第6話 愚者の為の悪夢をあなたに

 白い空間だった。

 それしか表現のしようがなかった。

 霧やもやといったふわふわしたものではない。

 右を向いても左を向いても白一色。

 それどころか上にも下にも白が広がっていて境界線もはっきりとしていない。今立っている場所すら曖昧なものだった。

 どこなのだろう。

 視界を彷徨さまよわせても何もない。

 恐る恐る1歩前に足を出してみる。

 つま先から地面を踏みしめる慣れた感触が伝わってきた。

 1歩でも動いたらたちどころに下に真っ逆さま、なんて事態にはならなさそうでひとまず安心する。

 1歩、2歩。

 慎重に、臆病に、小さく進んでいく。

 及び腰でぶつからないように両手は突っ張り棒のように前に突き出した間抜けな状態になっている。

 さながら暗闇の中を歩いているようだ。

 いや、もはや暗闇そのものだろう。

 白い暗闇の中に私はいた。

 境界があいまいでここが狭いのか広いのかも分からない。

「すいませーーん」

 震える声は響かない。

「誰かーー」

 助けを求める声もどこかに消える。

 じんわりとつま先から上に、上に。

 アリの群れが群がってくるかのような気色の悪い感覚が湧き上がってくる。

 止まってはいけない。

 今ここで止まってしまえばもう動けなくなる。

 確信めいた予感がした。

 無様でも、滑稽こっけいでも、何も見えなくても進むしかなかった。

 1分、10分、いや、1時間か。

 時間の感覚すら曖昧あいまいになりながらそれでも進むしかなかった。

 どのくらい歩いているのかも皆目見当もつかない。

 そもそも前に進んでいるのか、どこに向かって歩いているのかもはっきりしていない。

 息が上がってきた。

 ヒッヒッヒ、と歪なリズムで呼吸が刻まれる。

 白い暗闇の中で孤独と焦りだけがつのっていく。

「誰かーーー」

 性懲しょうこりもなく声を張り上げる。

 それしかできることがないからだ。

 いつの間にか涙が流れていた。

「誰か……」

 叫び声はいつしか呟きに変わっていた。

 見知らぬ場所でただ1人きり。

 押しつぶされそうな心は【誰か】という存在をより具体的なものにする。

「おとう……さん」

 ここにいない、もうどこにもいない存在を頭からではなく心で求める。

 言葉にしてしまった瞬間、もう駄目だった。

 足が止まる。

 へっぴり腰の間抜けな姿勢を維持することもできずその場にうずくまる。

 その姿は正しく迷子の子供そのものだった。

 袖で目元を拭う。

「おとうさん、おとうさん、おとうさん……」

 何回も、何十回も、何百回も。

 か細い声で求めてやまない人の名前を呼ぶ。

 こうして呼び続ければいつか迎えに来てくれるのだと信じているかのように。

 何百回目かの名前を呼んだころだっただろうか。

 フワッと。

 頭上から温かみのある光が降り注いだ。

 同時にうずくまる私の前に誰かがいる気配がした。

「おとうさん!」

 根拠もなくそう確信して顔をあげる。

 ……父ではなかった。

「ふぁ?」

 本当に理解できないものが目の前にあるとき。

 頭が追いつかないものを見てしまったとき。

 叫ぶこともできず、こうも間抜けな声を出してしまうのか。

 現実逃避をした間抜けな思考は間抜けなことを分析する。

 恐らく身の丈は私の5倍はある。

 一言で現すのなら仏像のようなものだ。

 確か白毫びゃくごう、と言っただろうか。仏像でよく見る額にある黒子のようなできもの。

 本来の仏像であればあるはずのそれがその物体にはない。

 あるのは目だった。

 閉ざされた本来の両目と違って瞼もなく開かれっぱなしになっている目がドス黒い瞳で私を見下ろす。

 腰から先、下半身からスッと力が抜ける。

 地面に尻もちをついてしまったが感覚がまるでない。

 バサッという音が聞こえ、音の方向に視線を向ける。

 3つ目の仏像の背中からだった。

 その背から伸びているのは西洋絵画に出てくるような天使の羽だった。

 純白の巨大な翼はバサッと大袈裟に羽ばたいたかと思えば数枚の羽根を地面へとおとしていった。

 羽は音もなく地面に落ちると溶けるように白い暗闇の一部になって消えていった。

 続いてドンッと地響きがたつ。

 右手に持っている三又の槍の柄で地面を叩いて生まれた振動だった。

 有名どころの偶像の要素を適当に詰め込んだ、言うなれば仏像の出来損ない。

 見覚えがあった。

「……ブダジェル、様?」

 家の一室に飾られて、病院の枕元に置かれて。

 視界に入ることすら嫌悪した置物。

 ブダジェル様が今、巨大な実体となって私の目の前に降り立っていた。

 全身は金で覆われ、見た目だけは華々しいが荘厳そうごんさはまるで感じない。

 華美な装飾はむしろ内面の禍々まがまがしさを隠すためのコケ脅しのようにしか見えなかった。

 図体だけは大きいまがい物。

 されど生物としての格は圧倒的な存在が有する第3の目は私を見据え続けて離さない。

 蛇に睨まれた蛙。その言葉を初めて耳にしたときは固まってないでさっさと逃げればいいのにと子供ながらに危機感のなさを疑問に思ったものだが。

 これは……無理だ。

 今なら蛙の気持ちがよく分かる。

 逆立ちしても敵うことのない、覆しようのない格を見せつけてくる相手に向かい合ってしまったとき。

 ちっぽけな存在はどうすることもできないのだ。

 抗うことはもちろん逃げようという気すら起きない。

 ただ、終わった、と。

 虚無と諦めだけが去来してしまうのだ。

 純白の闇の中で燦燦さんさんと光る黄金をうつろに見上げ続けていくなかで動きを見せたのはブダジェル様だった。

 仰々しい儀式のごとくゆっくりとした動作で膝を折りかがみ込む。

 そして空いている左手を私に向かって差し出すように伸ばしてきた。

 大きな手だ。

 ひ弱な身体など掴んでやすやすと握りつぶせそうだ。

 差し出された左手は私の目の前で止まる。

「……はえ?」

 どういうことなのか? どうしろというのか?

 意図が分からずすがるようにブダジェル様を見上げる。

 それを合図にしてか、ブダジェル様の表情が変化する。

 閉じられた両目の瞼がスッと開き、中から金色の光を放つ瞳が現れる。

 真一文字に結ばれていた唇はほんの少しだけ口角をあげて微笑の形を作る。

 見守るような眼差し。

 温かいような気がする笑み。

 そして差し出される手。

 さながら迷子の子供を保護するかのように。

 ひねくれていなければ声を出して涙を流さんばかりの慈悲がそこにはあった。

 そして私はひねくれている。

「あなたは……お父さんじゃ、ないよ?」

 誰かに見つけてほしかったのは確かだ。

 でも、その誰かはこれじゃない。

 手を差し伸べられても、微笑まれても掴みたいのはこの手じゃない。

 入らなかった力がわずかながらに戻ってきた。

 手に力を籠めて身体を後ずらせ、左手から距離を取る。

「違う。お前じゃない」

 だから消えろ。

「あっち、いけ」

 向けられた明確な拒絶を前にしてもブダジェル様の表情は変わらなかった。

 だけど、差し出されたままの左手がほんのわずかに下方向に下がる。

 まるで好意をもって差し出した手を拒んだ小動物に対してがっかりしたように。

 些細な反応ではあったが確かに感じた。

 、と。

 それを感じ取った瞬間だった。

 強烈な圧迫感が身体を包んだ。

 

 呼吸すらままならなくなったところでようやく気づく。

 大昔の刑罰のごとく身体の自由は奪われ頭だけが辛うじて出た状態。

 私の身体を締め付けているのは案の定ブダジェル様の左手だった。

「ヒウ……ヒウ」

 痛い、いたい。イタイ。

 身体が大声で悲鳴を上げるが反比例して声が上手くでない。

 涙がにじむ目で左手の持ち主を見る。

 ブダジェル様の表情は微笑を浮かべたまま変わっていない。

 けれども、印象は先ほどとはまるで違った。

 強まったり、弱まったり、また強まったり。

 圧迫感は波のように変化する。

 あえて力の強弱を調整しているのだろう。

 浮かべられている笑みは無邪気な子供を想起させた。

 遊ばれている。

 そう。たまたま目に入った生き物を捕まえて苦しめてその反応を楽しむかのように。

 惨くて、残酷な遊びを。

 ビリビリッという音が聞こえた。

 音源は私の身体からだった。

 身にまとっていた布の感触がない。

 どうやってかは分からないが、ぎ取られたのだ。

 果物や野菜の皮をむしるかのように。

 ブダジェル様の手の感触が直に肌に伝わってくる。

 ヌメヌメとしたナメクジのような感触が全身に巡る。

 羞恥などよりもその不快感の方が遥かに強かった。

「や…、やあ」

 締め付けが強くなったときにはベッチャッと粘液を塗り付けれる感触が肌を走り、弱まったらネチャっと塗り付けられた粘液から無数の糸が延びる。

 やめて、やめて、やめて。

 全身を締め付けられる痛み、まさぐられる不快感に頬に涙が伝う。

 じっとりと、ねっとりと。

 遊ぶように、何かを下ごしらえするように。

 ブダジェル様は私を弄ぶ。

 生かさず殺さずでどのくらいの時が経っただろうか。

 急にブダジェル様の左手の動きが止まる。

 弱めの締め付け具合で何とか呼吸をする程度の余裕ができた。

「ヒウヒウヒウヒウヒウ……」

 荒い呼吸を繰り返し脳に酸素を送る。

 薄目でブダジェル様の表情を窺う。

 飽きたのか、それとも見逃してくれる?

 甘い妄想はすぐに打ち砕かれる。

 答えはすぐに出た。

 

 そう判断したのだ。

 ピシッ。

 何かがひび割れる音がする。

 額から目元に、目元から頬に、頬から顎先へと仏像の出来損ないの顔にいくつもの歪な線が走る。

 顔面全体に広がり続けるひび割れ。

 崩壊はすぐに訪れた。

 ボロボロと。

 

 まずは顎先から始まった。

 次に唇がめくれるように落ちる。

 鼻が丸ごと零れ落ちた。

 両耳がこそげ落ちる。

 金色の瞳を抱く両目が粉々に砕け散る。

 額に掲げた第3の目のみを残し少しづつ剝がされていった薄っぺらい化けの皮。纏っていた虚飾の下から現れたのは。

 カチ、カチ。

 口だった。

 それも顔面が存在した部分を覆うほどに巨大な。

 唇はない。

 歯茎が剥き出しとなり、上下に綺麗に生えそろった歯がやたらと目につく。

 カチ、カチ。

 口をパクつかせ、歯が気色悪く鳴り響く。

 口の奥は何も見えない暗闇が広がっていた。

 白一色に覆われた世界とは正反対の一切の光が届かない底知れない闇があった。

 下半身から湿り気を帯びた生暖かい感触が伝わった。

 それが何なのか確かめる気もおきない。

 カチ、カチ。

 化け物はしつこいほどに口をパクつかせる。

 その様はご馳走を待ちきれない子供を想起させる。

 左手が動き出す。

 もはや仏像ですらない化け物の口へと身体が吸い込まれていく。

 痛いのかなぁ、痛いんだろうなぁ。

 多分、味わうためにじっくりと咀嚼されるんだろうなあ。嚙み合わせがよさそうな歯並びだし。

 荒げた息は落ち着いていた。

 願うことは苦痛が続かないでほしい。それぐらいだった。

 その時を受け入れるために静かに目を閉じようとする、その時だった。

 口の手前でピタリと左手が止まる。

 同時に一心にのみを見つめ続けていた1つ目が初めてその視線を逸らす。

 真っ白になってしまった思考は特に意味を考えることなく捕食者と同じ方向に目線を向ける。

 それがいけなかった。

 その先にあったあまりにも場違いなものにぼやけた視界が鮮明になってしまったのだから。

 化け物の足元。

 こちらを見上げるような形で手を繋ぎながらそこにいたのはだった。

 父娘だと断言できた。

 だって見覚えがあるなんてものじゃないから。

 父親はくたびれた印象を抱かせる男だった。

 黄ばんだワイシャツに野暮ったい眼鏡、薄くなって大きく後退した額がそうさせているのだろう。

 ずっと苦労をかけさせてしまったのだ。

 身だしなみに気を遣う余裕なんてなかったことは今ならよくわかる。

 娘の方は5.6歳くらいだろうか。

 アニメキャラクターがプリントされたシャツを羽織り、フリフリのスカートを履いていた。

 お気に入りの組み合わせだった。

 退院できた日や外に出かけるときは決まって着ていた。

「おとうさん!」

 そんな力がどこにあったのか自分でも驚くほどの声で父を呼ぶ。

「私だよ! 美穂だよ! 気づいて! 助けて! 食べられちゃう! 死んじゃう! 助けて、たすけて! お願い! 死にたくない! 助けて!」

 お父さんだ。

 間違えるはずなんてない。

 くたびれて、冴えない人。いつも申し訳なさそうに少し悲しそうに私に笑いかけてくれた人。

 私が歩きやすいように背を丸めて手を繋いでくれたあの姿。

 忘れられるものか。

 身じろぎしてしまったからだろう、身体が再び握りしめられる。

 全身に痛みが走るが構うものか。

「気づいて! お願い気づいて! 私だよ! 美穂! みほだよ! わかるでしょ?」

 血を吐かんばかりに叫ぶ。

 届いてほしい。

 気づいてほしい。

 助けてほしい。

 それなのに。

「おとうさん?」

 父は私を見ていなかった。

 動物園で珍しいものを見るかのように指を差しながらもその視線は終始手を握っている娘に注がれている。

 こちらからは聞こえないが楽し気な会話をしているのか、お互いに笑みを浮かべている。

「……ちがうよ」

 違う、違う、ちがう、チガウ。

 何でそっちを見るの?

 美穂は私だよ? そいつじゃないよ?

 手を繋いでいるそいつは偽物だよ?

「違うよ! おとうさん、そいつは違う! 美穂はわたし! みほはこっちだよ! 気づいて、お願い気づいて! そいつじゃない!」

 こんなに叫んでいるのに。

 こんなに求めているのに。

 どうして気づいてくれない? なんで分かってくれない?

 娘の方が私に向かって指を差す。

 まるで滑稽な姿をあざ笑うかのように。

「……ふざけるな」

 沸々と怒りが湧く。

「ふざけるな!」

 口の中に鉄の味が広がる。

「ふざけるな! ふざけるな! ふざけんな! お前は私じゃない! 偽物! この偽物! 返せ! おとうさんを返せ! 馬鹿野郎、バカ野郎!」

 左手が動き出す。

 化け物の口が大きく釣りあがっていた。

 それだけで分かってしまう。

 最後のスパイスがこれなのだと。

「おとうさん!」

 嫌だ。

「おとうさん!」

 こんなの嫌だ。

「おとうさん!」

 死にたくない。

「おとうさん!」

 涙と涎、鼻水まで垂らして呼ぶが彼らはもう私を見もしていない。

 もう満足とばかりに、父娘仲睦まじく手を握ったまま背を向ける。

 それは、今度こそ。

 本当に、本当の。

 お終いだった。

 圧迫感が消える。

 身体が浮き上がる。

 そう。スナック感覚で放り投げられたのだ。

 残酷なまでにゆっくりと。

「あ、ああぁ」

 私の身体は化け物の口へと、光の届くことのない闇へと吸い込まれていく。

「ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ」


 命が終わるその瞬間まで走馬灯が浮かぶことはなかった。

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