第6話 驚愕の離職率

「これは……」


 机の上に広げられた一枚の報告書を見つめ、私は言葉を失った。そこには魔王軍の離職率に関する調査結果が記されていたのだが、その数字は想像を遥かに超えるものだった。


「年間離職率が75%って、計算間違いじゃないのか?」


 思わず声に出してしまう。この数字が意味するのは、魔王軍に入隊した魔物たちの4分の3が、1年以内に辞めてしまうということだ。これは尋常ではない。前世の一般企業でこんな数字が出れば、即座に経営危機と判断されるレベルだ。


阿井澤あいざわ様、これが最新の離職率レポートでございます」


 声をかけてきたのは、秘書のナディア・エンバーだ。彼女の翡翠色の瞳には心配の色が浮かんでいる。


「ありがとうございます、ナディアさん。この数字...本当なのでしょうか?」


「はい、魔王軍の全部門から集めたデータを基に算出しております。誤りはないはずです」


 ナディアさんの言葉に頷きながら、私は報告書の詳細を確認していく。部門別、職種別、さらには種族別の離職率まで細かく記載されている。どの項目を見ても、数字は軒並み高い。


「ゴブリン部隊の離職率が特に高いんですね……90%を超えています」


「はい、ゴブリンたちは体格的に不利なこともあり、戦闘での負担が大きいようです。それに加えて、他の種族からの差別的な扱いも要因のようです」


 ナディアの説明を聞きながら、私は眉をひそめる。種族間の差別か。これは思った以上に根深い問題かもしれない。


「なるほど。ではゴブリン部隊を含め、具体的な離職理由はどのようなものなのですか?」


 ナディアは手元の資料を確認しながら説明を始めた。


「はい、主な理由は以下の通りです。まず、最も多いのが労働環境に関する不満です。魔物たちは『無限の残業や休日出勤が当たり前になっている』と訴えています。次に多いのが給与への不満です。『危険な仕事の割に、給与が低い』という声が多く聞かれます」


 ナディアは一旦息を整えてから続けた。


「また、キャリアの展望がないことも大きな問題です。『昇進・昇格の基準が不明確で、将来が見えない』という声が上がっています。それから、上司との関係も離職の原因となっているようです。特に中間管理職の教育不足が指摘されています」


「なるほど……」


 私は頭の中で、ナディアさんの説明を整理した。過酷な労働環境、低賃金、キャリアの展望の欠如、上司との関係性の問題。そして、その他にも福利厚生の不足や職場環境の劣悪さなどが挙げられているようだ。これらの問題は、人間界の企業でもよく聞く話だ。まさか魔王軍でも同じような問題が起きているとは。


「ナディアさん、前任の人事部長さんはこれらの問題に対して何か対策を講じなかったのですか?」


 ナディアさんは少し躊躇してから答えた。「実は...前任者は、これらの問題を"魔王軍の伝統"だと捉えていたのです。"甘やかせば軍が弱くなる"と」


 その言葉を聞いて、私は思わず眉をひそめた。


「それは前任の人事部長個人の考えだったのですか?それとも、魔王軍全体の共通認識なのですか?」


 ナディアは慎重に言葉を選びながら説明を始めた。


「実際のところ、魔王軍全体の共通認識というわけではありません。しかし、一部の上級幹部や古参の魔物たちの間では、そういった考えが根強く残っているのです」


「具体的にはどういった層の魔物たちでしょうか?」


「主に三つのグループです」


 ナディアは指を折りながら説明した。


「まず、高位の幹部たち。彼らは長年の経験から、厳しい環境こそが強い軍隊を作ると信じています。次に、生き残った古参の兵士たち。彼らは自分たちが耐えてきた苦労を誇りに思い、新しい世代も同じ経験をすべきだと考えています。最後に、一部の若手エリートたち。彼らは厳しい環境を乗り越えてきたことで自尊心が高く、システムを変えることに抵抗があるのです」


 私は深く考え込んだ。組織の中でも、立場や経験によって意見が分かれているということか。これは人間界の組織でもよくある構図だ。


「では、一般の魔物たちはどう考えているのでしょうか?」


 ナディアは少し表情を和らげて答えた。


「多くの一般兵士や下級幹部は、現状に不満を抱いています。彼らは改革を望んでいますが、上からの圧力や伝統的な価値観に押し切られてしまっているのが現状です」


「なるほど……」


 私は頷きながら、状況を整理した。


「ということは、組織の上層部と一部のエリート層が旧来の価値観を守ろうとしているが、大多数の魔物たちは変化を求めているということですね」


「はい、そのとおりです」


 ナディアは力強く頷いた。


「しかし、これまで誰もその声を代弁する立場にありませんでした」


 その言葉を聞いて、私は決意を新たにした。この状況を変えるためには、単に制度を変えるだけでなく、組織の文化そのものを変革する必要がある。それは容易なことではないが、避けては通れない道だ。


「わかりました。ナディアさん、私たちには大きな課題がありますね。単なる制度改革だけでなく、魔王軍の文化そのものを変えていく必要があります」


 ナディアの目が輝いた。


「阿井澤様、その言葉を聞けて本当に嬉しいです。私たちにできることがあれば、何でもサポートさせていただきます」


 私は微笑んで頷いた。


「ありがとうございます。まずは魔王のバルグリムさんとの面談ですが、その前に現場の声をもっと集める必要がありそうです。様々な立場の魔物たちの意見を聞いて、より具体的な改革案を練り上げましょう。このままでは、魔王軍の存続自体が危うくなります」


 私の言葉に、ナディアさんは無言で頷く。これだけ人材が流出していては、いくら新しい人員を補充しても追いつかない。そもそも、魔王軍の評判が落ちれば、新規の入隊希望者も減っていくだろう。


「まずは対策を考えよう」


 私は決意を込めて言った。この状況を放置するわけにはいかない。魔王軍を立て直すためには、まず人材の流出を止めなければならない。


「具体的に、どのような対策をお考えですか?」


 ナディアが興味深そうに尋ねてくる。


「まずは、労働環境の改善です。残業を減らし、休暇を取りやすくする。それから、給与体系の見直しも必要でしょう。キャリアパスの整備も重要です。魔物たちに将来の展望を持ってもらわないといけません」


 次々とアイデアが浮かんでくる。前職で学んだ人事施策を、この魔王軍でも活用できるはずだ。


「それと、種族間の差別をなくすための教育プログラムも必要かもしれません。多様性を尊重する文化を作らないと」


「素晴らしいアイデアです、阿井澤様!」


 ナディアの目が輝いている。反応を見る限り、彼女自身もダークエルフとして、何らかの差別を経験してきたのかもしれない。


「ですが、それらの施策を実行するには、魔王様の承認が必要になります」


 ナディアさんの言葉に、私は一瞬たじろぐ。そうだ、魔王軍の総帥は魔王であるバルグリムさんだ。全ての決定権を持つ彼が改革に頷いてくれなければ、魔王軍の再建は一歩も前に進めない。


「……そうですね。魔王であり魔王軍総帥のバルブリムさんに直接掛け合うのは必須です」


 その言葉を口にした瞬間、背筋に冷たいものが走る。さん付けで読んではいるが、旧知の間柄でも、仲の良い友達でもない。権力者である魔王バルグリムさんとの直接対決。想像しただけで足がすくむ。しかし、このままでは魔王軍は崩壊してしまう。覚悟を決めて、私は再び窓の外を見た。


 中庭では、訓練中の人員が上官に怒鳴られていた。その人員の目には、諦めと失望の色が浮かんでいるようだ。


 このままじゃいけない。変えなきゃ。私は拳を握りしめた。魔王バルグリムさんとの交渉は困難を極めるだろう。しかし、魔王軍を、いや、この異世界の労働環境を変えるためなら、何としても説得してみせる。


「ナディアさん、魔王との面会の約束を取っていただけますか?できるだけ早急にお願いします」


「はい、かしこまりました!」


 ナディアさんは敬礼すると、さっそく行動に移った。彼女の背中を見送りながら、私は深呼吸をする。


 さあ、人事総務部長としての真価が問われる時が来たようだ。


 窓の外では、夕暮れの空が赤く染まっていた。まるで、これから始まる激動の日々を予感させるかのように。

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