優しさに足跡

Renon

第一章

 あの日は春に似つかない暑さの日だった。首にまとわりつく髪すら痒くなってきて、帰り道の途中に入ったコンビニはもうクーラーが効いていた。

「莉乃は何か買う?」

「いや、金欠だからいいや。」

 そう言って雑誌を読み始めた彼女を置いて、私はそのまま店内の奥まで進む。

 新商品のラベルを付けた炭酸が私を誘う。想像しただけで喉をシュワシュワと刺激する感覚に駆られ、そのペットボトルに手を伸ばした。

 莉乃はまたアイドル誌でも見ているんだろうか。

「イケメンに顔がニヤけてんぞ〜。」とか言って、少し揶揄っておこう。

 棚越しに見えた彼女の姿。汗で腕に張り付く表紙を煩わしそうにしながらページを捲る。背中に熱気が籠るのか、時々リュックをずらして空気を送るその姿に、私は声をかけるでもなく持っていた炭酸を静かに棚へ戻した。


「お待たせ。」

 雑誌に夢中な莉乃に声をかけ、私達は再び太陽の熱気に晒される。

「あついー!」と嘆く彼女に私は「ちょっとお願いがあるんだけどさ、」と前置きをした。

 買ってきた二つ入りのアイス。そのうちの一つを「半分食べてもらえない?」と莉乃に差し出した。

「え! いいの!?」

 嬉しそうに、でも少しだけ躊躇いを見せた彼女の手に、私は強引にアイスを渡す。親友だというのに未だ遠慮の心を忘れないのは彼女らしいけれど、こういう時は少し面倒くさい。

「二個入りしか売ってなくて、この暑さじゃ溶けちゃうからさ。」

 それを聞いた莉乃は「なら、ありがたくもらうわ。」とようやくアイスを受け取った。

「香菜は優しいね。」

 私は照れ隠しでも謙遜でもなく、ただ正直に「そうでもないよ。」と返した。

 確かに優しい人だと言ってもらえることは多いけれど、私はそんな出来た人間じゃない。一人だけ涼むのは気まずいし、これが食べたかったのも事実なんだ。きっと本当に優しい人は、こんな利己的な感情は抱かないだろう。

「ん〜! これめっちゃ美味しい!」

 けれど、そう言って嬉しそうに笑う莉乃を見て、優しい人になるのもいいなって思ったんだ。


 だから、意識的に他の人にも優しくしてたんだけどな。どこで間違ったんだろう。


 宙に漂う自分の笑い声。そのまま教室の喧騒に紛れていくと思っていたのに、紗希の一言で最も簡単に地面へ叩き落とされた。

「ねぇ、香菜のそれ、愛想笑いでしょ?」

 きっと彼女はそんなに気にしていないんだろう。

「そんな無理して笑わなくても、ほら、みんなだって疲れてこの有様だし。」

 そう言ってゲームをしたり、居眠りを始めた同じクラスの人たちを指差した。もうみんな疲労困憊だ。重い空気の中、楽しそうに笑っているのは委員会で遅れてきた紗希だけ。だから、せめて私だけでも紗希の話し相手になろうと元気でいたのに、駄目だったのかな。それに、あの笑いは愛想笑いなんかじゃなかったのに。

「無理なんてしてないよ。紗希の話面白いからだって。」

 今度は本当の愛想笑いでそう返す。紗希の為とか、教室の空気の為とかじゃない。自分が傷付かないようにする為だ。

 何か言われる前に、「気にかけてくれてありがとね。」と言って話を終わらす。

 そう、きっと紗希の言葉は私への優しさだ。ただ気にかけてくれただけ。そう自分へ言い聞かせて、「ここの場所なんだけどさ、」と話題を変えた。

 文化祭までもうそんなに日はない。ずっと仲良くしていた紗希と、こんなことで気まずくなるのは嫌なんだ。


 お化け屋敷の入り口にかけるという看板。「入り口」と既に黒く縁取られた文字の中を、教室装飾のリーダーである紗希の指示通り、赤のカラーペンで塗っていった。さっきの言葉なんてなかったかのように彼女は話を続ける。相槌をしながら持っていたカラーペンはガクッとダンボールを滑り、黒縁からはみ出てしまった。

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