第7話 悪夢の評価は慟哭と共に

「ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!」

 飛び起きる。

 見覚えのある風景が視界に広がったが今はそれどころじゃない。

「ハア、ハア、ハア」

 心臓が痛いくらいに鼓動する。

 額や背中からはグッショリと気持ちの悪い汗が流れ出ていた。

「水野さん」

 名前を呼びかけられる。けれども振り向く余裕はない。

 気持ち悪い。

 あぁ、気持ち悪い、吐きそうだ。

「水野さん!」

 今度は強めに呼びかけられる。それと同時にうつむく視線の先に洗面器が差し出された。

 奪い取るように両手でそれを持つ。

 喉の奥。

 ギリギリでせき止めていたものを開放する。

 異臭が鼻をつく。

 ベチャベチャと反射する乾いた音が鼓膜を震わせる。

 ゲエゲエ、ゲエゲエ。

 嘔吐は延々と続いた。


 体感で小一時間ほどだろうか。

 不快感がようやく収まってきた。

 完全に消えたわけではないが差し出されたペットボトルに口をつける程度の余裕は出ていた。

「フウ~」

 程よく冷やしてくれていたのだろう。

 心地よく喉を通って、流れ出た汗を補填するように水分が身体の隅々まで行き渡っていく。

 こんなに水がおいしいと思ったのは初めてかもしれない。

「落ち着きましたか?」

 こちらの様子を察してか声が掛けられる。

 嘔吐中、再三に渡り呼びかけられていたが反応することができなかった。

 ここでようやく声の主の方向に視線を向ける。

 こちらの様子をつぶさに観察するあどけない顔が目に入る。

「落ち着きましたか?」

 香久山君が同じ質問をする。

「はい……すみま、せん」

 息を整えつつか細い声でそう返事をする。

「もう少し横になりますか?」

 今度はおしぼりを差し出しながら香久山君から提案されるが、受け取りつつもそれには首を振る。

「いえ……大丈夫です」

 顔面一杯に温もりある湿り気を浴びる。

 ようやく息も落ち着いてきた。

「すみません、でした」

 おしぼりを顔から放し香久山君に改めて向き直る。

「もう、大丈夫です」

「まだ無理しなくてもいいんですよ?」

「いえ、本当に大丈夫ですから」

 気を遣ってくれるのはありがたいのだがそれよりも聞くべきことがあった。

「あの、さっきまでの、夢は……」

「僕が創った夢です」

 分かっていたことではあったが、疑問はすぐに即答された。

 やっぱりそうか。

 あの夢もやっぱり彼が。

 悪夢を見せる力。

「信じられない、あの、すごい、力、ですね……」

「悪用くらいしかできませんけどね」

 貧弱な語彙で現した言葉に彼は困ったように笑う。

「他人様に害しか与えられません」

 なんでだろう。

 参ったなぁ、と言いたげに浮かべられる笑み。

 理由が、何かこう、上手くは言えないのだけれど。

 とても寂しそうに見えた。

「ねえ」

 理由を聞こうと口を開きかけた瞬間だった。

 唐突に気だるげな声が会話に割り込んでくる。

 振り向けば椅子の背もたれに身体を預けながら、春日井さんが猫のような視線をこちらに送っていた。

「はい?」

 彼女の問いかけは私に向けられたものだろう。

 おっかなびっくりではあるが反応を返す。

「どうだった?」

 簡潔な質問だった。

 それでも何を問われているのかは容易に理解できた。

「えぐかった?」

 そんな生易しいものじゃない。

 心が壊れるかと思った。いや、実際に1度は粉々に砕け散った。

「泣き叫んでたね?」

 叫びながら目を覚ましたのなんて生まれて初めてだ。

「それで、使?」

 息を飲む。

 顔をうつむかせる。

 使う? 何に?

 そんなの決まってる。

 あのにだ。

 あの悪夢。絶望というのすら生ぬるい光景をあの女にも。

「お前さ、そういう話は水野さんがもう少し落ち着いてから……」

 香久山君が春日井さんをたしなめるようなことを言っているが、それどころではない。

 私が見て、聞いて、触れたものをあの女も私に成り代わって体験する。

 あの女にあの光景を。

 あの女にあの絶望を。

 そんなの、そんなこと……。

「最高すぎる……」

 漏れ出た言葉にいくつもの視線が注がれる。

「ヒヒ、クヒヒッ」

 せきが切れたように続いたのは奇妙な、とても奇怪な笑い声だった。

「クヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒ、クヒ、ヒヒヒヒ」

 ダメだ、止まらない。

 いや、止める必要もない。

 ああ、愉快だ。最高すぎる。

「クソババア!」

 笑い声の次に出てきたのは叫び声だった。

「クソババアが! ざまあみろ! 何が幸せだ? 何が幸福だ? テメエが娘差し出そうとしてまですがったカミサマはまがいもんだったぞ! ざまあみろ! 気持ちのわりぃ目玉と口の化け物だったぞ、ざまあみろ! 喰われちまえ! 化け物のクソとなって消え失せろ! その無様を笑われろ! 震えて眠れ! 糞尿まき散らせ! テメエの馬鹿さ加減を呪いながらクタバレ! クソババアが!」

 決して広くはない整体院に息つぐこともなく絞り出された呪詛が響き渡る。

 今日、何回目かも分からない息切れを起こす。

 人間の鼓動の回数は限られているというのに今日だけでかなり寿命が縮んだんではないだろうか。

「気済んだ?」

 そう聞いてきたのは春日井さんだ。

 ドン引きな姿を見せつけたというのに物怖じした様子も見せず、先ほどまでと変わらぬ調子で質問してくる。

「で、どうすんの?」

 どうする? あぁ、そういうことか。

 春日井さんの質問に答える前に私は香久山君の方を見る。

 香久山君も至極落ち着いた表情でこちらを見据えてくる。

「夢の内容は問題ないですか?」

 その質問に黙ってうなずく。

 文句なんてあるはずもない。

 身を刻むような恐怖と一欠けらの希望すらも踏みにじる絶望。

 これでいい。これがいい。

 あの女の人生を丸ごと否定してやれる。

 この悪夢は今ここで完成した。

「それでは、この夢の内容はこのままで、。それで、いいんですね?」

 これが恐らく最後通告だ。

 ここでうなずいてしまったらもう後戻りはできない。


「お願いします」


 一片の迷いもなく即答する。

 痛みは負った。

 二度と忘れることもない情景を目に焼き付けた。

 あれをあの女に味合わせることができるのなら、復讐の罪くらいどうってことない。

 少なくとも今はそう思えた。

「分かりました……」

 香久山君は瞑目しながらフウと息を吐く。

 それが依頼が本当の意味で承諾された瞬間だった。

「あっそ」

 春日井さんは特に感慨に耽る様子もなくそう呟くと椅子から立ち上がる。

 そして私の目の前にまで近づいてきた。

「吐いたばかりで悪いけど。じゃないと

 

 ショッピングモールでそう説明されたが改めて聞くとゾッとする。

 あの悪夢を未来永劫見続ける。

 睡眠という人間が生きていく上で欠かすことができない活動が自身を蝕み続ける地獄となる。

 考えるだに恐ろしい。

 香久山朝日。

 彼に狙われた者は文字通り眠れぬ夜をその生涯で送り続けなければならないのだ。

 そこから逃れる唯一の手段は。

「そんじゃあ。

 春日井さんが私の胸部分を人差し指で押す。

 その途端だ。

 再び腹の底から吐き気が起こる。

 止める間もなく口からそれはあふれ出てきた。

 先ほど出せるものはみんな吐き出したがそれとは別種の、私の口から出てきたのは黒い液体だった。

 ねっとりとしたまるでスライムのようなそれに向かって春日井さんは手を伸ばす。

 すると液体は彼女の手のひらで急激に形を変える。

 ウネウネと不可思議な動きを繰り返しながら液体が凝縮を始める。

 吐き気も忘れてその光景に見入ってしまう。

 見るのは2度目だ。

 ショッピングモールのトイレで見たときも目の前の光景が信じられず、しばらくの間は目に焼き付いて離れなかった。

 まごうことなく種も仕掛けもない奇跡の光景に目を奪われているうちに液体の動きが止まる。

 小さな饅頭ほどの球体が春日井さんの手にひらに収まっていた。

 光る泥団子のようなそれは不気味でありながら、どこか引き込まれるような引力を秘めた光沢を放っていた。

 その輝きに目を奪われていた矢先。

「あん」

 彼女は無造作にそれを口に放り込んだ。

 これも見るのは2度目だ。でも、何度見ても唖然とする光景だ。

「お味は?」

 新作のお菓子の感想を聞くような調子で香久山君が尋ねる。

「悪くないね、うん。なかなかのえぐみ」

 何度も何度も咀嚼し、絶対に共感は得られないであろう感想が返ってくる。

「あの……本当に、その、大丈夫、なんですか?」

「しつこいなぁ。大丈夫だって、最初のときも言ったでしょ?」

 どうしても心配になってしまう私に対し、春日井さんは面倒くさそうに答える。

「腹くだしたとかそういうこと一度もなかったんで多分、大丈夫だと思いますよ」

 香久山君もそう擁護してくるが、申し訳ないけどまったく安心できない。

 私の身体から吐き出された液体、ないし球体の正体は言うまでもない。

 先ほどまで見ていただ。

 体内に汚泥の如く沈殿したそれを彼女は抽出して取り除いたのだ。

 自分で言っていて意味が分からないが春日井さんと香久山君がそう説明しているのだからそう思うしかない。

「ごち。ケぷ」

 あっ、ゲップかわいい。

 非日常的な光景を連続で見させられた後に見る日常的な光景に思わず心が和む。

 汚いと言いながらも水を差し出す香久山君の姿でその感情もひとしおだ。

 自分よりも年下のまだ学生である男女。

 片や人に永遠に続く悪夢を見せて、片や人を眠りに誘いその夢を食する。

 出会うべくして出会ったような2人。

 胸の付近で祈るように両手を結ぶ。

 だからこそ信じてしまう。

 ブダジェル様だか、ブタだか分からないパチモンとは違う目にすることがない本物の超常的な存在は確かにいるのだと。

 この2人を見るとそう思わずにはいられなかった。

「香久山君、春日井さん」

 2人の視線が私に向けられる。

 居住いずまいを正し、丁寧に大事に頭を下げる。

「母の事を、よろしくお願いします」

 自分で言いながら思わず笑ってしまいそうになる。

 これじゃあ、まるであの女のお世話をお願いするような言葉だ。いや、間違ってはないのかもしれない。

 ある意味これは私からあいつに向けての手向けだ。

 その手伝いをしてくれる2人にお願いする言葉としてはさほどお門違いというわけでもないだろう。

「まあ、こちらこそ……」

「ん……」

 私の言葉にキョトンとしながらも香久山君どころか春日井さんもおずおずと会釈を返してくれた。

 そのおかしな様子にまた笑ってしまう。

 手で口元を隠しながら顔を上げる。

「それで、実行はいつごろになるでしょうか?」

 任せられるという安心は得た。

 肉親を地獄に落とす決心もつけた。

 後は実行するだけだ。

 最後まで見届ける決意を抱いて決行の日を2人に尋ねる。

「……え~と、まあ、それに関しては今すぐでもこちらとしてはかまわないんですが……」

 あれ。なんだろう?

 急に香久山君が途轍とてつもなく申し訳なさそう表情を浮かべる。

「……うん。水野さん。少しだけ、ほんの少しだけ待ってもらえますか?」

 そう言うと香久山君はポケットから財布を取り出し中から1万円札を抜き出す。

 それを何故か明後日の方向を眺めてこちらから目を逸らす春日井さんに押し付ける。

「近くに婦人服売ってるところあっただろ? ちょっと買ってきてよ」

「なんで私が? あんたのせいなんだからあんたが行きなよ?」

「下着とか買えるわけないだろ。行ってよ。お前、性別一応女なんだから」

 ヒソヒソ声で話してはいるがガッツリ聞こえている。

 しかし、何の話をしているのかピンとこない。

「おっ、しっかり写ってるじゃないの」

 素っ頓狂で場違いで不快な声が耳に届く。

 声の主である東が設置されたカメラを確認しながらイーヒヒヒと独特な笑い声をあげる。

 まだいたのか。さっさと消えてくれればよかったのに。

 非難の視線を意に介さず東はニヤニヤと気持ちの悪い笑みを浮かべながらスマホを操作する。

「美人さんのおねしょ、起きた後の嘔吐姿、大音量のヘイトスピーチ……。おうおう、その道のマニアに売り出したらいい値段で売れそうだ」

 何とはなしに呟かれた言葉だった。

 その言葉に金とお使いを押し付け合っていた2人の動きが止まる。

 香久山君は頭を抱え、春日井さんは私知らないという態度でそっぽを向く。

「おねしょ……」

 聞きたくなかったが聞き捨てならないワードを耳が拾ってしまう。

 自分の現状を改めて確認してみる。

 体勢はベッドに起き上がったまま動いてはいない。

 しかし、眠りに落ちる前にはかかっていなかったはずのシーツが下腹部にかけられていた。

 そして気づいてしまう。

 シーツの下、下半身がやけに湿っていることに。正確には股からお尻の部分にかけて万遍なく冷たい感覚がする。

 思い返す。

 あの壮絶な悪夢の光景の一端を。

 途中で何かなかったっけ。すごく恥ずかしい何か。

「あっ?」

 そして思い出した。思い出してしまう。

 顔全体に血液が集まりだす。

 ちょっと待て。待ってほしい。

 私、何した?

 眠ってる最中、恐怖のあまりやらかした?

 いやいやいやいや、待て待て。

 その他にも人前でゲロ吐いた? めっちゃくっちゃドン引きのヘイトを人前で喚き散らした?

 ちょっと待て、ちょっと待て。

 バッチリ撮れてるって、あの悪徳刑事言わなかった?

 もしかして、いや、もしかしなくても全部写ってる? 私の恥部。

「あのですね……水野さん?」

 呆然とする私に対し香久山君が非常に気まずそうに発言をする。

「あの、写っちゃったものに関しては責任を持って削除させてもらいます。絶対に世間には出しませんので、そこだけは、ホントに信じてください」

「なんでよ? モザイクかけて売ろうぜ? こういうの好きな変態何人か知ってるぞ」

「お前、ホント黙れ! マジで」

 悪徳刑事の発言がきっかけだったかは分からない。どこが引き金だったかは分からないが真っ白になって停止していた身体がおもむろに動き出した。

 色々な感情がごちゃまぜになって、ハチャメチャになった思考はぶつけどころを探す。

 身を乗り出して振りかぶった右手は最も近くにいた男の子に向かって振りぬかれた。

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