第2話 魔王軍の人事総務部長として目覚める

「おい、起きろ。新しい人事総務部長」


 低く、荒々しい声が耳に飛び込んでくる。目を開けると、そこには赤い肌、頭から双角を生やした強面の巨漢が立っていた。


「はぁ……?」


 私は困惑して目をこすった。つい先ほどまで、事務所の入り口で倒れたはずだ。それなのに、なぜこんな奇妙な生き物と対面しているんだ?しかも、この生き物をよく見ると、蝙蝠のような翼が生えている。


「我はバルグリム・ドラゴネス。魔王であり、この魔王軍の総帥でもある。お前は、我が軍の新しい人事総務部長として転生してきたのだ」


「え?魔王軍?人事総務部長?」


 頭の中が真っ白になる。魔王軍?転生?何が何だか分からない。しかし、バルグリムと名乗る魔王は、不機嫌そうな顔で続けた。


「そうだ。前任者が急に故郷に帰ると言い出してな。困っていたところだ」


「でも、なぜ私が……?」


 魔王は腕を組み、しばらく考え込んだ後、答えた。


「転生者ならば帰る場所がない。つまり、簡単には辞められないってわけだ」


 その言葉に、私は絶句した。なんて理由だ。これじゃあまるで、逃げられない奴隷みたいじゃないか。


「それに、我が軍には様々な種族がいてな。ゴブリンやオーク、ドラゴン、アンデッドまでいる。奴らの間を取り持つ緩衝材として人事総務部が必要なのだ」


 魔王の説明に、私はますます困惑した。異種族間の調整なんて、どうすればいいんだ?


「ですが、私には異世界の知識も、魔物との関わり方も分かりません」


「はっ、そんなものはいらん。お前の人間界での経験を活かせばいいのだ」


 魔王は不機嫌そうに言った。


「ただし、変なことは考えるな。我が軍の伝統を守ることが、お前の仕事だ」


 その言葉に、私は少し躊躇した。超絶ブラック企業を抜け出したと思ったら、またブラック企業か。しかも今度は多種族とのコミュニケーションが必要になるのか。でも、ここで断ったらどうなるんだろう?元の世界に戻してくれればいいけど。あ、転生って言ってたな。ということは、私はあのまま死んでしまったのかもしれない。


「……分かりました。精一杯頑張ります」


 私の返事に、魔王は満足そうに頷いた。こうなりゃとことんブラック企業に付き合うしかない。


「よし、では執務室に案内させよう。明日から仕事だ」


 魔王に導かれ、私は初めて魔王城の中を歩いた。石造りの廊下には松明が灯り、まるで中世のヨーロッパの城のようだ。しかし、よく見ると至る所に現代的な設備が混在している。なんだか不思議な光景だな。


「人事部はここにいる」


 魔王が扉を開けると、そこには驚くべき光景が広がっていた。


「これは……!」


 巨大なオープンスペースオフィス。部署ごとに区画分けされているが、オープンスペースオフィスといって良いだろう。最新のパソコンが並び、大型スクリーンも壁に取り付けられている。しかし、そこで働いているのは人間ではない。オーク、ゴブリン、スケルトンなどなど。様々な魔物たちがデスクワークに励んでいた。まるでファンタジー映画の一場面みたいだ。


「これらの設備は前任者が勝手に導入したものだ。使いこなせているのか怪しいものだがな」


 魔王が不満そうに言う。確かに、魔物たちは機器の扱いに四苦八苦しているようだ。これは大変そうだぞ。


「そして、ここがお前の執務室だ」


 魔王に導かれ、奥にある個室に入った。オープンスペースオフィス側の壁はガラス張りになっている。広々とした空間に、立派な机とイス。奥の窓からは魔界の景色が一望できる。


「明日から、ここで仕事を始めろ」


 魔王の言葉に、私は深くため息をついた。


「バルグリムさん、一つ質問してもいいですか?」


「さ、さん付け?……ま、まぁいい。転生者だからな。多めに見てやろう……で、なんだ?」


「具体的に、私に何を期待されているのでしょうか?」


 魔王は眉をひそめ、しばらく考えてから答えた。


「先ほども伝えたが、我が魔王軍の秩序を守ることだ。色んな種族がいるからな、揉め事も多い。それを上手くまとめろ。それから最近規律がゆるんでいるようだ。脱走兵、とまではいかないが、前任の人事部長のように退職希望者が多い。小隊長や中隊長など現場レベルの指揮官が悪いのだろう。あやつらの人事評価書も作るように。あとは魔王軍施設の維持管理のとりまとめだ。前任者の秘書だった者が残っている。今日は休みだが、詳しくはそいつに聞け」


「分かりました。全力で取り組みます」


 私の返事に、魔王は無愛想に頷いた。


「よし。では我は行く。明日から頼むぞ」


 魔王が去った後、私は窓の外を眺めた。赤い空に、奇怪な鳥が飛んでいる。遠くには溶岩の川が流れ、地平線の向こうには人間界らしき緑が見える。ここが、私の新しい職場か。まるで夢みたいだ。


 机の上には、早速書類の山が積まれていた。その書類の山の横には『魔王軍組織図』と書かれている。それを手に取り、眺めてみる。


 魔王の下に四天王、その下に各部署。人事、経理、作戦、調達・運送などなど。ほとんど人間界の大企業と変わらない組織図だ。でも、なぜこんなに書類が?前任者は大変だったんだろうな。


 疑問を抱きながら、私は他の書類にも目を通し始めた。すると、驚くべき事実が次々と明らかになっていく。


 ・種族間の対立が頻発

 ・コミュニケーション不足による業務の混乱

 ・古い慣習と新しい制度の衝突

 ・不明確な評価基準


 なるほど、これが当面の問題か。


 そして、最後に目に入ったのは『人間界侵攻計画書』。軍事作戦なんだから計画書くらいあるよな。そんな変な納得をしながら目を通す。この書類には、前の世界では非現実的なノルマと無理なスケジュールが記されていた。


「これ、魔物だったらいけるのか?いや、魔物でも無理だったんだろうな。じゃなきゃ進捗遅れになってないんだから。ということは、これがそもそもの原因か。世界征服という大目標のために、現場の魔物たちが混乱している。しかし、その目標があまりに遠大すぎて、誰も具体的な行動に移せていない」


 どこかで聞いたような話だな。前世の会社を思い出す。確かに似たような状況だった。無理な人員での作業ノルマ、明らかにバックオフィスの手がかかるのに人が足りない非現実的な目標、それに振り回されるバックオフィスの社員たち。


 でも、ここなら少しは改善できるかもしれない。私は立ち上がり、窓の外を見た。視線を下げると、そこには疲れ切った表情で帰路につく魔物たちの姿が見える。


 よし、やってみよう。


 決意を新たに、私は机に向かった。まずは現状分析から始めよう。データを集め、問題点を洗い出し、改善策を考える。


「魔王軍を、もう少しマシな職場にしてみせる」


 呟きながら、ペンを走らせる。ペンは、机の上のペン立てから拝借した。そして、資料を読み、まとめ、気になった点について書かれている資料を探し、またまとめる。そうこうしているうちに、気がつけば夜が更けていた。


 ノックの音が聞こえ、ドアが開く。


「失礼します。新しい人事部長さんですね」


 振り返ると、そこには息をのむほど美しい女性が立っていた。黒と赤のコントラストが鮮やかな軍服のようなスーツを着用し、その姿は威厳と力強さを感じさせる。しかし、どこか人間離れした雰囲気がある。きっと人間ではない別の種族なのだろう。


「あ、はい。阿井澤 晴太です」


「わたしはセリス・ノクターナ。魔王軍特殊戦闘部隊の隊長を務めています」


 セリスさんは、少し好奇心旺盛な表情で私を見ている。


「人事部長は本日転生されたと伺いましたが、初日からこんな遅くまで働いているんですね。魔王軍の仕事にも慣れていないでしょうに」


 その言葉に、私は苦笑いを浮かべた。


「ええ、まあ。いろいろと把握しなければならないことが多くて」


 セリスは腕を組み、少し考え込むような表情を見せた。


「そうですね。人事部は我々戦闘部隊とも密接に関わってくる部署です。特に、新人の配属や訓練プログラムの策定など、連携が必要な場面が多々あります」


 なるほど、だからこそ彼女がここに来たのか。


「分かりました。セリスさん、これからよろしくお願いします。戦闘部隊の要望やニーズについて、また詳しく教えてください」


 セリスさんは満足そうに頷いた。


「ええ、お互いに協力して、魔王軍をより良い組織にしていきましょう……それはそうと、部長。今日はもう休んだ方がいいですよ。明日からが本番です」


 その言葉に、私は少し驚いた。


「ありがとう、セリスさん。君の言う通りだ。もう少しで終わるから」


 セリスさんはまだ少し心配そうだったが、会釈して部屋を出て行こうとした。その時、彼女の首に巻かれた赤いリボンのすぐ下の首筋に小さな蝙蝠の紋章が目に入った。それを見たとき、ピンときた。


「あの、セリスさん」


「はい?」


「大変失礼だと思うのですが、いろいろ把握させていただくことの一環としてお伺いさせてください。あなたは、人間という種族ではない、ですよね?」


 セリスさんは少し驚いたような表情を見せたが、すぐに微笑んだ。


「さすが、人事部長として喚ばれただけあります。どこで気づかれたのか分かりませんが、観察力があるようですね。おっしゃる通りです。わたしは吸血鬼族です。もしかしたら魔王様からお伺いされているかもしれませんが、魔王軍には本当に多くの種族がいます。きっとこれから色々と驚くこともあるでしょう」


「なるほど……」


 私は言葉を失った。前世では創作の中にしか存在しないはずの吸血鬼が、目の前にいる。しかも、特殊戦闘部隊の隊長だという。この異世界で、どれほど驚くべきことが待っているのだろう。


 セリスさんは私の驚きを楽しむように微笑んで、「では、お休みなさい」と言って去っていった。


 戦闘部隊のトップとも関わるのか。魔王軍における人事総務の仕事の幅広さを実感する。そして、この世界の常識の違いも。少し緊張感を覚えながら、私は再び書類に目を向けた。


 よし、明日からが本番だ。魔王軍を、少しずつでも変えていこう。


 決意を新たにしながら、私は魔王軍人事部長としての最初の夜を過ごしていた。明日から始まる新しい挑戦。その行方は、誰にも分からない。でも、きっと面白いことになるはずだ。そして、セリスさんのような優秀な幹部たちと協力しながら、この異世界の組織をよりよいものにしていけるかもしれない。そんな期待と不安が入り混じる中、私は深夜の執務室で、明日への準備を続けた。

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