第4話 悪夢への案内は地下街から

 天井部に剥き出しで張り巡らされたパイプがやたらと印象的だった。

 水路かガスか何の用途で伸ばされているのか見当もつかないそれは蜘蛛の巣のように張り巡らされて、見れば見るほど深みにはまっていくような不気味な雰囲気を醸し出していた。

 切れかかっているのか、設置された蛍光灯は所々で点滅を繰り返し、地下街をほの暗く照らす。

 水漏れのせいで濡れた通路にその光が反射されているせいでおどろおどろしさも一入だった。

 来るようにと指定された駅。

 その地下に広がる光景はさながら荒廃した近未来の街並みを想起させた。

 シャッターも目立つが、居並ぶ店の種類のバリエーションは豊かだ。

 『やきとり』と銘打たれた赤提灯を掲げ、まだ昼の3時だというのにもう店を開いている飲み屋。

 よく言えばレトロ、悪く言えば一見さんお断りのような、限られた常連しか侵入を許さないような田舎特有のよそ者を拒む空気を醸し出している喫茶店。

 カット700円というリーズナブルな理髪店。

 中身が気になるような占いの館。

 どれも探そうと思えばどこにでもありそうな、ありふれた店ばかりだ。

 だけど、地下街というある種独特な世界に居を並べるそれらは、私、水野美穂というちっぽけな人間に異世界に来たかのような錯覚をもたらした。

「水野さんみたいな女の子は、こんな場所近づかないわな」

 駅で落ち合った男は呟くように言う。

 背丈は高い。180はある。

 年齢は詳しく聞いてないけど50代くらいか。

 白髪混じりの頭髪に無精ひげで誤解されやすそうだが顔立ちは意外に整っている。

 昭和の回顧番組に出てくるような俳優に近い渋みがある。

 何年も着古された様子が残るスーツに、色落ちした茶色のコートをまとう姿はドラマに出てくる刑事そのものだ。

「すみません……」

「しゃあない、しゃあない」

 東孝三郎あずまこうざぶろうと名乗った刑事は苦笑交じりにそう言う。

「パッと見は怪しい世界に見えちゃうけど、ここは少なくとも大丈夫だよ。クスリの匂いも反社の影もどこにもなし、綺麗なもんさ」

 のぞき込むようにこちらを見てニカッと笑うが、何度見ても胡散臭いし、気色悪い。

 肩書こそ刑事だが、先日紹介してもらったの方が信頼度でいえばはるかに高い。

 いや、そもそも、まともなわけがないか。

 こんな頭のおかしい話を持ち掛けてくる時点で。

「どうする? 今からでも帰る? キャンセル料として前金は返金されないことになるけど、それでいい?」

 小馬鹿にするような態度だ。

 雰囲気に飲まれて二の足を踏んでることに恐らく気づいている。

「大丈夫です。行きましょう」

 本当は怖い。

 それでも自分を奮い立たせる。

 小娘と侮られて、足元を見てくるような視線が気に食わなかった。

 土壇場で怖気づいて、復讐すら行う度胸のない人間だと値踏みされているかのようで我慢ならなかった。

「さいですか……。それじゃあ、こちらへどうぞ」

 私の返答につまらなそうな表情を浮かべると、東は先導して地下街の通路を歩き始める。

 慌てて私もそれについていく。

 コツコツ、と2人分の靴の足音が通路に響く。

 通路奥へと歩を進めるが明るさは変わらない。むしろ、さらに暗さが増しているような気さえする。

 闇、というのはやはり根源の恐怖なのだと嫌でも意識してしまう。

「いつもこんなことをするんですか?」

 不気味さに耐え切れず、平気そうに前を歩く案内人に問いかける。

「何が?」

「とぼけないでください」

 すっとぼけた刑事というのはドラマではよく見る設定だが実際に目の当たりにすると大分ウザい。

 架空の存在であり、大抵名探偵という役回りだから許される存在なのだとよく分かる。

を確認してほしいという件ですよ」

 私の言葉に、ああ、と東はわざとらしく呟く。

「そんなに特別なことってわけでもないでしょ、別に。一般的な会社の商品開発と一緒じゃない? 商品ができたらまずはクライアントにその出来映えを確認してもらうって」

 基本でしょ? と立ち止まり振り返った顔には先ほどとは一味違う、人を喰ったような笑みを浮かべられていた。

 見覚えのある笑みだった。

 話を持ち掛けてきた、あの時のものと同質の不快さを感じた。

               

 父が亡くなってから程なくして教団の犯罪が世間に露呈し、身を隠していた母が見つかった。

 病院に入院していると報せを受けた当初は会うことをためらった。

 家族を捨てた女だ。しかも、借金という置き土産を残している。

 父の死因も半分以上はあの女が原因のようなものだ。

 そのままくたばればいい。

 そう思っていた。

 しかし、顔を見ておきたいという思いも同時に芽生えた。

 母恋しさや肉親の情などではない。

 ただ気になったのだ。

 家族を捨ててまで心の拠り所としていた教団はなくなり、ただ死を待つだけの状態。

 どんな思いでいるのだろうか?

 悔しさか、情けなさか、怒りか。それとも恐怖か。

 あるいは全部か。

 いずれにせよ、やせ細った身体でベッドに横たわっているであろう、あの女が一体どんな顔をしているのか。何を考えているのか。

 確かめてみるのもいいかもしれない。

 そう思ったのだ。

 ……今、思い返すとひどく浅はかな考えだった。

 ひょっとしたら、もしかしたらと、何かを期待でもしていたのだろうか。

 安いホームドラマみたいに親子のわだかまりが溶けて、最期の最期で感動の和解に至る。こんなお花畑でも期待していたのだろうか。

 面会当日。

 案内された病室にあの女はいた。

 やせ細っていたのは想像通りだった。

 しかし、想像通りだったのはそこだけだった。

 様々な後悔にまみれた哀れな人間はそこにはいなかった。

 いたのはあらゆるものから解放されたように満ち足りた笑みを浮かべた、ペラペラの神様の下僕しもべだった。

 自分は幸せだった。

 自分は救われた。

 枕元に置かれた仏像の出来損ないに向かって一心に手を合わせながら、下僕しもべは私にそう告げた。

 それを耳にした瞬間。

 私の口から今までの人生で吐いたことのない罵詈雑言が次から次へととめどなく叫び出された。

 清廉潔白に生きてきたなんて言うつもりはないが、自分がこんな汚らしくドス黒い感情を秘めていたなんて知らなかった。

 人を貶める言葉をこんなに知っているなんて知りたくもかった。

 たまたま病室を通りがかった看護師が止めに入るまで、私の呪いの語彙ごいは尽きることはなかった。

 でも、敬虔けいけんなる神の下僕しもべには何も響いてなかった。

 クソッたれな神様の加護に守られた笑みは崩れることもなく穏やかなものだった。

 私ではない何かを見つめているその目を見て、ようやく察する。

 このはもうここではないどこかに行ってしまったのだと。

 それから週に1回ほど病室には通った。

 劇的な何かを期待していたわけではない。無駄だとも分かっていた。

 それでも何故か足を運んでしまうのだ。

 満ち足りた顔が崩れることは一度もなかった。

              

 東に出会ったのは何度目かの面会日のときだった。

 病室に入るとあの女は眠りについていた。

 静かな寝息を立てるその寝顔も憎たらしいほど安寧に満ちていた。

 枯れ木のように細い首にそっと両手をかける。

 触れてみて分かるその弱弱しさにビックリする。

 本物の腐り落ちた枯れ木のように生命力を感じられないそれは私程度の力でも容易にへし折れそうな気がした。

 このまま力を加えれば簡単に終わらせることができそうだ。

 誰もいない病室。

 能天気に寝入る女。

 行き場のないやるせなさ。

 魔が差すにはちょうどいい条件が出そろっていた。

『それじゃあ、ダメだ』

 制止とも嘲笑ちょうしょうとも取れる呼びかけが背中から掛けられた。

 独特すぎる笑い声がその後に続く。

 ゆっくりと振り返った先。

 病室のドアに背を預けて興味深そうにこちらを眺めていたのが東だった。

『首絞めたところで、その女の勝ち逃げだよ』

 そう指摘されたところで自分の手が間抜けにも枯れ木の首に手をかけたままだということに気づき、慌てて距離を取る。

 よほど滑稽に写ったのだろう。

 その様子をおかしそうに笑いながら東は再び口を開く。

『無敵の人間ってやつは何人も見てきた。ほとんどが自暴自棄が行き過ぎて投げやりになっちまったやつなんだが、あんたの母親みたいなタイプは珍しい』

 ある意味、羨ましい。

 警察手帳を見せながら東はそう呟いた。

 教団の事情聴取のために何度か病室を尋ねていたらしい。

 会話はまともに成立しなかったらしいが。

『この女見てると幸せになるのは案外簡単なんだなって思わせられるよ』

 こちらに近づきながらもその視線はある方向に向けられていた。

 枕元に置かれている仏像この女の宝物の出来損ないだ。

 東はフンッとそれを鼻で笑う。

『全部捨てちまえばいい』

 身体に芯から冷たい何かが広がった。

 血が凍るというのがどういうことなのか分かったような気がした。

『楽だよなぁ。過去も未来も捨てて、こんなパチモンを神様って崇められるその脳みそが羨ましいぜ。そのお導きに従って人間辞めて敬虔な信徒であれば、何にも考えなくてもいいんだぞ? 俗世の人間の言葉なんて可哀そうとしか見てないかもな』

 嘲笑あざわらうその言葉に罵詈雑言を浴びせていたときの女の顔を思い出してしまう。

 ほくそ笑む口元。

 何も写していない穏やかな眼差し。

 いや、本当に何も写していなかっただろうか?

 あの時、女はわずかながらでも私のことを見ていたのではないだろうか。

 怒りを露にする娘ではなく。

 意味もなく吠えたてる可哀そうな動物として。

『ヒッ』

 ゴキブリを見つけたしまったときのように反射的に身体を壁まで押しやった。

 寝息を立てる女、いや人間を辞めて別の生き物に変貌した生物から本能的に距離を取る。

 ウィーヒヒヒ。

 東は笑う。

 とても愉快なものを見るように。

『いいねぇ。それが人間に見えないのなら、ちゃんとした育ち方してる証拠だ』

 こんなものまで人間に見えたらお終いだろ? 

 そう言いたげに刑事は笑う。

 ひとしきり笑ったのち、東は試すような視線を私に向ける。

『で、どうよ?』

 質問の意味が分からず、首を傾げてしまう。

『勝ち逃げ、させちゃう?』

『勝ち逃げ……』

『今、死んだところでこの女は大好きな神様のもとに行っちまうだけ。あんたの心を掻きむしったまま、穏やかに、安らかにだ。悔しかないか?』

『何が……おっしゃりたいんですか?』

 まともな提案ではないことは自ずと理解できた。

 断って、さっさと帰ってもらうことがきっと正しい。

 でも、不愉快な語り口調を止めることはできなかった。

 これも本能で分かっていたのかもしれない。

 正しいこと=望んでいることとは限らないのだと。

『紹介したい連中がいる。あんたみたいな人間にうってつけの仕事をしてくれるはずだ。値段はちょい高めだけどな』

 間違いなく悪徳警官であろう男は分かりやすく右手で金のマークを作る。

 そしてにやけ面を浮かべながら私にこううそぶくのだ。

『どんな人間にでも悪夢を見せることができる力って信じる?』

 自分だけ神様に救われて、あとは死んでいくだけの女。

 そんな生き物に惨めに敗れ去るだけのはずだった状況。

 スッと心の隙間に、それこそつつかれるとわずらわしいことこの上ない重箱の隅が埋まるような提案がなされた瞬間だった。

 不覚にも、本当に心底癪ではあったが。

 ほんの少し。ほんの少しだけだがスヤスヤと赤ん坊のように眠るこの女の気持ちが理解できてしまったような気がした。

 それが無性に悔しくて、腹立たしかったのを今でもよく覚えている。

            

「普段だったら構想だ、何だで2週間くらいはかかるんだけどね。学業そっちのけで急ピッチで仕上げたらしい。美人は得だねえ」

 録音できなかったことが悔やまれるセクハラ発言に眉をひそめているのも気づかず東はせせら笑う。

 まあ、いい。

 今はそんなことはどうでもいい。

「……悪夢の出来……」

 悪徳刑事の言葉を口の中で呟く。

 流されるままに前金を払ってしまった当初は、自分の行動を心底後悔した。

 騙された、という思いももちろんある。

 でも、心を占めたのはそこじゃあない。

 壁にぶち当たった瞬間、実体のない、確証のないものにすがってしまった。

 片や似非神えせがみ、片や悪夢。

 その行動原理が。

 縋ったその先が。

 

 騙されたかもしれないという不安よりも、支払ってしまった前金の額よりも。

 その事実が心を掻きむしった。

 5日前、彼らに出会うまでは毎晩のように自宅のベッドで頭を抱え、時には奇声をあげてしまったものだ。

 そう彼らに出会うまでは。

 口元がにやける。

 とっさに片手でそれを覆う。

 前を歩く東に気づかれていないかどうかうかがう。

 うん、大丈夫。気づいていない。

 何でにやけたんだろ? 高揚してるんだろうか?

 胸に手をやる。

 異次元を歩いていたような不安めいた先ほどまでの鼓動とは違う、湧き上がってくるような、跳ねるような音を感じた。

 間違いなく高揚していた。

 原因には心当たりはある。

 どこにでもいるような学生風の男女だった。

 まだあどけなさが残っていて世間ずれしていない雰囲気は、社会の闇に知らぬ間に踏み入れてしまった哀れな生贄を思わせた。

 でも、実際は違った。

 闇の使者は彼らだった。

 なりゆきで見せてもらった力の一片。

 この身で直に体感したそれはまごうことなき本物だった。

 あるのだ。

 この世には。

 表に出てこないだけ、人に知られていないだけ、通常の人間が持ちえない人智の及ばない力というものが。

 高揚の正体はこれだ。

 焼き付いて離れない安らぎに満ちた顔を思い出す。

 あの女と私はやっぱり違った。

 偽りの安らぎしかもたらさない、奇跡の一つすら起こせないあの女の神とは違う。

 彼らが起こすのは本物の奇跡。

 まがい物とは違うそれがあの女に眠れぬ夜をもたらす。

 愉快だ。

 飛び跳ねたいほど愉快だった。

 これほど胸を躍らせることはない。病気に打ち勝ったと病院の先生から告げられたときもこれほどのワクワクは湧き上がらなかった。

 薄暗い地下の通路にふさわしい黒い高揚が私を包んでくれる。

 不気味さだけが際立っていたこの道も先ほどまでと見え方が変わってきたような気さえした。

「ご機嫌になってきたねえ」

 振り向きもせず東が口を開いた。

「足運びがやたらと軽やかだ。初めて大人の店に行く素人なみにな。平静を装っちゃあいるが逸る気持ちがまるで隠せちゃいない」

 ハッタリだ。

 そう思いたいところだったがそう言い切るにはあまりにもまとをつかれすぎていた。

「図星だろ?」

 人の痛いところをつきながらもこちらを振り返ることはなかった。

 そうしなかったのは正解だったなと内心で褒めてやる。

 また不快な面を向けていたなら平手の一つでもお見舞いするところだった。

 ……やだやだ。

 ここ最近はすっかり凶暴性が増してしまっている。

 もっと真面目で気弱な人間であったような気がするのだが。

「……分かってらっしゃるのなら、黙っていてもらえません?」

 最近芽生え始めた攻撃性の一片を言葉にして表してみるが、本日何度目かの鬱陶しい笑い声が返事代わりに返ってくるだけだった。

 悪徳とはいえ刑事だ。

 人間の生々しさなら嫌と言うほど体感するであろう職場の人間だ。

 生半可な棘など痛くも痒くもないのだろう。

 鼓動が控えめになってしまった。

 先ほどまでの高揚にすっかり水を刺されてしまった。

 もどかしい感情を払拭するためにもう一言ほど嫌味でも言ってやろう。

 そう思ったところで東の足が止まる。

「到着だ」

 そう告げられて視線は自然と寂れた背中の向こう側へと向けられた。

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