夢のまた夢

鹿苑牡丹

本文

 ショーケースに被っている天鵞絨びろうどの布を、オーナーは恭しい手つきで摘み上げた。

「本日最後の夢は、世にも珍しい、夢をつくる人間の夢となります」

 その夢玉は、中心に向けて光がどんどんと吸い込まれていくような、白濁したシャボン玉が幾重にも入れ子になっている特異なグラデーション・パターンを示して台座に鎮座していた。

 オーナーは白手袋でそれを掴み、よどみのない動きでディフューザーのコックに取り付けてからアルコールランプに火をつける。

 温められた夢玉から徐々に夢が溶けていき、白い霧が劇場に立ち込めてゆく。霧はどんどん濃くなっていき、ついには幻の雪が降り始める。霧中、ランプの火と夢玉だけが光っている。風の音が聞こえる。なんだか頬が冷たくなってきたように感じる。

 吹雪が強まるほどに、意識が持っていかれそうになる。鑑賞者としての自分の立場を精一杯保ち、唯一の現実である霧中のぼやけた光を見つめ、夢と距離を保とうと試みる。

 その光すら、ゆらゆらと、揺らぐ。

――それでは皆様、よい夢を……

 夢が、どろどろに溶けていく。意識が、どろどろに溶けていく。

 溶けていく、溶けていく……。


  -・-・ -・-- ・・ ・・・ --- ・・・・ 


「今日も少し出歩いてくる」と扉越しに告げると、ぎいぎいと椅子の軋む音が焦るようにして響いた。よしてくれ、と思う。スニーカーを履き終えてから立ち上がり、上半身だけを居間に向かって捻じると、声の調子を整えるためか、それとも単に空咳なのか、「ごほ」と苦しそうな声が聞こえた後、父が引き戸を開けて顔だけを覗かせるのが見えた。

「あまり遅くならないようにするんだよ」

「誰のために……」と口の中でもごもごと発声しかけるも、小さな声で相槌を打ち、私は家を後にした。苛立ちを隠すようにして静かに踏んだ砂利の上の雪が、ぱっと、舞った。

 途端、散った雪がきらりと光を散らし、現実というフィルムが溶けて裏に隠れていた景色を透かすかのようにして、夕日の差すどこかの高校の駐輪場で「早くしろよ」と振り向きざまに言うユニフォームを着た坊主頭の男を幻視する。

 風が吹き、誰かの「待って」という声を残して幻は立ち消えた。いつもながら、耳目を塞ごうが、見聞きできてしまうのが不思議である。棒立ちしている間に、自分の肉体から出っ張った異物として感じるほどに冷えきった頬を摩る。私の目に残っているのは見慣れた寺と、雪明かり。今日はこんこんとたましいの雪が降っている。

 夏季限定の飲み物の人工的なスイカ味、映画の入場特典であるゲームの最高レアキャラの星が散る技エフェクト、体を揺らしながら初めて叩いたカスタネットの感触などを振り払いながら、墓地へと歩を進める。先ほどのせっかちな誰かの記憶のように、早く終わらせたいのはやまやまなのだが、今回の依頼の完遂はいっとう難儀なように思われる。

 雪が勢いを増してきたため、幻覚がひどくうるさくなってきた。あまり五感からの情報は信じず、自身の記憶を頼りにして墓地の納屋に辿り着く。入りざま頭や肩に積もった雪を払ったせいで見えた、赤いランドセルを背負った小学生と川辺で石切りをしている光景に腕を差し入れ、つるはしを手にする。そのまま右手を振るって幻覚が落ち着くのを待つと、普段通りの土壁が見えた。

 "夢"、死者の記憶への対処は修行のようだとつくづく思う。(私は"夢"という記憶結晶の通称が好きだ。死者の風化した記憶は、もはや夢と言ったほうが適切だと思うし、死者も夢を見るというのが、何故だろうか、彼らにとっての安らぎに感じるからだ。)

 他人の記憶に第三者として紛れ込むのだったら現か夢かの判断も容易いだろうに、気を抜くとその視点の主を自分だと錯覚してしまうからだ。他所から記憶を盗掘しに来た一般人がすっかり惑ってしまうのも無理はないだろう。法律で禁じられているうえ、健康上さんざん注意喚起されているにも関わらず忍び込んで来てしまう阿呆といえど、体を生傷でいっぱいにして辺りの雪を血で塗らした大男が自分を失い、「ママ! わかったあ!」と叫んでいる姿を見るとさすがに同情を覚える。

 幻覚に飲まれないコツは、自分は夢を見ているという意識を持つことである。夢では視点の主が「自分が夢を見ているのだ」という自己言及を行うことはない。逆に、我感じずという、一歩引いた立場を意識していないと、すぐに記憶に蝕まれ、いつかの大男のように、何が本当か分からなくなってしまう。そういった観点でいうと、「感覚によって経験されたもの以外は、何も知ることはできない」という西洋哲学(たしか、ヒュームが唱えたのだったか?)の主張もあながち的はずれではないように思う。

 納屋から外に出ると、菩提樹が繁る美しい湖畔が見え、どこからかゴシキヒワの鳴き声が聞こえた。当然、日本にはゴシキヒワは生息していないので、突如として現実に割って入った景色は本当ではないと即座に分かりそうなものだが、物自体の存在、真偽を我々は直接は知り得ないということを前提にすると、思考のど壺に嵌まり、自失に繋がる。納屋付近ですらこんなに幻覚が強いのだ。中心地に向かうにつれ、その真実味はかつてないほどに増してくることが予想される。

「今日はやめておこうか」と少しためらったが、父の病は予断を許さない状況だろうと思い直す。存在の不確かさを認めたうえで、その刹那滅の波と付き合っていくのが仏門ではなかろうか、と自らの気を奮い立たせて歩を進め、「ぎゅ、ぎゅ」、と雪を鳴らす。


――パッヘルベルのカノンが流れる教会で祝言をあげたこと。彼女はウェディングドレス姿に関わらず足をあげて勢いよくブーケを投げていた。

 いや、私はクリスチャンではない。私は夢を見ている。

――足を置くごとに皮膚が焦げるような痛みがした灼熱の白砂海岸でスイカ割りをしたこと。叩き割ったスイカがあんなに食べにくいということははじめて知った。

 先程までの頬の冷たさを鮮明に覚えている。やはり私は夢を見ている。

――他に誰もいない文芸部の部室で、彼から「ずいぶんおでこだな」とからかわれたこと。あわてて両手で額を隠すと、くすくすと笑われた。手をどかすや否や、これ見よがしに額へと視線をよこしてくるので、「笑うなよ!」と言うほかに反撃のしようがなく、くやしい。いつか彼にやりかえしてやる、と復讐を誓う。

……。夢を見ている。

――相変わらず座り心地の悪いカラーベンチでバスを待つ。沈黙を破るのに適切だと思える話題が思い浮かばず、視線を雨によって結露した時刻表に向けていた。

「来ないねえ」とのんびりした声が隣から聞こえる。僕は卒業証書が入った丸筒を弄び、「ぽん」という間抜けな音を鳴らした。僕は、このままで、いいのだろうか。だって、今日が最後のチャンスなのだから。

 だから僕は今日。……いや、これは夢だ。

 今日明日にでも依頼をこなして金を工面せねばならないのだぞ、と気合を入れる。誰かの記憶に飲まれてしまえば事が露呈してしまい、父は不当な利益による治療を拒否、私は良くて破門という、誰にとっても得のない結末となるだろう。

 そうだからといって、恐れて何も行動しなければ問題は解決しない。我ながらいつまでもうじうじと情けない。どのみち、散々夢を売ってきたのだから、中途半端にやめて罪だけを被るのが最も不毛である。幻と結晶にまみれた道を急ぐ。

 もうすぐ死者の夢見る中心地だ。早く、早く。


 目の前には昨日よりも厚く地面を覆った半透明の結晶が広がっている。怯えを振り払うべく、大げさに足を踏んで「ぱきりぱきり」と記憶を鳴らし、いつもの掘削穴へと向かう。

 依頼人が求めているのは二十年前の記憶であり、採掘地の座標まで細かく指定を受けた。その座標は偶然か必然か、ここらの掘削穴で一番深い竪穴と一致していた。あとは深度さえ合わせればよいので、この竪穴を掘り進めれば依頼は果たせるはずだ。

 やはり気がかりなのは、依頼人が座標と深度の指定を行える程度にこの地に精通していることと、常のように記憶を売り飛ばせば目標が果たせるのでなく、私が記憶を鑑賞し、後日その内容を知らせることで対価が支払われるという点だ。破格の報酬が得られるので依頼を受けたが、誰が、何のために、なぜ私にこの特異な発注をしたのかは依然明らかになっていない。私はこれから何の記憶を見せられるのだろうか。雪となって降り注ぐのは、揮発しやすい軽やかな、正の感情が主体の記憶に限定されるはずなのだが。いずれにせよ、掘り進めるうちに明らかになるだろう。

 つるはしを強く握る。じゃあ、はじめよう。

 腕の筋肉ではなく、体を使ってつるはしを振るう。記憶のかたまりに勢い良く突き刺さり、きぃん、と音が鳴った。


 掘り進めるほどに時代は逆行していく。

 ランドセルを背負ったまま怒られない程度にホームルームの礼を行い、我先に教室を飛び出した。競争をしながら友人の家に向かい、一等の私がまず先にコントローラーを握ってアクションゲームを遊んだ。おばさんに出してもらった麦茶の氷が西日で溶け、かこん、と鳴って崩れる。

 景色が変わる。

 塾の帰り道、はじめて親に買ってもらった携帯電話の小さな画面に、きみと肩を寄せ合ってテレビを見た。トロッコ列車に乗って、二つに分岐した道のうち断線していない方を選ぶというていのクイズ問題で、トロッコの動きに合わせてわざと体を隣人にぶつけると、二の腕の辺りから熱が伝わってきた。トロッコは穴の開いている間違った方の進路を選び、落下していく。がつん、という大きな音を立てて衝突した。

 景色が変わる。その幻は今までのものとは雰囲気が異なっていた。


  -・-・ -・-- ・・ ・・・ --- ・・・・ 


 これから父になると告げた見知らぬ男に手を引かれ、私はわんわんと大声を上げて泣いた。ずっと一緒だった院長先生、友人たちと離され、見知らぬ人間と見知らぬ道を歩いているのが本当に心細かったのだ。「私が望んだことは何一つ叶わない」という幼さ故の全能感の挫折を嘆こうとするもうまく言葉にすることが出来ず、「ぜんぶ嘘なんでしょ!」とだけ言って"父"を糾弾した。"父"は静かに微笑む。

「色即是空という考え方が仏教の根幹にあってね。確かに、お前の言う通り、全ての物事は嘘と言えるかもしれない。けれどもそれを本当だ、という別の物事があれば、嘘は本当になるんだよ」

「何へんてこなこと言ってんの?」

「ごめんね、難しかったよね」と"父"が微笑む。私は馬鹿にされたと思い、不安から一転、怒りに駆られる。

「分かるから!」

「じゃあ、もう一回、説明してごらん」

「お前は、パパなんかじゃないってこと!」

 "父"は、さびしそうに笑った。

――不思議と悲しい記憶だ。負の感情が主体にある記憶は、この地の雪の特性を考えると異常である。指定された年代にも合致しそうだ。恐らくこれが依頼されていたものに違いない。つるはしを突き立てて結晶を崩し、より深い場所の記憶を嗅いでいく。


 寺の朝にすっかり慣れ始めてきた。土地はだだっ広い割に寺自体は小ぶりなので、一時間もあれば父とたった二人でも十二分に掃除できてしまう。しかし、慣れというのはつくづく恐ろしい。あんなに認めるまいとしていたのに、いつからか自然に彼のことを父だと思うようになっていた。折に触れて、寺を訪れる人々に私のことを息子だと父が紹介するのだが、その繰り返しが原因だったかと考えてみる。

 いや、そうではない。彼を本物にしたのはあくまで私だ。それはきっと、澄明な朝の空気の中、一人本尊に向かう父の孤独な背中に共感を覚えてしまってからだろう、と直感する。

 父が、りぃん、と鈴を鳴らした。

――やけに、見覚えがある寺だった。あとの祭りだが、視点の主と自分を切り離すのがいよいよ厳しくなってきた。


 私は最近、定めというものは何かを考える。父のことを他者と認識していた時もそうだったが、縁に背こうとすると無理をしているという気がして疲れてしまう。かつて父が語った仏教の精神が、ようやく掴めてきた気がしているのだ。

 同時に、「それとも所詮これは未熟者の早合点で決して定めといえるものではなく、単に私が怠惰なだけなのだろうか」とも悲観的に思う。発見に係る嬉しさを覚えるとき、後に落胆はしないかと、こんな風にどうしても身構えてしまう。

 こんな抽象的なことを考えるのも、具体的な体験が先立ってのことだ。私は自然に広がった輪、自然に身に付いた習慣に半ば流されるようにしてだが、仏教系の大学に進学して体系的に理論を学ぶ傍ら、家では父に伴って法要に務めてきた。私はこういった時間の使い方を努力だと認識している。これからも過去の履歴が指し示す方向に進み続けるつもりで、私の未来は万事問題なかろうと思おうとしているのだが、どうしても大学を卒業するとなると「何かを間違えてはいないだろうか」とナイーブになる。

 ふと、いつまで時間が続いていくのだろうか、いつまでうまくやっていかなければならないのだろうか、と遠い目をしてみる。私は、自らをテセウスの船になぞらえ、暫くの間、時間の海を漂う。

 よく言えば人間的、悪く言えば小心者の私が、果たして住職としてやっていけるのだろうか。「夕食後に部屋で話をしよう」という父の言葉が何度もリフレインする。決定的に何かが変わってしまうような気がしているのだ。

 冥路に入らんとするオルフェウスの心持ちで、私は恐る恐る引き戸を開けた。

――これは、父の記憶だ。……父?


 今日はこんこんとたましいの雪が降っている。目の前をゴシキヒワが嘘のように澄んだ美しいさえずりをあげて飛び立つ。

 父にとって私は何者なのだろうか。どう振舞えば期待に応えられるのだろうか。父はよく言えば聖人だが、悪く言えば説教臭い。私が期待していることなどとっくに察しているだろうに、もったいぶり過ぎじゃないかと少しだけ不満を覚える。内心、「継いでくれ」と聞けるものだと思っていたが、何故、よりにもよって雪の強い日に霊地くんだりに行く羽目になったのだろうか。

 少年合唱団のアルトとして歌うことの出来る最後の冬の記憶を見る。こうして実際に他者の正の感情に溢れた記憶に揉まれると、つい見とれてしまって修行不足を痛感する。あっぷあっぷしながら幻をかき分けて霊地の中心に近づいて行くごとに、その真実味は増してくる。視点の主と自分が入り混じり、「私は誰だ?」という疑問が強まる。何とか、父の指定した掘削穴に辿り着く。父の言う通りにつるはしを振るうと、結晶が散り、誰かの記憶が溢れた。

――――不思議と悲しい記憶だ。

――――やけに、見覚えがある寺だ。

――――これは、父の記憶だ。

 夢のまた夢のまた夢に飲まれていく……。

――――――不思議と悲しい記憶だ。

――――――やけに、見覚えがある寺だ。

――――――これは、父の記憶だ。

――――――――……これは、父の記憶だ。これは、父の記憶だ。これは、父の記憶だ。これは、父の記憶だ。これは、父の記憶だ。これは、父の記憶だ。これは、父の記憶だ。これは、父の記憶だ。これは、父の記憶だ。これは、父の記憶だ。

 夢のまた夢のまた夢のまた夢のまた夢のまた夢のまた夢のまた夢のまた夢のまた夢のまた夢の……


――いったい、私は誰だっただろうか?

 夢の底で、一番初めの私?の声が聞こえた。

「ここを治めるためには、囚われないためには、無私の身とならなければいけない」

――私? いやいや、私?は観客で、この夢を鑑賞している立場ではなかったか?

「色即是空、空即是色」

 一番初めの私?が体の底から気霜をほうっと吐き始める。そうすれば楽だと知った私?を含んだ私達もそれに倣う。焼き付けられた記憶のほんの輪郭だけを残して、記憶の色が次々と失われていく。息の白さは体から離れるほどに強まって結晶化し、きらきらと光を反射した。それらの結晶の粒は、掘ったばかりの穴を埋めていく。息が出るほど、どんどんと私達、私?は冷め、感覚が鈍くなっていく。

 人間臭さが全くなく、僧侶として理想的だと尊敬していた父?の姿も、この儀式を通して生まれたのだろうと気付く。別に私?がこう成り果て、僧職につくことに異はない。自分の定めだと元から思っていたからだ。

 しかし、私達の中の私?はやり残したことがあったのではないかと主張する。せめて父?を救ってやりたいと思うのだ。

 無私となりつつある私は、その私?を助けを求める衆生と見做し、救ってやろうとその欲を肯定した。

 それでは、私?がやっていたように夢を売り、その金を父?の治療に充てることにしよう。

――待ってくれ、売る? 私?は買う側で、対価は既に支払ったのではなかったか? 私?は観客でこの夢を見ている……。

 気息の勢いが衰える。ちっぽけな部外者の私?も薄らいでいく。


  -・-・ -・-- ・・ ・・・ --- ・・・・ 


 雪のふる街の夜。白濁した半透明のガラス玉を片手に持ち、少しも乱れのない隊列を組んで地下劇場から現れた人々は、灯りのない方へと歩を進め、そのままどこかへ消えていった。

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