第8話 魔王との激論

「バルグリム様、人事総務部長の阿井澤あいざわ 晴太せいたがまいりました」


 執務室の扉の向こうから、魔王であるバルグリムさんの秘書の声が響く。その声に、私の心臓が大きく跳ねた。


「待たせておけ」


 低く轟くような声が返ってきた。まるで地鳴りのようだ。


 10分、20分と時が過ぎる。ようやく「入れ」という声が聞こえ、私とナディアさんは緊張した面持ちで魔王の執務室に足を踏み入れた。


 巨大な机の向こうに座る魔王バルグリム・ドラゴネスの姿は、圧倒的な存在感を放っていた。赤い肌に生える黒い鱗、額から生える二本の角、そして背中には折りたたまれた翼。その姿は、まさに『魔王』そのものだった。


「で?何か用か?」


 バルグリムは顔を上げることもなく、書類に目を通しながら言った。その態度に、私は一瞬たじろぐ。しかし、ここで怯むわけにはいかない。深呼吸をし、準備してきた言葉を口にする。


「はい、バルグリムさん。魔王軍の現状について、緊急にご報告したいことがあります」


 バルグリムは顔を上げ、私をじっと見た。


「緊急で報告、だと?我は貴様に、規律ある魔王軍の伝統を守れと言ったはずだが、もう忘れたか!」


 私は深呼吸をし、準備してきた言葉を口にする。


「このままでは、魔王軍は崩壊します」


「……何?」


 バルグリムの声が低く唸るように響いた。


「証拠があります」


 私はナディアさんにお願いをすると、ナディアさんが魔力で資料を投影する。


「こちらをご覧ください」


 グラフと数字が空中に浮かび上がる。


「現在の魔王軍の年間離職率は75%。つまり、4人に3人が1年以内に辞めていっている状況です。この数字は、どう考えても健全とは言えません」


「兵士の入れ替わりが激しいのは当然だろう。弱い者は去り、強い者が残る。それが自然の摂理だ」


 バルグリムは冷淡に言い放つ。


「しかし、バルグリムさん。この状況では戦力の維持すら難しくなります」


 私は一歩も引かず、まっすぐバルグリムの目を見つめた。


「このままでは、人間界どころか、魔界の支配すら危うくなります」


「何だと?」


「現状を分析した結果、魔王軍の問題点が明らかになりました。過酷な労働環境、低賃金、キャリアパスの欠如、そして種族間差別。これらが原因で、優秀な人材が次々と流出しているのです」


 バルグリムは黙って私を見つめている。その目には怒りと共に、わずかながら興味の色が浮かんでいた。


「そんな状況を改善するために、具体的な改革案を5つ用意しました」


「ほう。では聞こうではないか、貴様の案を」


 バルグリムは腕を組んだ。その態度には皮肉な色が見えたが、少なくとも話を聞く姿勢は示してくれた。


 私は一つ一つの案を丁寧に説明していく。


「まず、労働時間の管理と残業規制です。これにより疲労による戦力低下を防ぎ、長期的な戦力維持が可能になります。具体的には、現状比で20%の戦力向上が見込めます」


 バルグリムの目が少し動いた。


「次に、成果主義型の報酬制度の導入です。これにより、優秀な人材の確保と、全体的なモチベーション向上が期待できます。導入後1年で、生産性が30%向上すると試算しています」


「ふむ」


 バルグリムが顎をさすった。


「3つ目は、キャリアアップのための教育プログラムです。これにより、個々の能力向上と、組織全体のスキルアップが図れます。5年後には、現在の上級幹部クラスの能力を持つ中間管理職が3倍に増えると予想されます」


 バルグリムの表情が少し和らいだ。


「4つ目は、多様性を尊重する職場環境の整備です。種族間の協力を促進し、それぞれの特性を活かした戦略立案が可能になります。これにより、作戦の成功率を現状の1.5倍に引き上げることができるでしょう」


 バルグリムは黙って聞いている。


「最後に、魔王軍の理念と価値観の再定義です。明確な目標を示すことで、全軍の団結力が高まります。これにより、離職率を現在の4分の1まで低下させることができると考えています」


 説明が終わると、部屋に沈黙が落ちた。バルグリムは目を閉じ、深く考え込んでいるようだ。


「面白い案だ」


 突然、バルグリムが目を開いた。その目には、これまで見たことのない輝きがあった。


「だが、疑問が残る。我々は魔王軍だぞ?なぜここまで手厚く部下の面倒を見る必要がある?恐怖と強制で従わせれば良いのではないか?」


 予想通りの質問だった。しかし、この質問にこそ、私の真価が問われる。


「バルグリムさん。確かに短期的には恐怖と強制で従わせることはできるでしょう。しかし、それでは真の力は引き出せません」


 私は真剣な眼差しでバルグリムを見つめる。


「魔王軍の兵士たちが、自らの意志で全力を尽くす。そのためには、彼らが魔王軍で働くことに誇りを持ち、自己実現の場として認識する必要があります。そうすれば、彼らは自ら考え、自ら行動し、魔王軍のために全力を尽くすようになるのです」


 バルグリムはじっと私を見つめている。


「さらに言えば、現在の人間界は、かつてないほどストレスフルな社会になっています。そこに『魔王軍なら働きやすい』というイメージが広まれば、優秀な人材が向こうからやってくるようになるでしょう。それこそが、真の意味での世界征服ではないでしょうか」


 バルグリムは目を細めた。


「なるほど。だが、これほど大規模な改革を行えば、必ず抵抗勢力が出るだろう。それをどう抑えるつもりだ?」


「はい、その点についても考えています」


 私は次の資料を表示させる。


「まず、改革の必要性を全軍に浸透させるための広報活動を行います。次に、各部署のキーパーソンを味方につけ、彼らを通じて改革を推進します。そして、短期的な成果を可視化し、改革の効果を実感させることで、抵抗勢力を減らしていきます」


 バルグリムはゆっくりと頷いた。


「最後に一つ聞きたい。貴様はなぜ、ここまで我が軍のために尽くそうとする?貴様は元々、人間だったはずだ」


 この質問には、正直戸惑った。しかし、心の奥底から湧き上がる言葉があった。


「それは……誰もが、働きがいを感じられる職場で働く権利がある。それは人間でも魔物でも同じはずです。私は……私は、そんな当たり前のことが当たり前になる世界を作りたいんです」


 言葉が思わず溢れ出た。バルグリムは黙って私を見つめている。


「そうか」


 バルグリムはゆっくりと立ち上がった。その巨体が、私たちの前に迫る。


「面白い提案だった人事総務部長。いや、晴太よ。貴様の熱意は十分に伝わった」


 バルグリムは大きく息を吐いた。その吐息は、まるで風のようだった。


「改革案を承認する。だが、条件がある」


 私は思わず背筋を伸ばした。


「この改革の責任者として、貴様を昇進させる。役職は……そうだな、『経営企画室長』としよう。人事と総務に加え、我が軍の経営戦略全般を任せる。これでよいか?」


 私は言葉を失った。予想をはるかに超える展開に、頭が真っ白になる。


「はい、バルグリムさん!ありがとうございます!」


 思わず大きな声で返事をしてしまった。バルグリムは満足そうに頷いた。


「よかろう。では、明日から早速取り掛かれ。期待しているぞ、我が右腕よ」


 そう言って、バルグリムは私たちに背を向けた。それが退出の合図だと理解し、私とナディアさんは深々と頭を下げて部屋を出た。


 扉が閉まった瞬間、緊張の糸が切れたように、私の体から力が抜けた。


「やりました、部長!いえ、室長!」


 ナディアさんが小さな声で喜びを爆発させる。その瞳には、興奮と期待の色が満ちていた。


「ああ……なんとかなったな」


 私は安堵の息を吐き出す。しかし同時に、これからの重責を思うと身が引き締まる思いだった。


「よし、明日からが本番だ。魔王軍を、いや、この世界を変えていくんだ」


 私の決意の言葉に、ナディアさんは力強く頷いた。私たちの前には、長く険しい道のりが待っているだろう。しかし、その先にある理想の未来を思えば、恐れるものは何もない。


 こうして、魔王軍改革の第一歩が、今まさに踏み出されたのだった。

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