも何重に巻かれた糸を手作業で外すにはまだ手間がかかりそうなので、イブキは先にアムを探すことにした。

 歩くことが面倒に感じたので花羽を広げ、上から探してみると木々の隙間から明るい綿毛みたいなものが見えた。

 近くに降り立つと、アムがあまりにも微動だにせず静かに目を瞑っているので一瞬縁起の悪いことがイブキの脳裏をよぎったが、すぅすぅと息を立てて寝ているだけだと分かり、ほっと肩を撫で下ろした。

「私、初めて魔物倒しちゃった」

 アムの傍にしゃがみ込んで、そのふわふわの髪の毛を撫でる。手のひらに暖かい体温をじっとりと感じ、改めてその生を感じ取る。

 イブキは早くアムと話したくて、わざと髪の毛を乱暴に扱ったり、鼻を摘んでみたりするがアムは中々目覚めない。

 どうしたら目が覚めるのか、イブキはアムをじっと見つめる。まださっきの雷が体内に残っているので、ほんのちょっとだけ雷を流したら起きやしないだろうかと、アムの眉間に人差し指をそっと添えてみる。

 すると、イブキのいたずら心が伝わったのかアムの目がばちっと開かれた。

「うわっ、ごめんなさい!」

 アムはすぐさま起き上がると、驚いて目を瞑るイブキを乱暴に抱き寄せ、イブキの背後に向かって右腕を伸ばし手先で何か動作を行なった。すると、とたんに強風が吹いて、真正面から風を受けたイブキの花羽が舞い上がる。

 背後から聞き覚えのある悲鳴が聞こえてきた気がして、イブキはまさかと目を開けた。

 振り返るとそこには、先ほどイブキと対峙していた女郎蜘蛛が仰向けに倒れる瞬間だった。最後の気力を振り絞ってイブキを追ってきたのだろう。ボロボロの身なりは先ほどと同じだが、胸元に穴が空いていた。

 そして、イブキに向かって発射されたであろう蜘蛛の糸が、腹の先にまだ繋がっていて、胸の傷から溢れる真っ赤な血がその糸を染めつつあった。

「ふー……、危機一髪。怪我ない?」

「アム!」

 イブキは先程までの戦闘とアムが目覚めたことによる昂りのままに、アムに抱きついた。アムの黒い目が丸く見開かれる。

「……おぉ、どうしたどうした。……何かよく分からないけど、がんばったんだねぇ」

 首には蜘蛛の巣が絡まり、衣服は血まみれのイブキを見て、アムは労いの言葉をかけながら幼い子供にするように「えらいえらい」と言って頭を優しく撫でてやる。

 「それ、取ってあげるからじっとしてて」

 アムがイブキの首にある糸を指すと、上下に動かす仕草をした。すると、糸が何かに切られたようにはらはらと地面に落ちる。

 糸でズタズタに切られた首が空気にさらされて嫌な爽快感があったが、イブキは傷口をさすりながらアムにお礼を言う。

「ありがとう……というか、何をしたの?その、今のもだけど、さっきの蜘蛛のやつも」

「魔法だよ」

 アムはイブキの疑問に簡単な単語で答えてみせた。

「魔法?……やっぱりアムは魔物なの?」

「厳密に言うと、魔物と人間の混血だね」

「へぇ……。魔法が使えるってことは妖精族にルーツがあるの?」

「まぁ、そんなとこかな。それよりも!」

 もっと聞きたいことがあったのに、強制的に話を終了させられイブキは狼狽えた。

「イブキはこれからどうするの?」

 イブキはすぐさま何かを言おうと口を軽く開いたが、まだ喉元で引っかかっているらしく、中々出てこない。

「ベーゼの魔物を倒したこと、しばらくは隠せるかもしれないけどそれも時間の問題。いつかは花姫達にバレちゃうよ。……花石でも持って帰れば違うんだろうけど」

 アムがペンダントのチェーンを指で絡めながら挑発的な笑みをイブキに向けると、イブキはさらに口を開けて眉間に皺を寄せた。

「馬鹿にしないで!そうまでして恵殿に戻りたくなんかない。……それに」 

 イブキは言い淀んで俯く。言ってしまえば二度と戻れない気がしたからだ。

「それに?」

 優しいアムの声がイブキの頭を持ち上げる。真っ黒な二つの黒点が、「言ってしまえ」とチカチカ輝いている。

 イブキはその輝きに観念すると小さく息を吐き、自分の中で燻っていた対岸の火事を完全に消し去った。

「私も恵殿に反抗したい。……もうこれ以上、花姫の好きにさせたくない」

「アハッ、だよね」

 アムはニッコリ笑って、イブキの吹いた風を受け止めた。

 


 

 


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