温暖化

孵化

第1話

 死んでしまった時間について思う。秒針の廻転はさながら断頭台のようで、だとしたら、首を落とされた鳩が延々と生き続け、一周する頃に生き返る様はなんて不気味なんだろうか。そんなことを考える。

 死んでしまった時間について思う。後悔はエントロピーの増大と共に肥大化するのに、その本質は変わらないらしい。死んでしまった友人について思う。彼女は夏に殺された。私は夏が嫌いだった。


 ***


 棺桶を前につぶやくのは懺悔だった。たかが棺に何を呟いても、返ってくるのは自分が自分に対して言うだけの気休めにしかならない慰めだ。わかっていた。私は、彼女を前にして初めて、自分と対等な対話ができるのだ。彼女が私の半分を持っていった。あの日からずっと、私は不完全だ。不完全人間、例えるなら、カマキリとか、毒虫のような。

 ああ、だが別に、そう悲観することはない。

 彼女は死んだが、死に続けるわけではない。いつか帰ってくる。それは多分、あの時計の針が一周する頃だ。あるいは、カレンダーを捲った時。もしくは、冬が終わる時。


 ***


 時間が経つにつれて、時間という空間は肥大化する。精神世界のような物だと思ってもらえれば構わない。私はそこに住んでいた。どれだけのエントロピーが増大しようと、空間の中に居座る概念そのものが増殖することはない。概念は常に一定で、時間と共に無限に肥大化していく。誰かが名前を付けた瞬間に、あるいは、誰かがそれを忘れた瞬間に。概念という名前の付いたエントロピーが肥大化する。あの、歴史と書かれた紙を貼り付けられた棺桶が目に見えるだろうか。

 あれが肥大化したエントロピーで、人間に季節と呼ばれているものだ。

 あの棺桶の中に入っているのは、ちょうどこの間死んだ私の愛するべき彼女だった。


 ***


 完全変態する昆虫について一つ質問をしたい。

 蛹の殻の中で一度溶けて、再び成虫として体を形成した彼らは、果たして同じ虫と呼べるのだろうか。虫そのものでないとその答えは見つからないかもしれないし、虫ですらわからないかもしれない。ただのたとえ話だから、話半分に聞けばいいだろう。

 話を戻そう。

 彼女は、あの棺桶の中で眠っている。季節と呼ばれる概念だった彼女は、季節が終わってなお、人間が肥大化させたエントロピーの中で生き続けなければならない。本来、一度死んだ者が再び生き返ることはないが、彼女のような概念は、何度死のうと、死という苦痛を味わうだけで本質的な死を得ることはできない。

 死という形を纏い、棺桶の中で眠る。彼女は春だ。春は夏によって殺されてきた。夏は私だった。


 ***


 春を殺した感触が、まだ手に残っている。長い時間をかけて、彼女の首に徐々に手をかけて、少しずつ力を込める。呼吸ができなくなった彼女は次第に光を失って、月が動くようなわずかな動きを持って死んでいく。

 その感触を、ずっと覚えている。

 秋は私を殺せない。季節として曖昧で弱い秋は、夏である私を殺すことができない。対して冬は強い。秋を殺し、寒波を齎す。正確に言えば、春は夏に殺されてしまう。秋もまた、冬に殺されてしまう。消されてしまうのだ。異なる概念は相殺され、より強い概念が片方を飲み込んで同化する。だが、概念は死ぬことができない。故に、一度死んだ者はしばらくたてば生き返る。それが、人間の言う季節の移り代わりだった。


 ***


 棺桶の中で、彼女はドロドロに溶ける。跡形もなく、彼女が彼女であったという証拠はどこにも残らない。彼女の面影を纏った別の彼女が、彼女の名前を名乗り、彼女として私の前に立つ。

 一度として同じ季節はない。ただ、概念としては同じ春だ。そのすり合わせがこれだった。肉体だけが死に、概念だけが生き残る。棺桶の中で肉体は溶け、概念だけが液状化する。そこに肉体が肉付けされて生き返り、再び春として桜を咲かせる。

 不気味だとは思わないだろうか。四季の移り変わりを情緒的で感動的な物だと考え人間には心底嫌気がさす。

 同じ職人が作った同じ人形でも、物が違うのならそれは、君の愛したあの人形ではない。ならば私は、私が最初に愛した彼女を、私が殺す度に生まれていく春に重ねて、それを彼女だと思い込んでいるに過ぎなかった。

 滑稽な話だった。私の愛した彼女はもう二度と帰ってこないのだ。私の愛した彼女という概念だけが、何度も生まれ変わるだけで。


 ***


 だから、もう終わりにしようと思った。私がこの棺桶を開ければ、ドロドロに溶けた春が顔を出すはずだ。それを掬い取ってその辺にまけば、春は二度とやってこない。冬と夏が春の代わりをして、春の代替品として桜を咲かせる。春という概念が死ぬことはない。肉体だけが死ぬのだ。その概念は無造作にまかれて、個としての力が弱くなる。春と秋。高温と低温という二つの概念の内の、低温が死ぬのだ。夏は相対的に力を強めて、冬は相対的に力を失う。もしそうなれば、地球の平均温度は上がるだろうか。いや、そんなこと私には関係ない。

 もう終わりにしたいのだ。春を楽にさせてあげたいのだ。

 私は棺桶の蓋を開けて、中を満たす桃色の液体を地面に撒いた。中身が無くなるまで何度も、掬っては投げ、掬っては投げた。

 いつの間にか秋が終わり、気付けば冬になっていた。

 久しぶりに見た冬はやせ細り、ほとんど力を失っていた。私は、彼の代わりに、冬の真似事をする。

 春が入っていた棺桶に蓋を占める。その蓋が開くことは二度となかった。


 ***


 春を失い、保たれていた均衡は崩れた。冬は次第に力を失い、今では私が、冬以外の全ての季節を真似することで生き永らえている。

 人の世界ではこれを、地球温暖化と呼んでいるらしい。だが生憎、私には関係のないことだった。人間が作り、人間のせいで死の円環を生きなくてはならなくなった彼女と無数の春に代わって、私が人間に復讐する。

 ただそれだけの話だ。



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