第3話

 翌日も、俺はひよりちゃんを訪ねた。

 彼女の家の庭にある大きな常緑樹の木陰に立っていた。昨日焼かれた腕は、まだひりひりとして悲鳴を上げていた。

 ひよりちゃんは屋根の上であぐらをかき、宿題と思われるワークを広げていた。傍らには、ペンが五本も入らなそうな、布製で細い円柱型のペンケースがあった。

「爽太くーん、四百六十二を素因数分解して」

「いや、暗算じゃ無理だろ。俺は天才東大生じゃないんだから」

 日陰から適当に返すと、ひよりちゃんは頬を膨らませた。

「えー、東大行かないの?」

「行かないし。行けるわけないし」

 ひよりちゃんは俺の学力を過信しているらしい。俺は偏差値の高い大学より、家から遠い大学に行きたい。

「北海道の大学とかがいいかな」

 俺が下を向いて呟くと、「え……?」という微かな音が耳に届いた。

 見上げると、ひよりちゃんは目を逸らして、

「……会えないじゃん」

 と静かに言った。

 俺はその言葉を咀嚼出来ないまま、目線を外せなかった。

 不意に、彼女が俺を見た。

 その次の瞬間には、彼女は軽く息を吐きだすように笑っていた。

「なんちゅう顔してるの」

 彼女は、ハハッと快活に笑った。

 俺はぎこちなく顔を作った。肘下の日焼けが痛い。

「じゃあ、爽太くんが北海道に行けるように、第二問!」デデン、と効果音が添えられる。

「炎色反応において、リチウムは何色を示すか」

 唐突に出題された第二問に少々狼狽えつつ、確かに頭を回す。炎色反応は、「リアカー無きK村」だから。

「赤」

「……」数秒間の沈黙。しかしその後すぐに「正解」と告げられた。

「てか、それ数学のワークじゃないの?」

「んー、まあいいじゃん」

 今の彼女の頭の中は全く見えない。俺は頭上の青々とした葉を見上げて、指を差した。

「じゃあこれは何の元素でしょう?」

 ——問うと、時が止まったように感じた。ひよりちゃんは瞬きもせず、蝋人形に入れ替わったように静止していた。

 一瞬、彼女の目が泳いだ気がした。

 しかしすぐに困った顔をして、

「もぉー、分かんないよ! いじわるだなぁ」といつもの声を出した。

「正解はー?」

「正解は、」

 そこまで言って、「緑」は銅の青緑とバリウムの黄緑があることに気付いた。この濃い緑は、どちらでもなさそうだった。

「ごめん、いじわるだったわ」

 ひよりちゃんは、むーっと思い切り片側の頬を膨らませた。

「いいけど」

 彼女はそれ以上口を開かなかった。下を向き、ただ活字とにらめっこしていた。しかししばらく経っても、次のページには進まなかった。

「あー、やっぱり直射日光浴びながらやるもんじゃないわ」

 唐突な一言とともに、ひよりちゃんは両腕を斜め上に突き上げて伸びをした。眩しそうにぎゅっと目をつぶっている。そうして十二分に太陽の光を浴びると、少ない荷物を片付けだした。

「ごめん、今日はもう家入るわ。ちゃんと宿題進めるから」

「……あっ、うん」

 俺がそう声を出したときには、ひよりちゃんはもう部屋に入ろうとしていた。彼女は余韻を感じさせない動きで、「じゃあね」と手を振り、窓の鍵を閉めた。

 かしましい蝉の声が降り注いでいた。鼓膜が、レーザーを照射されているかのようにじりじりと痛かった。俺はひよりちゃんが分からなかった。どうして彼女が動揺したのか。でも、その原因が俺にあることだけは確かだった。

 一匙の罪悪感が、苦く胸に残った。

 ひよりちゃん家の蝉が、一斉に俺を非難していた。




「ただいま」

 居間のドアを開けると、祖母が扉の陰からひょいと顔を出した。祖父もその隣に座っている。

「おかえり。また喋ってきたんけ」

「まあ」

「あらら、また日焼けしたんじゃないの。顔も腕も真っ赤。今、また氷持ってくっからね」

 祖母は、よっこいしょ、と言いながらゆっくりと立ち上がり、台所へと歩いていった。

 午後三時。テレビでは十年以上前の時代劇の再放送が流れていた。俺はそれを横目に、昨日と同じ場所に腰を下ろした。

「何を話してきたんだ?」

 静かな、手探りな口調で祖父が言った。

「えっ……いや、いろいろ。宿題のこととか」

「そうか」

 殺陣で刀がぶつかり合う音が部屋に響く。

「今週の日曜、公民館で花火大会があるのは聞いてないか」

「聞いてない、けど」

「一緒に行ったらどうだ」

 その提案に、言葉が詰まる。

 あの覚束ない様子が脳裏をよぎる。

 炎色反応。

「行って、くれるかな」

 恐る恐る祖父の表情をうかがう。

 祖父は俺の目をしっかりと見て言った。

「爽太なら、行ってくれるんじゃないか」

 ……俺なら。

 その言葉を反芻する。

 ――じいちゃんは、何か知ってるの?

 そんな疑問が浮かんだが、臆病がまさって訊けなかった。

 そのうち横でカチャリと音が鳴り、

「はい、爽太。これで冷やしなさい」

 と祖母が布巾着に氷をぎっしりと詰めて戻ってきた。

 礼を言ってそれを受け取り、左腕に乗せる。肌を刺すような冷たさが感覚を占めた。

 祖母を盗み見ると、微笑を湛えてちょこんと座っている。

「ばあちゃん?」

 祖母の顔がこちらに向けられる。

「今週の日曜に花火大会があるって聞いたんだけど」

「ああ、そういやあそうね。ひよりちゃんと行くんけ」

「あ、いやまだ……。誘ってみようかな、って」

 すると祖母はにっこりと笑った。

「ああ、行きな行きな。ねえ、お父さん」

 祖父は顔を動かさないままで、「ああ」と答えた。

「甚平でも着てくけ?」

「いやいや、まだ決まってないし」

「爽太とならいいって言ってくれるだろうよ」

 俺となら。

 またこの言葉だった。

「俺となら、って何で?」

 すると祖母は眉を上げて言った。

「だってひよりちゃんは、爽太が一番の友達だろう?」

 その言葉に、祖父が微かに頷いた、気がした。

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