第2話

「爽太、ちょっと洗濯物取り込んできてちょうだい」

 その声に課題を進める手を止めて、かごを持って表に出た。快晴の太陽光がまぶたを突き抜けて目に届いた。

 物干し竿の支柱は懐かしいくすんだ色をしていた。幼い頃は届かなかった竿が、今は目線より下にあった。鼻腔をくすぐる柔軟剤の匂いも家のそれとは違って、妙に落ち着いた。

 全てをかごに入れ、目の前から洗濯物が無くなったとき、ふと視界の上の方に人の姿が映った。俺は何に導かれたのか、無意識のうちにその人にピントを合わせていた。

「あ……」

 その人はトタン屋根の上に座っていた。飛び降りようとする様子はなく、それどころか、そこにいるのが当然であるかのように片膝を抱えて腰を下ろしていた。白いTシャツにショートパンツを履いたひよりちゃんがそこにいた。

 表情は「無」だった。どこかをぼんやりと見ていた。その目は何を映しているのか、目線らしき線を辿っていっても、そこには何もなかった。俺は訳もなく、ただその佇まいに強烈に惹かれた。洗濯物が詰まったかごを玄関に置いて、「ちょっと出るから」と廊下に声を響かせて戸を閉めた。俺は彼女に手繰られているように歩を進めた。気付くと道路を渡り、斜向かいの家の前に立っていた。ひよりちゃんは、やはりぼうっとしていた。彼女のほぼ真下まで近づくと、そこでようやく、彼女は俺に気が付いた。

 彼女の唇が微かに動いた。蝉の鳴き声が響き渡る中、糸で繋がっているかのように目が合っていた。

「ひさ、しぶり」

 その言葉は俺の口から突いて出た。

「覚えてる?」

 期待と、一抹の不安。だがすぐにひよりちゃんの顔は緩んで口角が上がった。二重で大きな目をくしゃっと平たくして笑った。

「久し振り、爽太くん」

 その表情に、俺もつられて笑みがこぼれた。彼女は身を乗り出して訊いてくる。

「いつ振りだっけ」

「確か、小三振り」

「そんな前かー。変わんないね」

「そっちこそ」

 本人は「えー、そう?」と言っているが、大ぶりな顔のパーツ、健康的に焼けた肌、くっきりとした骨格、それから髪の一つ縛り、前髪の長さまで、何一つ変わっていない。俺はそのことに安堵した。

「てか、爽太くんなんでこっちにいるの?」

「父さんが夏の間だけ海外に出張なんだ。母さんもそっちについていくから、夏休みはばあちゃんに預けられてる」

「そっか」

「ひよりちゃんこそ、なんで屋根の上なんかに」

 すると彼女は、俺から目線を外して遠くを見た。

「なんか……非、日常って感じで。この前、布団を干したときに初めて上ったんだけど、ハマっちゃった」

 そして、俺を見ずにくすっとぎこちなく笑った。その様子だけは、ひよりちゃんではなかった。ひよりちゃんなら、俺の目をかっと見て、歯を見せて笑うはずだった。

「ひよりちゃん……?」

 思わずそう口からこぼれたとき、彼女は目を見開いて勢いよくこちらを見た。その表情に俺はやはり昔の面影を認めて、さっきの様子をきれいに忘れた。

「何?」

「いや、なんでも……」

「なんだよ~?」

 そんなやりとりに、幼い頃の思い出が蘇る。どちらからともなく笑った。

 それから、お互いの学校のことや友達のこと、この夏休みの予定などを話した。

「夏休みの宿題、全部こっちに持ってきたの?」

「もちろん。さっきもやってたよ」

「……嘘つき」

「ほんとだってば!」

 ひよりちゃんは、むきになる俺をからかうように「まあまあ」とたしなめた。

「でも、向こうの先生も『高二の夏から勉強したやつは強い!』って言ってたから。夏休みって書いて、学習強化月間って読むんだって」

 するとひよりちゃんは、ふーんと退屈そうに吐き出して、「ルビがめっちゃはみ出しそうだね」と他人事のような感想を述べた。

夏休みがくしゅうきょうかげっかんなんかじゃないよ、夏休みは」

「じゃあ、夏休みは何?」

 その問いにひよりちゃんは真剣な眼差しで答えた。

「――七度寝祭り」

「怠慢すぎるだろ」

「いやいや、高二の夏は、『受験生になる前にだらだら過ごしておく』が正解だよ。マル、この問題十点。あと、夏と七度寝で韻も踏んだので芸術点で三点加点します」

 ひよりちゃんは堂々とそんなことを言って、両手を後ろについて得意げに背中を反らせた。

「じゃあ宿題は?」

「まだやってないけど」

「いいの?」

 すると、ひよりちゃんはむっとして、

「いーのー!」と大袈裟に口を動かし、眉間に皺を寄せた。

「もう、せっかく、夏ヤスミィ~は、七度寝マツリィ~なんだから」

 そうして唇を尖らせ、伸ばした両脚を小さくばたばたさせる。このままだと本当に手付かずのまま徹夜の最終日を迎えそうだ。

「……でも、もう夏休みが始まってから一週間経っちゃうし」

「……」

 ひよりちゃんは体を横に揺らす。

「後半の祭りを潰しちゃわないためにも、少しずつ進めておいた方が——」

「もぉーう、分かったよ! やる! やってくるよ、宿題!」

 ひよりちゃんはその言葉の勢いそのままに、こちらに大きく身を乗り出してくる。

「ちょっ、危ないっ」

 俺の心配をよそにひよりちゃんは勢いよく立ち上がると、後ろの窓へと歩いていった。

「そんなに勉強が好きなら、私の分もやってよね」

 そして手を掛け、家の中に戻ろうとする。

「あっ、ねえ!」

 ひよりちゃんは驚いた様子でその場を振り返る。

「明日も、屋根にいる?」

 その質問に彼女は力の抜けた声色で、「私に宿題させたいんじゃないの?」と笑った。

「いや、――」

「いるよ。爽太くんが来るなら」

「え……?」

 少し先にいる彼女はふふっと息を漏らす。

「待ってる」

 ひよりちゃんは柔らかい声でそう言って、ガラスの向こうへ消えていった。

 彼女はつかみどころが無かった。

 炎天下、俺はしばらくその場を動けなかった。


          *


 午後五時の夕食。加えて入浴済み。氷で冷やしたとは言え、風呂の湯は日焼けした箇所をひりひりとさせた。

 夕食はテレビの音で賑やかだった。俺は祖母の左斜め前――長方形のローテーブルの短い辺にあたるところ――に座っていた。テレビの点いた団欒は久しぶりだったが、生憎やっているのはニュースだった。

 目の前にこんもりと盛られた唐揚げをつまみ、口に入れる。

「うまっ」

「だろう? もっと食べな」

 祖母は口角を上げてその大皿を俺の近くに寄せた。

「ひよりちゃん、どうやった? 昔から変わってねだろ」

 俺はあの取り留めのない姿を思い出す。外側は変わらないように見えて、内側で変異があったように感じた。が、「変わった」と言うほどの違和感でもないと思って首肯した。

「何をお話ししてきたの」

「んー、夏休みの過ごし方とか。まだ宿題に手付けてないみたいで」

「はっはっ、爽太は真面目だもんねえ」

「親が厳しいからな」

 それまで黙々と食事を続けていた祖父が初めて口を開いた。「お父さん、そんな言い方せんの」と祖母がたしなめる。否定もできないので、俺は何も言わずにきゅうりの漬物をぼりっと噛んだ。

 本当に、なぜあの二人が結婚したのか分からなかった。記憶の中の両親は、一度も仲睦まじい姿を見せなかった。特に父は俺にも厳しく、他の人にも、自分自身にも厳しかった。

 俺はまた一つ唐揚げを頬張り、正座を崩した。

「ずっとここにいちゃ駄目かな」

 祖父の咀嚼が一瞬止まり、すぐに元に戻った。祖母は俺の方に体を向けて徐に言う。

「いくらでもいなね。んで、来たいときはいつでもおいで」

 いつでも来られる距離でないことは、三人とも分かっていた。

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