第3話 異世界オフィスの驚き

 目覚めると、そこは見覚えのない小さな部屋だった。狭い空間に、簡素なベッドとハンガーラック、簡素な洗面台があるだけ。どうやら仮眠室らしい。


「そうか……」


 昨日の記憶が徐々によみがえってくる。過労死して気づいたら異世界。そして、魔王軍の人事総務部長に任命された。そして、自分の生活する部屋の場所がわからず、結局この仮眠室で寝ることになったのだ。


「まさか夢じゃないよな……」


 自分の腕をつねってみる。痛い。やはり現実らしい。


 窓から差し込む紫がかった光に違和感を覚えながら、ゆっくりと体を起こす。そのとき、ノックの音がしてドアが開いた。


「失礼します。新しい部長様でいらっしゃいますね。お迎えに参りました」


 声の主が姿を現し、私は息を呑んだ。


 そこに立っていたのは、この世のものとは思えないほど美しい女性だった。褐色の肌に漆黒の髪、そして翡翠色の瞳。前世では創作やコスプレでしか見なかった尖った耳が、あの有名なエルフの血を感じさせる。凛とした佇まいは、まるで異世界の女神のようだ。


「あ、あの……」


 言葉が出ない。頭の中が真っ白になる。


 彼女は少し首を傾げ、不思議そうな表情を浮かべた。


「大丈夫でしょうか?私はナディア・エンバーと申します。人事部長付きの秘書です。ナディアとお呼びください」


「あ、はい!」


慌てて立ち上がろうとして、足がもつれる。


「す、すみません。阿井澤あいざわ 晴太せいたです。えっと、阿井澤が苗字で、晴太が名前です」


 ナディアさんは微笑んだ。その笑顔があまりにも眩しく、私は再び言葉を失いそうになる。


「阿井澤様、本日はバルグリム様による就任式がございます。お召し物はこちらをどうぞ。式典用の正装です。準備ができましたら、ご案内いたします」


ナディアさんの指示に従って、用意された服に着替える。鏡を見ると、そこには見慣れた35歳の自分の顔があった。しかし、目の奥に燃える何かが、以前とは違う気がする。


 深呼吸をして心を落ち着かせる。そうだ、ここで動揺している場合じゃない。せっかく第二の人生、いや、異世界生を与えられたんだ。やるしかない!


「準備できました」


私は緊張を押し殺すように声を張り上げた。


「案内をお願いします、ナディアさん」


 ドアを開けると、廊下には人間とは明らかに違う特徴を持つ存在たちが行き交っている。角の生えた鬼のような男性、翼の生えたハーピーのような女性。他にもさまざまな見た目をした人たちを見て、思わず目を見開いてしまう。


「あの、ナディアさん」


私は小声で尋ねた。


「念のための確認なのですが、魔王軍には、人間はいないんですか?」


 ナディアさんは少し驚いた表情を浮かべた。


「ええ、基本的にはいません。人間は……敵対している種族ですから」


 その言葉に、私は自分の立場を改めて実感した。ここでは、私が異質な存在なのだ。


 広間に到着すると、そこには巨漢の魔王であるバルグリムさんが待っていた。赤い肌に双角、そして背中には大きな翼。まさに魔王という風貌だ。


「来たか、阿井澤」


バルグリムさんの声が響く。


「さあ、お前を皆に紹介する時間だ」


 大きな扉が開き、中をそっとのぞき込む。


「うわっ!」


思わず声が漏れる。そこには、想像を絶する多様な種族が集まっていた。小さいゴブリン、巨大なオーク、優雅なエルフ、がっしりとしたドワーフ、そして空中を飛ぶ妖精たち。天井まで届きそうな巨人族もいれば、床を這うように移動するスライムのような存在まで。まるでファンタジー映画の撮影現場のようだ。


そして、その中に人間の姿が一つもないことに、私は強烈な違和感を覚えた。ここでは、自分だけが異質な存在なのだと、あらためて実感する。


バルグリムさんが高らかに宣言する。


「諸君、新しい幹部を紹介する。異世界の人間界から来た阿井澤晴太だ」


一同から歓迎の拍手が沸き起こる。その中には、好奇の目や警戒の視線も混ざっているのが分かる。


「一昨日、突然のことだが、人事部長が故郷に帰ってしまった」


バルグリムさんは続ける。


「そして昨日、総務部長も故郷に帰るとの報告があった」


会場がざわめく。様々な種族が不安そうに顔を見合わせている。


「だが心配するな!」


バルグリムさんの声が響く。


「この阿井澤晴太が、人事部長と総務部長を兼任する!彼の経験と知識を活かし、我が魔王軍をさらなる高みへと導いてもらう」


「えっ!?」


思わず声が出る。人事総務部の部長じゃなくて兼任?人事部と総務部があるの?いや、昨日は人事総務部って言ってたけど。


会場は驚きの声で溢れかえった。歓迎の拍手の中に、不安げな表情を浮かべる者もいる。オークの一団は困惑した様子で首をかしげ、エルフたちは小声で何かを話し合っている。空中を飛ぶ妖精たちは興奮した様子で、キラキラと光る粉を撒き散らしている。


バルグリムさんんは私に向き直る。


「さて、阿井澤。昨日も伝えた通り、人事総務部長の重責を担ってもらう。ナディアに案内させるから、魔王軍の実態をしっかり把握するんだ」


「は、はい……」


返事はしたものの、頭の中は混乱していた。人事部と総務部が分かれているってことは、仕事量が多いってことでしょ?そりゃ前職は人事総務部長だったから両方経験はあるけどさ。とはいえ前職、というか前世は同じ種族の人間しかいなかったんだよ?全く異なる種族で構成された組織でできると思ってるの?


しかし、そんな疑問を口にする間もなく、バルグリムさんはさっさと広間から出ていった。集まっていた魔物たち?人たち?も、三々五々に散っていく。私は何も話していないが、就任式はこれで終わりらしい。


ぼけっと広間から出ていく人たち?人たちでいいや、を見ていると、ナディアさんが私の元に来る。


「阿井澤様、案内いたします。心配しないでください。私がサポートいたします」


彼女の言葉に少し安心する。そうだ、ここで動揺している場合じゃない。せっかく第二の人生、いや、異世界生を与えられたんだ。やるしかない!


「お願いします、ナディアさん」


私たちがオフィスに向かう中、様々な種族の視線を感じる。期待、不安、好奇心。さまざまな感情が渦巻いている。姿形は違っても、新しい存在を受け入れるっていうのは、入る側も緊張するが、受け入れる側も緊張するものだ。彼らの思いに応えるべく、私は背筋を伸ばした。


オープンスペースオフィスに一歩足を踏み入れると、そこは想像を超える光景だった。


「人事部は昨日案内されていましたので、総務部からご案内します。こちらが総務部です」


ナディアさんが説明する。


「オーク族が主に働いています」


見れば、がっしりとした体格のオークたちが、小さな机に向かって懸命に書類を扱っている。その姿は少々滑稽だが、真剣そのものだ。彼らの力強い指が、ペンを握りしめて細かい文字を書いている様子は、なんとも微笑ましい。


「彼らの力は偉大ですが、細かい作業は少々……」ナディアさんは言葉を濁す。


すると、一人のオークが力を入れすぎたのか、机が粉々に砕けた。「すまん……」と彼は申し訳なさそうに呟く。


「あー、オーク用の特殊強化デスクの開発が必要かもしれませんね」と私。


ナディアさんは驚いた様子で私を見た。


「さすがです。そのようなアイデアが出るとは」


次の区画に進むと、空中を飛び回る妖精たちが目に入る。


「ここは経理部です。妖精族が担当しています」


妖精たちは、翅から落とす光る粉で数字を書いていく。まるで魔法のようだ。彼らの動きは素早く、複雑な計算を瞬時に行っているようだ。


「彼らの計算能力は卓越していますが、たまに気まぐれで……」


そう言った瞬間、一人の妖精が突然歌い出し、周りの妖精たちも歌に合わせて踊り始めた。仕事が一時的に止まってしまったようだ。


「なるほど...」


私は呟いた。


「スケジュール管理もモチベーション管理も大切そうですね」


次に案内されたのは、巨大な木の形をした棚がある区画だった。


「こちらが人事部です。主にドライアードが働いています」


ドライアードたちは、木の枝や葉っぱの間を軽やかに動き回りながら、個人ファイルを整理している。彼らの動きは優雅で、まるでダンスを見ているようだった。


「彼らは自然との調和を大切にしています。そのため、オフィス環境にも気を使う必要があります」


ナディアさんが説明する。


確かに、区画の空気が他の場所より清々しく感じる。植物を活用したオフィス設計。これは人間界でも注目されている考え方だな、と思った。


案内が進むにつれ、様々な種族の特徴と、それに伴う問題点が見えてきた。夜行性種族と昼行性種族の勤務時間の不一致。寿命の違いによるキャリアプランの難しさ。種族間の意思疎通の問題。


そして、最も気になったのは、どの部署でも社員たちが疲労困憊している様子だった。


「ナディアさん」


私は尋ねた。


「みんな、とても疲れているように見えるけど……」


ナディアさんは少し困ったような表情を浮かべる。


「はい……最近、人間界との戦いが激化していまして。休む間もなく働いているんです」


その言葉を聞いて、私の中で何かが引っかかった。これはまるで、前世の人間界のブラック企業じゃないか。


過労死した自分の最期が、脳裏によみがえる。終電が終わったあとのオフィス。山積みの書類。気づけば朝。そして、倒れる自分。


「これじゃあ……」


言葉が喉まで出かかったところで、ハッとする。そうだ。私は人事部長兼総務部長なんだ。この状況を変える立場にいるんだ。


「ナディアさん」


私は決意を込めて言った。


「詳しい資料はありますか?各部署の業務内容、勤務時間、休暇取得状況。できるだけ細かいものをお願いします。昨日、人事部長の部屋に置いてあった書類は一通り目にしたのですが、大雑把なものしかなくて」


ナディアさんは少し驚いた様子だったが、すぐに微笑んだ。


「はい、用意いたします」


「それと、戦闘部門の施設も見せてもらえますか?総務部の管理対象になるんでしょう?」


ナディアさんはうなずいた。


「はい、そうですね。では、案内いたします」


私たちは、オフィスとは別の建物に向かった。そこには、まるで中世の城塞のような雰囲気が漂っている。


「こちらが戦闘訓練場です」


大きな扉を開けると、そこには広大な空間が広がっていた。剣や槍を持った戦士たち、魔法を操る魔術師たち、空中戦の練習をする飛行種族たち。様々な戦闘訓練が行われている。


「すごい……」


思わず声が漏れる。


「戦闘部門は、常に最高の状態を保つ必要があります」


ナディアさんが説明する。


「そのため、設備の管理や補給物資の調達など、総務部の仕事も多いんです」


訓練場を見学していると、一人の女性が近づいてきた。赤い瞳と青紫色の髪、首には赤いリボンを巻き、首筋に小さな蝙蝠の紋章がある。


「こんにちは。人事部長さんは、総務部長さんも兼任されるのね」


彼女は朗らかな声で言った。


「昨日ぶりですね、人事部長さん。あ、総務部長さんも兼任されるんでしたね」


「あ、はい。セリスさん、昨日は気にかけていただいて、ありがとうございました」


セリスさんの美貌を前に、私は少し緊張しながら答えた。


セリスさんは私をじっと見つめた。彼女の目が好奇心で輝いている。


「異世界の人間界の戦術とか、教えてもらえたりしません?」


「えっと……」


私は戸惑いを隠せない。


「私は戦闘はからっきしで……」


「そうですか」


セリスさんは少し残念そうだ。


「でも、人事と総務のプロなんでしょう?私たち戦闘部門の悩みも聞いてもらえますか?」


「もちろんです」


私は真剣な表情で答えた。


「どんな悩みでも聞かせてください」


セリスさんの表情が明るくなる。


「ありがとうございます!楽しみにしてます」


案内を終え、オフィスに戻る途中、ナディアさんが言った。


「そうそう、魔王城は総務部の管轄外なんです。バルグリムさまの直轄ですから」


「なるほど」


私はうなずいた。


「そりゃそうですよね。お城はオフィスじゃないですし」


ようやく自分のデスクに戻り、深いため息をつく。背中側にある窓の外には、紫色の空に二つの月。遠くには禍々しくも美しい黒い山脈。まさに異世界の光景だ。


でも、この世界でも、働く者の悩みは同じなんだ。


「よし」


私は拳を握りしめた。人間界では変えられなかった。でも、ここなら、ここならきっと。


魔王軍を、この世界で最高の『働きがいのある組織』にしてみせる。


それが、過労死した元社畜の、最後の意地というものだろう。


「ナディアさん」


私は呼びかけた。


「はい、阿井澤様」


「各部署の責任者との面談をセットしてもらえますか?直接話を聞いて、現状を把握したいんです」


ナディアさんは少し驚いた様子だったが、すぐに頷いた。


「承知いたしました。早速スケジュールを組みます」


「それと……」


少し躊躇したが、言葉を続けた。


「バルグリムさんとの面談も入れてもらうことってできますか。総帥であるバルグリムさんに改革案を直接説明したいので」


今度はナディアの目が大きく見開かれた。


「バルグリムさまとの……ですか?それは少し難しいかもしれません。でも、努力はしてみます」


「ありがとうございます。お願いします」


ナディアさんが去った後、私は窓の外を見つめた。異世界の風景が、まるで挑戦状のように私を見返している。


この異世界で、私は本当に変革を起こせるのだろうか。不安と期待が胸の中で渦巻く。


でも、ここで疲労困憊になっている全ての種族のため、そして自分自身のためにも、やるしかない。


「さあ、始めよう」


私は深呼吸をして、目の前の書類に目を通し始めた。異世界オフィスでの、私の新しい挑戦が始まったのだ。

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