メロンパンの香りは
@Cheesecake555
1話完結
「いってきまーす!」
高校にあがって買った、まだ新しいローファーに足を入れながら叫ぶ。
「いってらっしゃい」
お母さんの優しい声に背中を押されるようにドアを開ける。ここから、私は家の中とはまるで違う人間になる。
私こと空木優香は俗にいう陰キャである。いや、超絶陰キャである。苗字は“からき”と読むのだが、学校では『くうき』と呼ばれている。まあ、陰キャで存在が空気な私にはちょうどいいあだ名だろう。
今日もまた、静かに自分の机に向かう。と、人生そんなにうまくいくわけもない。教室の真ん中あたりで、後ろから強い衝撃を受けてよろめいた。
「え!“空気”って触れるんだ!」
「まじ?!大発見じゃん!ウケる~笑」
口の中で小さくごめんなさいとつぶやいてみるが、野次の声にかき消されてしまった。やっとのことで席に着く。今日も、いつもと変わらない一日。目を閉じて深呼吸する。目を開けたら世界が何もかも変わっていればいいのにと心から願う。でも見えるのはいつもと同じ、変わらない風景。変わらない世界。
お昼休み。この時間帯、私は本物の空気となり、教室に存在していないかのようになる。だから朝のようなこともなく、比較的平和に過ごしている。机に広げたお弁当は、自分で作ったものだ。一人静かに食べるご飯も悪くは、ない。はず。自分の心をだますかのように、何度も悪くない悪くないと連呼する。良いと言えないことには目を背けて。
昼休みが始まって十分くらい経ったときだろうか。目の前の席に誰かがドカッと座ってきた。まあ、私はいないのと同じ存在だから前に誰かが座るのはよくあることだった。ちらっと顔をあげる。すると、目が合ってしまった。唐木蒼空。同じ読みの苗字だが、私とはまるで違う世界に住む人。俗にいう陽キャだ。なぜこっちを向いているんだ…私の頭は一瞬にしてパニックに陥った。するとあろうことか、その人が口を開いた。
「おいしいの?」
一瞬にして教室の空気が凍るのがわかる。もちろん私も凍りついてしまった。その言葉は私に向けて発せられているのだろうか。緊張と焦りに、動けないでいる私を見て、彼がまた、口を開いた。
「空木さーん?おいしいですかー?」
先生以外から“からき”と呼ばれたのは、高校にあがって初めてかもしれない。私は、『くうき』じゃないんだ。“からき”というその言葉に、たった三文字に、凍っていた私の心は融かされていった。彼の澄んだ目は私をじっととらえて離さない。目は口程に物を言う。私は彼の言いたい事を理解した。理解してしまった。もう後戻りはできない。からからに乾いた口をなんとか動かす。声を、勇気を、出すんだ。
「おいしく…ないです」
お弁当が美味しくないんじゃない。でも、一人で食べるお弁当は、確かに、おいしくなかった。悪くないなんて、嘘だ。ずっと、誰かを、待ってたんだ。
「じゃ、一緒に食おーぜ」
彼は、私には眩しすぎる笑顔を向けて、そう言った。私の体は、先ほどとは違う緊張感を感じて、動かなくなってしまった。だが、そんな体とは裏腹に、心は温かく明るい、“なにか”で満たされていく感覚がした。と同時に、今まで心を満たしていた、黒く、どろどろとした『なにか』が涙となって溢れ出てくる。彼の開けた袋から流れてくる、メロンパンの果てしなく甘い、でも、どこか爽やかな夏の香りが私の鼻をくすぐった。あぁ、これって、もしかすると。いや、もしかしなくても。“恋だ”
メロンパンの香りは @Cheesecake555
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