第9話 意外な決断

 魔王の執務室を後にした瞬間、私の頭の中は混沌としていた。経営企画室長。その二つ名が、まるで重い鎧のように肩にのしかかる。廊下の石畳を歩む足音が、異様に響く。


「晴太様、大丈夫ですか?」


 ナディアさんの声に我に返る。彼女の翡翠色の瞳には、心配の色が濃く滲んでいた。その瞳に映る自分の姿は、さぞや惨めに映っているだろう。


「ああ、大丈夫だ。ただ、少し頭がボーッとしてね」


 私は苦笑いを浮かべる。その表情が不自然なものに見えただろうことは、想像に難くない。


「それはそうですよ。まさか、バルグリム様があそこまで……」


 ナディアの言葉に、私も思わず頷いてしまう。確かに、予想外の展開だった。魔王の執務室での出来事が、まるで遠い夢のように感じられる。


「とにかく、今日はもう休みましょう。明日からの準備もありますし」


 ナディアさんの提案に従い、私たちは自宅へと向かった。廊下の灯りが、私たちの長い影を壁に映し出す。その影は、これからの重責を象徴しているかのようだった。


 翌朝。


 目覚めると同時に、昨日の出来事が鮮明によみがえってきた。経営企画室長。その言葉が、頭の中でこだまする。窓から差し込む朝日が、新たな日の始まりを告げている。


「よし、まずは情報収集だ」


 私は心を奮い立たせ、魔王城の中を歩き回ることにした。朝の空気は冷たく、肺いっぱいに吸い込むと、身が引き締まる思いがした。


 廊下を歩いていると、あちこちから魔物たちの会話が耳に入ってくる。その一つ一つが、私の耳に痛いほど鮮明に響く。


「聞いたか?あの人間の部長が、経営企画室長になったらしいぞ。人事部長と総務部長を兼任しているだけじゃ物足りないっていうのかよ」


「マジか?魔王様も大胆だな」


「でも、あいつならやってくれるかもしれないぜ?」


「何言ってんだ。人間風情に何ができるってんだ」


 様々な意見が飛び交っている。期待と不安、そして明らかな敵意。全てが入り混じった空気が、城内を覆っているようだった。その空気の重さが、私の肩にものしかかる。


 食堂に向かう途中、オーク族の中間管理職、グラルフとばったり出くわした。彼の巨大な体躯が、廊下の半分を占めている。


「おや、晴太殿か。噂は本当だったのだな」


 グラルフの声は、低く轟くような響きを持っていた。


「ああ、グラルフさん。まあ、なんというか……」


 言葉につまる私に、グラルフは大きな手を差し伸べた。


「心配するな。俺は支持するぞ。お前の改革案には期待している」


 その言葉に、少し胸が軽くなる。グラルフの目には、真摯な期待の色が浮かんでいた。


「ありがとう、グラルフさん。あなたのような理解者がいてくれて心強いよ」


「ただし」


 グラルフは真剣な顔つきになった。その表情の変化に、私は思わず身構えてしまう。


「古参の連中は簡単には動かんぞ。全軍一斉の改革は難しいかもしれん」


「できれば全軍一斉に改革をしたいんだけどね。今の状況では難しそうだな」


 私は思わず考え込んでしまった。グラルフの言葉は、現実の厳しさを突きつけるものだった。


 食堂では、さらに多くの視線を感じた。好奇の目、期待の目、そして明らかな敵意の目。全てが私に向けられている。その視線の重さに、背筋が凍る思いがした。


「晴太様、こちらです」


 ナディアさんの声が、その緊張を破った。彼女が手を振る先を見ると、そこには意外にもセリスさんが座っていた。彼女の赤い瞳が、不安げに揺れている。


「おはよう、ナディアさん。セリスさんも」


「や、やあ」


 セリスは少し照れくさそうに答えた。その仕草に、いつもの彼女らしさを感じる。


「昨日の話、聞いたわ。すごいじゃない」


「ありがとう。でも正直、不安でいっぱいなんだ」


 私は率直に告白した。その言葉に、セリスさんの表情が和らいだ。


「当たり前よね」


 セリスは大きく頷いた。


「でも、私は応援するわ。だって、このままじゃ魔王軍がおかしくなっちゃうもの」


「セリスさん……」


 その言葉に、胸が熱くなる。


「ただし」


 セリスさんの表情が真剣になる。その瞳に、決意の色が灯った。


「簡単にはいかないわよ。特に、バルザード将軍の説得は難しいわ」


 バルザード将軍。魔王軍きっての古参で、保守派の中心人物だ。その名前を聞いただけで、背筋に冷たいものが走る。


 私は深く考え込んだ。そして、ふと閃いた。


「……そうだ!」


「何か思いつかれたのですか、晴太様?」


 ナディアが不思議そうに尋ねた。


「小規模なテストケースだ」


 私は興奮気味に説明し始めた。


「グラルフさんにも言われたんだけど、全軍一斉の改革は難しい。人事部長や総務部長、経営企画室長なんて肩書きだけじゃ実績もない人間の言うことを聞いてくれる人なんてまずいないだろう。だから、まずは小規模な部隊で試してみるのはどうだろう?」


 セリスさんが目を輝かせた。


「良いアイデアかもしれないわね!」


「成功すれば、他の部隊への説得材料になるし、失敗しても被害を最小限に抑えられるということですね」


 ナディアさんも賛同の意を示した。


「でも、どの部隊で試すかが問題ね」


 セリスさんが指摘した。その言葉に、一瞬の沈黙が落ちた。


「そうだな……」


 私は考え込んだ。そして、ふと思いついた。


「セリスさん、君の部隊はどうだろう?」


「え?私の部隊で?」


 セリスさんは驚いた様子だった。そして、すぐに表情が曇った。


「でも……それは……」


「気になることや懸念点があれば、何なりと言ってほしい。どうかな、セリスさん?」


 セリスさんは深く息を吸い、ゆっくりと話し始めた。その表情には、明らかな躊躇いが見えた。


「私の部隊は……正直、問題だらけなの」


「問題?」


「そう」


 セリスさんは頷いた。


「まず、種族の多様性が高すぎて、コミュニケーションがうまくいっていないの。ゴブリン、オーク、リザードマン、他にもいろいろな種族がいてね……みんな文化も価値観も違うから」


「なるほど」


 私は真剣に聞き入った。セリスさんの言葉一つ一つが、重要な情報を含んでいる。


「それに」


 セリスさんは続けた。


「最近の戦績も芳しくないの。だから、みんな自信を失っているわ。新しいことを始める余裕なんて、誰にもないと思う」


「わかる」


 私は頷いた。


「でも、それこそが君の部隊が最適である理由だと思うんだ」


「え?」


 セリスさんは驚いた様子で私を見た。その瞳に、疑問と期待が交錯している。


「考えてみてほしい」


 私は熱心に話し始めた。


「多様性が高いからこそ、コミュニケーション改善の効果が明確に現れるはずだ。種族間の壁を取り払えば、それだけで大きな変化になる」


「確かに……」


 セリスさんは少し考え込んだ。


「そして、戦績が芳しくないからこそ、改革の効果が顕著に表れるんだ。今が底なら、上がる余地しかない」


「でも、みんな自信がないのよ」


 セリスさんは不安そうに言った。その言葉に、彼女自身の不安も滲んでいる。


「だからこそ、チャンスだと思う」


 私は力強く言った。


「新しい取り組みで、みんなに希望を与えられる。自信を取り戻すきっかけになるんだ」


 セリスさんはじっと私を見つめた。その目には、不安と期待が交錯していた。


「晴太様の言う通りかもしれません」


 ナディアさんが口を開いた。


「セリスさんの部隊だからこそ、改革の効果が最も明確に現れる可能性があります」


「そうね……」


 セリスはゆっくりと頷いた。その仕草に、決意が芽生えつつあるのが見て取れた。


「でも、具体的にどんなことをするの?」


「まず、コミュニケーション改善のためのワークショップを開催しよう」


 私は提案した。


「種族間の相互理解を深めるんだ」


「それから、各自の強みを活かせるような役割分担の見直しも必要ですね」


 ナディアさんが付け加えた。


「そして、小さな成功体験を積み重ねていく」


 私は続けた。


「簡単な任務から始めて、少しずつ自信をつけていくんだ」


 セリスさんは黙って聞いていた。その表情に、少しずつ希望の色が浮かんでくる。そして、ようやく口を開いた。


「わかったわ。やってみましょう」


「本当に?」


 私は驚きと喜びを隠せなかった。


「ええ」


 セリスは決意に満ちた表情で答えた。


「確かに不安はあるわ。でも、このままじゃダメだってことはわかってる。変わるチャンスをもらえるなら、挑戦してみる価値はあるわ」


「セリスさん……」私は感動で言葉を失った。


「ただし」


 セリスは真剣な表情で付け加えた。


「失敗したら、全ての責任は私が取るわ。それでもいい?」


「もちろんだ」


 私はしっかりと頷いた。


「でも、絶対に成功させるよ。君と一緒に」


「ありがとう、晴太さん」


 セリスは小さく微笑んだ。その笑顔に、希望の光を見た気がした。


 計画が固まったところで、私たちはバルグリムさんに報告に向かった。魔王の執務室に入ると、その威圧的な雰囲気に再び圧倒される。


「ほう、セリスの部隊で小規模なテストか。面白い発想だな」


 バルグリムさんは少し考え込んだ後、ゆっくりと頷いた。その表情には、興味と警戒が混在していた。


「よかろう。許可する」


 その言葉に、私たちは安堵の息をついた。しかし、バルグリムさんの次の言葉が、その安堵を打ち砕いた。


「だが、条件がある」


 バルグリムさんの目が鋭く光った。


「期間は3ヶ月とする。その間に明確な成果が出なければ、全てを元に戻す。そして、人事総務部長兼経営企画室長よ、お前には我が軍の伝統的な方法を学び、それを忠実に守ることを義務付ける。わかったな?」


 その言葉に、私は息を呑んだ。3ヶ月。その短い期間で成果を出さねばならない。そして失敗すれば、全てを諦め、古い体制に従わなければならない。


「はい、わかりました」


 私は強く答えた。その声に、自分でも驚くほどの決意が込められていた。


「よかろう。では、期待しているぞ」


 バルグリムさんの言葉と共に、私たちは執務室を後にした。


 廊下に出ると、セリスさんが小さくため息をついた。


「3ヶ月か……短いわね」


「ああ、でも、やるしかない」


 私の言葉に、セリスさんとナディアさんは無言で頷いた。三人の足音が石畳の廊下に響く。その音が、時間の刻みを刻むように感じられた。


「さて、どこから始めようか」


 私は二人に向かって言った。執務室を出てすぐ、近くの小会議室に入った我々は、早速作戦会議を始めることにした。窓から差し込む陽光が、テーブルの上に明るい四角形を作っている。


「まずは、セリスさんの部隊の現状を詳しく把握する必要があります」


 ナディアさんが真っ先に口を開いた。彼女の翠の瞳に、真剣な光が宿っている。


「そうね」


 セリスさんは頷きながら言った。


「私の部隊は、全部で50名よ。種族の内訳は、ゴブリンが20名、オークが15名、リザードマンが10名、そして残りの5名が混血や珍しい種族ね」


「なるほど」


 私は頷きながらメモを取る。


「かなり多様性が高いんだな。それぞれの種族の特性や、得意分野はどうだろう?」


 セリスさんは少し考え込んでから答え始めた。


「ゴブリンは機敏で、偵察や細かい作業が得意。オークは力が強くて、重装備での戦闘や重労働が得意よ。リザードマンは陸上だけでなく水中活動もできて、柔軟性も高いわ」


「種族が違うとそれだけで長所も異なる。作戦の中で、それぞれの長所を活かせていけるといいのかもしれない。とはいえ、どんな作戦を割り当てられるかわからない中で、長所だけ伸ばすっていうのは現実的じゃないね」


 私は思わず呟いた。セリスは少し寂しそうな表情を浮かべる。


「そうなの。今まではとにかく均一な訓練をしていて、個々の特性を活かせていなかったわ」


「では、まずはそこから変えていきましょう」


 ナディアさんが提案した。


「各種族の特性を活かした役割分担と、それに応じた訓練プログラムを作るんです」


「いいアイデアだ」


 私は賛同した。


「そうすれば、各自が自分の強みを感じられるはずだ。自信にもつながるだろう」


 セリスさんの顔が少し明るくなる。


「それなら、みんなも納得してくれるかもしれない」


「そうだな。では、具体的なスケジュールを立てよう」


 私はテーブルの上に大きな紙を広げ、タイムラインを描き始めた。


「最初の1週間は現状分析と個別面談。各隊員の強みと弱み、希望を聞き出す」


「私がそれを担当します」


 ナディアさんが即座に言った。


「面談のスキルには自信がありますから」


「お願いするよ」


 私は感謝の念を込めて頷いた。


「次の1週間で新しい役割分担と訓練プログラムを策定。そして、3週目から実際の訓練を開始」


 セリスさんが不安そうな表情を浮かべる。


「大丈夫かしら。みんな、急な変化に戸惑うかもしれないわ」


「それが狙いなんだ」


 私は頷いた。


「戸惑うからこそ、コミュニケーションが重要になる。毎日、短時間でもいいから全体ミーティングを行おう。進捗の共有と、不安や疑問の解消のためにね」


「それなら、私が担当するわ」


 セリスさんが声を上げた。その目に、決意の色が宿っている。


「ありがとう、セリスさん。君の存在が、この改革の要になるよ」


 私の言葉に、セリスさんは少し照れたような表情を見せた。


「1ヶ月後には、最初の成果が見えてくるはずだ。そこで軌道修正を行い、さらに2ヶ月で大きな成果を出す」


「3ヶ月……本当に短いわね」


 セリスさんが呟いた。


「ああ。だからこそ、全力で取り組もう」


 私の言葉に、二人は強く頷いた。


 その時、突然ドアがノックされた。


「失礼します」


 声と共にドアが開き、一人のゴブリンが顔を覗かせた。驚いたことに、彼は私を見るなり、深々と頭を下げたのだ。


「新室長殿。私はグリムトゥース。セリス隊長の部下です。噂を聞いて、すぐに駆けつけました」


「グリムトゥース?」


 セリスさんが驚いた声を上げる。


「どうしてここに?」


 グリムトゥースさんは真剣な表情で答えた。


「隊長、私たちの部隊をテストケースにするという話を耳にしました。それで……」


 彼は一瞬言葉を詰まらせたが、すぐに決意を固めたように続けた。


「私たちを変えてください。このままでは、魔王軍の未来はないと思うんです」


 その言葉に、部屋中が静まり返った。そして、私は心の中で小さくガッツポーズをした。


 これが、変革の始まりだ。たった一人かもしれない。でも、変わりたいと思う者がいる。それだけで、希望は生まれるのだ。


「ありがとう、グリムトゥースさん」


 私は彼に向かって微笑んだ。


「君の勇気が、きっと他の仲間たちの背中を押すはずだ。一緒に、新しい魔王軍を作ろう」


 グリムトゥースさんの目に、涙が光った。


 この瞬間、私は確信した。この改革は、必ず成功する。そして、魔王軍は変わるのだ。いや、変えてみせる。


 3ヶ月。その短い期間で、私たちは奇跡を起こすのだ。

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