第5話 悪夢の体験には決断を
白字に【整体】と銘打たれたガラス扉。
手作り風の立て看板、そこに何枚も貼られた手書きのチラシには治療のコースや値段、その様子を写した写真が載せられていた。
ある意味でこの地下通路にふさわしい寂れ具合の店だ。
いかに身体が疲弊しても1人で入ろうとは思えない。こういった店で必要な清潔感が致命的に欠けた佇まいだ。
「ここですか?」
「ヤクザ関係や違法風俗の匂いはプンプンするんだろうけど、ここも一応は、大丈夫だよ」
一応、という言葉が強調されていることにこちらを怖がらせる悪意が垣間見えてしまう。
素人をからかって何が楽しいのだろう。
第一、これからのことを考えると完全にシロと言い張ることも無理がある気がする。
「じゃあ、入ろうか」
行きつけの飲み屋に入るような感覚で扉を開いて東は店内に入っていく。
慌ててその後に続く。
中に入ると広がってきたのは、想像通りこじんまりとした店内だった。
見えるだけで治療用のベッドが2台。それを覆うシーツや毛布は古着屋から買い取って持ってきましたと言わんばかりのどぎつい色合いのもので客商売で出すにはお世辞にもふさわしいものではない。
所々がすすけたり、剥がれかけた壁には人体を巡る血管や足ツボの箇所が描かれた張り紙が何枚もこれ見よがしに貼りつけられている。
必要最低限の照明しか灯していないためか内部は若干薄暗い。
外装の安っぽさに負けず劣らず内部も安っぽい。
「相変わらずのカビくせえな」
「うるせえよ、ジジババにはそれなりに人気だ」
店内を
短髪の白髪に白髭、度の深そうな眼鏡をかけた男が回転いすに腰掛けていた。
年齢は……よく分からない。
50代と言われればそうかもと思えるし、70代と言われても納得できてしまうような
しゃがれ声で東に返答した男は何故かこちらには見向きもせず、週刊誌に目を通していた。
「ジジイやババアの身体触って何が楽しいのやら」
「人間歳とりゃ、どいつもこいつも身体にガタが来るもんなんだよ。少しでも長く使えるように誰かが整備してやらなきゃすぐにオシャカになっちまう。お前さんもあっという間だからな? 触らくてもあちこちガタガタなのは一目瞭然だぜ」
「俺は大丈夫だ。行きつけのタイ式マッサージ店がある」
「特別サービスつきの、だろ?」
「その通り」
「あそこだけはまだまだ現役ってことかい」
「ヌード写真一心に見てるやつが言うセリフじゃねえよ」
ここに若い女性がいるということを分かっているのだろうか?
自称フェミニストがこの場にいたら発狂して火炎放射器ばりにネットで焼き尽くされるだろう会話に目眩しそうになる。
それにしてもこの男、話しぶりからして店主か何かだろうか。
通常のマッサージ店で想像するような白地の作業着ではなく思いっきり私服なチェック柄のシャツに膝部分が破れたジーンズをまとっている。
ジーンズは多分、ダメージとかではなく自然に破れたものだろうな、あれは。
「で、そのお嬢さんかい? 依頼人は」
最低な雑談が一区切りしたタイミングで男の目が週刊誌から私に向けられた。
一瞬、ひるんでしまうが、おずおずと会釈をする。
「そうだ」
男の質問に東が端的に答える。
「いつも通りカーテンの奥を使ってくれ」
男の指さした方向を見る。
設置されたベッドの奥にはカーテンで閉ざされてこちらから見ることができないように区切られていた。見た感じ恐らくベッド1個分ほどの空間がある。
「仕事人はとっくに来てる」
そう言い残すと男は再び週刊誌に目を落とす。
後は勝手にしてくれと言わんばかりだ。
「仕事人?」
首を傾げる私に東が答える。
「今の子知らねえだろうなぁ。必殺仕事人、人気時代劇だったんだよ。リメイク版もあったんだぜ?」
何となくだがテレビの再放送か何かで見た気がする。
「あのおっさんがあいつらに勝手につけたあだ名だよ」
必殺仕事人……確か報酬をもらって悪人を闇に葬る話だったはずだ。
なるほどな、と思う。
やらんとしてることは闇稼業そのもの。共通点が色々とあるからこそのあだ名というわけか。
一人合点しているとカーテン奥から何やら物音がし始めた。
何事かと目をやるとスッと一部分だけカーテンが開かれた。
「あっ、やっぱり着いてたんだ」
ひょっこりとそこから現れたのは5日ぶりに見る顔だった。
「水野さん、お久しぶりです」
今年で20歳になったと言った大学生である彼。
しかし、あどけない顔立ちは制服を着たらまだまだ高校生、下手をしたら少し大人びただけの中学生でも通ってしまいそうな、少年と敬称したほうがよさそうな容姿だ。
私に向けられる人懐っこい笑顔もその印象に拍車をかけている。
東の仲介によって巡り合ったこの少年こそが店主が仕事人と称した闇の仕置き人である。
そして私にとってあの女の最期を華々しい地獄に導いてくれるかもしれない奇跡の使者でもある。
「こちらこそお久しぶりです」
「5日前はすいませんでした。あの、それで、その後はどうですか? 夜とか?」
カーテンから出てきた香久山君は私の様子を確認してくる。
質問の意図は容易に分かった。
「大丈夫です。あれから同じ夢はまったく見てません」
私の回答に香久山君は少しばつが悪そうに苦笑いをする。
「よかった~。しっかり取り除いてはいたと思ってたんですけど、何かあったらホントどうしようかと」
胸を撫でおろすその姿がかわいらしくて思わず笑ってしまう。
「どうもありがとう。でも、本当に大丈夫ですから」
「いえ、僕らも調子に乗っちゃったところもありましたから……」
「でも、おかげですんなりそちらを信用することができましたから」
「いえいえいえ、でも、すごく怖い思いをさせてしまって」
それは……さすがに擁護できそうもない。
さすがに何百メートルもある建物から落ちる夢は、ちょっと洒落にならない。
思い出すと今でも身震いする。
「水野さ~ん。そいつ、謝ってるフリして胸見てるよ~。わいせつで逮捕しようか~?」
唐突に割り込んできた東。
香久山君は今、初めて気が付きましたとばかりに顔をしかめる。
「……なんで、いるんですか?」
「いるに決まってるだろ? ここまで案内してきたんだから」
「いや、普段は待ち合わせ場所だけ指定して依頼人に勝手に行かせるか、場所まで案内したら後はご勝手にってパチンコとかに行っちゃうじゃないですか」
「そりゃあ、お前、水野さんみたいないたいけなお嬢さんに何かあったらことだろ? こんなところに1人にするわけにもいかないだろ?」
当然のように紳士ぶるが、ぶっちゃけいない方が断然安心だった。
むしろ場所だけ教えてもらったら後は姿を見せる必要性すら皆無だった。
仕事内容が内容なので仲介者が必要というのはよく分かるがこの悪徳刑事をイチイチ介さなくてはならないのは煩わしいことこの上ない。
本当に邪魔で鬱陶しかった。道中が苦痛でならなかった。できればこのままパチンコだろうがソープだろうがどこか知らない場所に行ってくれないものだろうか。
「ちょっと~、水野さ~ん。疑に目を向けてくれてるけど、俺は刑事。んで、こいつは裏稼業。どっちが信頼おけるか考えるまでもないでしょ~?」
「……職業差別はいけないと思いますよ」
私の返しに香久山君が噴き出す。
言ってることはまっとうに聞こえなくもないが、この男も所詮は同じ穴のなんちゃら。フードコートで香久山君たちもこの男にピンハネをされて良いようにコキ使われているとボヤいていた。
私が渡す報酬だって何パーセントが支払われるのやら。
ならば、胡散臭いおじさんよりもかわいらしい男の子の方に心の天秤が傾くのも仕方のないことである。
大体、職業がその人物を表す鏡であるとは限らない。
聖職者と呼ばれるものでも腹の中は裏稼業も真っ青なものが多いというのは創作でも現実でもお約束だ。
そう例えば人心を癒し導くはずの宗教家が、実は畜生であるように。
「ぶちこまれたいか、クソガキ」
「別に構いませんけど、その時には地獄には必ず道ずれにしますからね」
職権乱用な脅し文句をのらりくらりといった様子で香久山君がかわす。
「邪魔だけはしないでくださいよ。水野さん、何かしそうだったら僕らが全力で止めますんで安心してください。それじゃあ、こちらへどうぞ」
前半部分は東、後半は私に向けて言い放つと香久山君はカーテン奥へと再び姿を消す。
当然、その後に続く。
カーテンに手をかけソッと開く。
開いた先には予想通り1台のベッドが敷かれ、その左右を挟むように椅子と簡易的なテーブルが置かれている。
椅子とテーブルの1つにはすでに先客がいた。
「お~い、起きろ~」
簡素で小さめなテーブルにバランスよく突っ伏しながら寝息を立てていた人物の頭を香久山君が優しくたたく。
それに反応してのそりと面倒臭そうに彼女は起き上がった。
フードコートで出会ったときも思ったが、フワフワのセミロングに、猫を思わせるようなクリクリとした瞳が印象的な女の子だ。
彼女も会うのは5日ぶりだ。
寝ぼけ眼になっている彼女の目が私の姿をとらえる。
「……ども」
「春日井さんもお久しぶりです」
よかった、覚えてた。
誰? みたいな反応をされるかもしれないと身構えていたのでひとまず安堵する。
こちらの思い込みにすぎないのだが、彼女から放たれる気ままな猫を思わせる雰囲気に影響されてか、こちらのことを覚えているのかどうか勝手に不安になってしまったのだ。
彼女自身に一切の落ち度はない。
「お前も水野さんに何か言うことあるんじゃない?」
まだ眠いのか目を凝らす春日井さんに香久山君が非難するような目を向ける。
多分、フードコートでの件だろう。
「……特にない?」
春日井さんは、本当に心当たりがないと言いたげな表情で首を傾げる。
「あっ、大丈夫ですよ、大丈夫。本当に後遺症も何もないので、全然気にしなくてもいいです」
頭を抱える香久山君に慌ててフォローを入れる。
ここで変にもめられてもかなわない。
私の言葉、未だに何のことか分かっていない様子を交互に見ながら、やがて香久山君は諦めたようにうなだれた。
「……すいません」
「いえ、本当に気にしなくて大丈夫なんで」
何だろう、こっちは何も悪くないはずなのに何だか悪い事をしてしまっているような気持ちになってしまう。
「……何かやらかした?」
いぶかしむ目で春日井さんが香久山君を見やる。
「お客さんに失礼なことしちゃダメじゃん」
「失礼な事……確かにやったね。で・も・さ、半分はお前のせいだからね」
スナップを利かせたはたきが春日井さんの頭に炸裂された。
乾いた良い音が響く。
雉も鳴かずば、という言葉が頭に浮かぶ。
「なに、何?」
はたかれた箇所を押さえながら若干、涙目になる春日井さん。
「イチャつくのはホテルでやれや、お前ら」
カーテンの影から2人のやり取りを見ていた東が呆れたように割り込む。
「ここから300メートルほど行ったところにちょうどいい施設があるぞ? 一仕事終わったら行って来いよ」
なんでそんな場所知ってるんだろう。
「げっ?」
東がいたことに初めて気が付いたのか、春日井さんは香久山君とほぼ同じような反応をする。
「何でいるの?」
「お前の相棒に聞け」
同じ話をするつもりはないとばかりに吐き捨てる。
「あわよくばワンチャン狙ってる?」
東の言い分とは違うがこっちの方が正解な気がする。
東から気持ち距離を取る。
「おい、相棒のしつけはお前の仕事だろ? 顔合わせる度に口悪くなってるじゃねえか、こいつ」
「敬語使われるほど、ご自分が偉いとでも?」
春日井さんのあんまりな態度に不満を香久山君にぶつけるが彼の態度もけんもほろろだ。
「……手錠かけてやけてやろうか? 罪状は婦女暴行の現行犯ってことで。そんなんでも一応、性別女だしな」
この男、結婚してるのかなぁ。
指とか全然見てなかったからよく分からないが、できることなら独身でいてほしい。そうじゃなかったら奥さんになってる人が気の毒だ。
刑事と裏稼業の会話にどこか現実感のない感想を抱く。
「うっさいなぁ、ワッパかける前に眠らせっぞ?」
「じゃあ、僕もそうされる前に格別な夢を見せ続けてやることにしましょう」
「おし、お前ら。さっさと仕事に取り掛かれ」
ほんの少しだけ香久山君と春日井さんが圧をかけてそう言うと、手のひらがねじ切れんばかりに東は話を本題に移す。
脅し文句としては先ほどの悪徳刑事のものとは雲泥の差で何とも気の抜ける内容だが、その凶悪さを私は身をもって知っている。
その仲介をしている男がその恐ろしさを知らないはずもないので軽口とは言え敵意を回避するのも当然と言えば当然だろう。
「あの、そうですね、早速ですが、お願いしても」
何で私が仲裁するような発言をしているんだろう?
自分で自分の行動に訳が分からなくなる。
私の行動が功を奏したのか2人は同時に溜息を吐きながらも動き出す。
「やるか……」
「ん……」
「お客さんに気を遣わせてどうすんだ? これだから社会に出たこともないようなガキどもは」
社会の鼻つまみ者のような人間が何かをおほざきになっている。
頼むから黙っていてほしい。
チッと春日井さんは舌打ちをする。
「邪魔だけはしないでくださいね」
香久山君はさして刺さることもないだろう釘をさして作業に取り掛かる。
この2人の方がよっぽど大人のようだ。
春日井さんは目薬を、香久山君は三脚を立ててそこにスマホを設置する。
「スマホ? 撮影するんですか?」
「ええ、視聴してもらってる最中ってやっぱり無防備ですからね。変なことされないか心配される方もいらっしゃるんで」
何もしていないことを証明するためにも必要というわけか。
「ハメ撮りみてえだな」
雑音がうるさいなぁ。
「……あいつ、埋めない? みんなで口裏合わせればバレないよ」
香久山君にヒソヒソ声で話しかけているけども、丸聞こえだよ、春日井さん。
「やるなら1人でやりなよ。日本の警察は例外を除けば概ね優秀だ」
「その通りだ。下手な事考えんじゃねえぞ」
香久山君のそっけない返事に東が偉そうに頷く。
例外って多分あなたのことですよ?
「これでよし、と。お待たせしました水野さん」
邪魔物の茶々をあしらいつつ待つこと数分。
準備を終えたことが香久山君から告げられる。
促されるままに私はベッドに腰掛けた。
周辺には新しく備品が追加されていた。
底の深い洗面器に、水の入ったペットボトル、数枚のタオル。
物々しさすら感じるそれらが今から行われることを嫌が応でも意識させる。
「じゃあ、改めて説明させてもらいます」
ベッドに座る私の正面に香久山君が立つ。
「今から水野さんには試作した夢の主人公として体験していただきます。一度始まった夢は途中で覚めることはありません。目が覚めるまでは見続けていただくことになります。目覚めた後は気分が悪くなることが考えられますので洗面器とか遠慮なく使って下さい」
利用規約を説明するかのように淡々とした口調で香久山君は語る。
「そして気分が落ち着いたら感想をお聞きします。改善してほしい点やご要望があれば遠慮なくおっしゃってください。もし、何もないようであれば、それで完成となります。お母さまには水野さんが体験した内容をそのままお見せします」
ゴクッ。
鳴ったのは私の喉だった。
額や背中から気持ちの悪い汗が生まれる。
両手もいつの間にか固く握りしめてしまっていた。
ここに辿り着くまでは確かにあったはずの高揚感が嘘のようだ。
先ほどまでの気の抜けたやり取りが幻のようだ。
「あの……どうしても、それは見なければいけないもの、なんですか?」
その質問は正しく
この期に及んで身がすくんでいるのが分かる。
これから体験するのは悪夢だ。
あの女の命が尽きるその瞬間まで延々と見続けることとなる地獄への片道切符だ。
それを、私は、今から、見る。
「ダメです」
返ってきた答えは無情なものだった。
私の怖気などとっくに見透かしているであろう彼は、気遣うのではなく突き放すような目でこちらを見据える。
「どんな依頼人にも、特に復讐じみた依頼をされてくるような方には必ず体験していただきます。それが無理なようであれば依頼自体をなかったことにさせていただくことになります」
淡々と、されど冷酷に告げられるそれに額から汗が流れる。
彷徨う視線が見据えたのは何故か彼の服装だった。
黒のパーカーに、黒のジーンズ。
狙ってやっているのか、素なのかは分からないが黒で統一されたその恰好は、この場においてあどけない少年を異質に何かに変貌させる装飾のようだった。
悪魔。
安っぽい表現だが、その言葉がぴったりと当てはまるような佇まいだ。
「その……。何とか、なりませんか? やり方はそちらに、おまかせします。だから」
その場しのぎの言葉がボロボロとこぼれ出てくる。
でも、言葉を重ねる度に嫌な自分が顔を出してくるような気がした。
「フードコートで言ったこと、嘘だったの?」
横から投げかけられた言葉は春日井さんからだった。
いつの間にかパイプ椅子に正面から跨り、背もたれに身体を預けた姿勢を取っていた。
今更ながら気づいたが、彼女の恰好も黒いシャツに黒のパンツと黒一色だ。
あえて揃えてるのかな?
背もたれ越しからもたらされる視線から逃れるために思考が割とどうでもいいことを考える。
真っ直ぐ見つめられる猫のような視線。
暗闇になってもその瞳だけは
目の前に立つ香久山朝日が悪魔のようだとしたら、春日井旭の仕草、振舞いはまるで悪魔が
「嘘だったの?」
彼女は同じ質問を再び私に向ける。
「言ってたじゃん? 人生の最期を滅茶苦茶にしてやりたいって」
言った。
間違いなく言った。
嘘じゃあない。
まごうことなき本心で言った言葉だ。
「嘘じゃないなら、妥協したらダメじゃん?」
妥協という言葉がやたらと耳に響く。
妥協? 何に対して?
実の母親に対して復讐を決意した。
辛うじてある看病してもらった記憶に後ろ足で砂をかけてでも。
これ以上、何を妥協しているというのだろう。
「水野さん」
香久山君が私に問いかけてくる。
機械的なものではなく今度はさっきまでのように人懐っこい声色でだ。
「すいませんね」
困ったように笑う、という表現のお手本のような表情を香久山君は浮かべる。
「こういうのって本当はお金さえもらったら、依頼人には結果だけ伝えるのがあるべき形なんでしょうね。でも、僕らは散々、苦しんだ水野さんにさらに苦しい体験をしろって言ってる。ひどい話だと思ってます」
その通り。まったく優しくないよ。
甘えきった感情に泣きたくなってしまったが本心なので仕方ない。
香久山君が口元を引き締める。
「水野さん。僕は人に悪夢を見せることができますが、言ってしまえばそれしかできないんです。相手を直接死に追いやることもできなければ、目に見える外傷を与えられるわけでもない。悪夢を見せる。本当にただそれだけのしょぼいものだ。ひょっとしたら、相手にとって何のダメージにもならない可能性すらあるんです」
夢はあくまで夢にすぎない。その効果までは保証できない、と。
彼はそう言う。
ここまで来て、どうしてそんなひどいことを言ってくるのだろう。
「どうし……」
「僕ね、映画とかドラマとかの創作ものをよく見るんですよ」
こぼれ出そうになった泣き言は脈絡もなく放たれた一言に遮られる。
「へっ?」
「残念ながらツッコミどころの多い駄作も多いんですけど中には引き込まれて、思わず感情移入しちゃうようなものもあるんです。自分には何の関係もないようなフィクションの世界にですよ?」
何が言いたいのか分からない。ただ、これは遮ってはいけない言葉なことだけは理解できた。
「裏話や創作秘話とか確認してみるとなるほどなぁと思ったんですけど、そういう作品はすべからく本気で作ったものなんです。妥協なく、本気で言いたいこと、伝えたいことを詰め込んだ作品は縁もゆかりもなくても、バックボーンも何もかも違っていても、人の心を揺さぶるんだと。……水野さん」
香久山君と視線が合わさる。
「僕はあなたあなたがあなたのお母さんに味わってほしい苦痛をあますことなく伝えたい。そう思ってます」
指先が小刻みに揺れ、額から冷たい汗が垂れる。
「この5日間。妥協なく本気で創りましたが、まだ完成したとは言えません。これを完成させるのは水野さんの協力が必要なんです。僕が伝えようとする苦痛と水野さんが味わってほしいと思う苦痛が少しでも食い違っちゃったら、相手にその思いは決して届かない」
まるで何かのプレゼンを聞かされているような気分だ。
商品開発の品評と一緒。
ここに来るまでの道中で東がそんなことを言っていたことを思い出す。
あぁ、確かになぁ、とどこか他人事のような感覚で考える。
どんな製品でもそうだ。
それがお金を出す価値があるのかどうか、本当に望むものであるかどうか判断するのは創った側ではない。
欲した側だ。
「たかが夢だ。それでも、願った側と創った側、両方の本気をたった1人のためにぶち込んだものなら、心揺さぶらないなんてことは決してありえない」
水野さん、と彼は私の名前を呼ぶ。
「僕らは復讐の代行を
あぁ……なんて厳しい。
つまり、彼はこう言っているのだ。
甘えるな、と。
私の復讐に対して最後の最後まで私自身が責任を持ち続けろ、と。
「君……ひどいね。私、お金払ってるんだよ?」
「……すいませんね」
再び困ったような笑顔を浮かべる香久山君。
笑ってごまかすようなことではないのだけど、不思議と非難する気にはならない。
背中や額の不快感がいつの間にか消えていた。
「こいつ、今、キマッたって心の中で思ってるぞ、絶対」
横やりを入れてきたのは東だった。
いるよね、こういう大事な空気をぶち壊す人って。
「キモっ」
端的にそう言ったのは春日井さんだ。向けたのは香久山君に対してだ。
「あんたら、僕が傷つかない人間だとでも?」
「「人にトラウマ植え付ける人間がどの口で言ってんの(だ)」」
ほぼ同じタイミングで言い放たれたセリフ。
東はシンクロ、以心伝心と嬉しそうに。
春日井さんは心底嫌そうな顔をする。
気持ちはわかる。こんな鬱陶しいおじさんとシンクロって嫌だよね。
緊張とは程遠いやり取りを傍観していたら、さっきまでの崖の淵まで追い込まれたような切迫感が嘘のように緩んでしまった気さえする。
「で、どうすんの? 帰る?」
そう聞いてくるのは東だ。
「いいえ」
自分でもビックリするほどすんなりと言葉が出てきた。
「私の復讐ですから」
この返答に対して。
東はつまらなさそうに。
春日井さんはさしたる興味もなさそうに。
そして、香久山君は何故だかひどく複雑そうな表情を浮かべていた。
横になるように指示されたところでスマホのカメラ機能がスタートする。
いい洗剤を使っているのだろうか。
頭を預けた枕から仄かにいい香りがする。
古臭い整体院ではあるが、そこは客商売ということか、こういうところには気をつかっているらしい。
「それじゃあ、始めましょうか」
ここで、本当にいいんですか、なんて念を押してこないでくれることは正直ありがたい。
やると決まったなら四の五の言わせないという強引さがこの期に及んでも怖気づきそうな心に喝を与えてくれるような気がした。
「怖い?」
真上からのぞき込むようにそう語りかけてきたのは春日井さんだった。
「大丈夫」
嘘だ。ただの強がりである。
「今からもっと怖い思いするから」
そこは嘘でもいいから気休めくらい言ってほしかったなぁ……。
優しいのか優しくないのか、つかみどころのない子だ。
「あのね、春日井さん」
「何?」
とっくにバレてるかもしれないが首を傾げる春日井さんに私は精一杯の強がりを言ってみる。
「嘘じゃないから。フードコートで言ったこと」
「あっ、そ」
素っ気ない返事を最後に彼女は口を噤む。
クリクリした目がゆっくりと近づいてくる。
遮るものは何もなく、逸らすこともできない。
以前は気づかなかったが、改めて相対してみると綺麗な瞳だ。
基本色は日本人にありがちなブラウンではあるが彼女の場合は若干だが赤みがかかっている。
カラーコンタクトみたいな作り物めいた感じはしない。
間違いなく天然のものだろう。
置かれている状況を抜きにしても目が離せなくなるような不思議な魅力があった。
フウッ。
どんな感情からきたのか分からない息が漏れた瞬間だった。
ジワジワと。
瞳の赤みが増していったのだ。
瞳の外側からハンカチの染みのように広がっていき、瞬く間に瞳の色は赤一色へと変貌していく。
例えるなら極たまに空で見かけるような赤い月に近いだろうか。
赤銅色とも言うらしい不吉を予兆させるような色合いだ。
けれども。
この色は、私に恐怖を。
そして悲願でもある光景へと導いてくれる灯であるのだ。
グッと近づいてくる瞳。
私の視界がその色一色に染まった。
そう認識した瞬間。
意識が。
落ちた。
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