第二章
絵の具を乾かしていた小道具や、貸し出されている幾つかの工具を持って廊下を歩く。普段は無機質なただの壁が、どこも派手に装飾され、文化祭の前日であることを訴えかけてくる。縁日や迷路、カフェなど、個性豊かな教室に紗希は目を輝かせていた。
「もういよいよだね、文化祭!」
「そうだね。もう行きたいクラスとか決まってるの?」
「そりゃもちろん! パンフレットに印までつけてあるんだから。」
クラスの違う莉乃とはシフトの時間がずれてしまったから、明日は紗希と校内を回る予定だ。つまり、彼女のパンフレットに付けられた大量の赤丸に全て付き合わされるという事で、私は苦笑いを浮かべた。
「まぁ、まずは作業を終わらせないとね。」
工具を貸りる申請に時間がかかってしまったから、もう教室では作業に取り掛かっているはず。
「よーし、頑張るぞー!」
そう意気込む紗希に、私も両手で持っていた重い道具を片手に持ち直し、「おー!」と拳を上げた。
けれど、その意気込みも虚しく、教室のドアを開けた紗希は「マジか……」と肩を落とした。
歩きながら見ていた他クラスの教室。それらと大きくかけ離れた私達の教室に、活気なんてものはなく、普段の無機質さを未だ有したままだった。
なんとなく、嫌な予感はしていた。連日の作業の様子を見れば、意欲的な人が大していないことくらい誰にでも分かる。だからこそ、見て見ぬフリをしていたけれど、もうそれも潮時だ。
紗希は重い足取りで教卓に向かい、荷物をドンっと音を立てて置く。そうして深呼吸した後に、「聞いてくださーい!」と明るい声色で話し始めた。数人が彼女の話に耳を貸す。
「明日が文化祭当日です。このままだと絶対に間に合わないので、みんなで協力して作業を進めてくださーい!」
一瞬の静寂の後、「は〜い。」と気だるげな返事がちらほらと聞こえるだけで、立ち上がり作業に取り掛かる人は片手で十分な数だった。
まぁ、そんなものか。
注意喚起なんて、本当に聞いて欲しい人には届かない。
ゲームに戻る人や、差し入れのお菓子を食べながらただ喋るだけの人。紗希はその人達を見てふぅーと息を吐き出した。
私も持ったままだった荷物を教卓に置き、作業に取り掛かる。
山のように積まれた画用紙を一枚ずつハサミで切りながら、静かだった紗希はぼそっと周りに聞こえない声量で言った。
「絶対間に合わないよ、こんなんじゃ。」
ついさっきまで楽しそうに話していた彼女の落ち込んだ顔。それを見るのがなんだか辛くて、「大丈夫だって! 頑張ればきっと間に合うよ。」と無理やり明るく言って見せた。
笑っていて欲しい。正しく頑張っている人が悲しむなんて嫌だから。紗希を暗い表情にさせる現実から、少しでも目を背けてくれれば、それで良かった。
けれど、返ってきたのは「綺麗事だって、そんなの。」と、どこまでも現実を見た言葉だった。冷たい声が床に吐き捨てられる。
あぁ、また間違えたみたい。綺麗事か。それはわかってたんだけどな。なんて言えば良かったんだろうか。
答えの分からないその問いに、言葉が詰まる。そうして結局「ごめん。」と独り言のように呟き、黙々と画用紙に向き合う事しか私は出来なかった。
ようやくあと三割程度の進捗になった頃には、もう外は真っ暗で、教室にいる人もたった数人にまで減っていた。
「私、リーダーの会議あって教室戻って来れないから、最後の人電気お願いねー!」
そう呼びかけた紗希は、「またね、香菜。」とリュックを背負って教室を後にした。作業中は口数が少なかったから、帰りだけでも声をかけてくれた事に安心する。嫌われたわけではないみたいだ。
よし、紗希の代わりに私が頑張ろう。
そう気合いを入れ直してダンボールにカッターの刃を入れた。
段々と増える教室の物音。他のみんなも同じように頑張ってくれているんだろう。そう思っていたから、「香菜ちゃん。」と呼ばれて顔を上げた時に私は目を見開いた。
「あれ、みんな、帰るの?」
リュックを背負ったみんなの後ろには、少しだけ片された道具と未完成の看板。
「うん。ほら、紗希ちゃんももう来ないし、香菜ちゃんも一緒に帰らない?」
気だるげに作業していたのとは打って変わって、随分と嬉しそうに話す。
あぁ、そっか。みんな紗希がいなくなるのを待ってたんだ。監視の目が無くなるのを。
あまりの失望に目を合わせていられなかった。みんなへの失望じゃない。現実を見なかった自分への失望だ。
「いや、私はもうちょっと残ろうかな。キリ悪いし。」
カッターの刃先が震える。
「そっか、じゃあ私達は先に帰るね。」
「うん。また明日。」
「またねー。」と振られた手に振り返し、教室から人が消えた。
秒針がカチカチと音を立てる。もう紗希は会議が終わっただろうか。みんなは帰って楽しい時間を過ごしているだろうか。
雑に片された筆を取り出し、看板の空白を丁寧に塗る。床に落ちていた企画書通りに描き、教室の入り口に立てかけた。想像以上に重くて少しドアにぶつけてしまったけれど、きっと誰も気付かない。
真っ暗な廊下。蛍光灯が照らすこの教室は、虚しいほどに眩しかった。
私も帰ろう。
完成した教室の電気を消す。廊下に残されていた差し入れのお菓子。その一つを自分の鞄に入れて、残りを入れたビニール袋は紗希の下駄箱に入れた。もうスニーカーがないから彼女は帰ったんだろう。明日の朝に受け取ってもらえればそれでいいか。この涼しい気温なら痛むこともないだろうから。
教室で書いておいた小さな紙切れ。
「お疲れ様! みんなで作業終わらせたよ〜!」
慣れない丸文字で書いたそれを、一緒にビニール袋へ入れた。
これで合ってたのかな。
また間違ってないかな。
帰り道の暗がりは何も答えてくれなくて、私の心を何度も揺さぶった。
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