第6話 異世界転移とか、今それどころじゃないんだよね
船酔いは嘘みたいに消えていた。
これじゃあ君枝さん、まるで超能力者だ。
どうやら嵐は過ぎ去ったようで、甲板に出ると亜熱帯らしい真っ青な空に白い雲が浮いていた。
海の青さも生まれて初めて見る、宝石みたいなエメラルドグリーン。
うん、こりゃきれいだ。
潮の香りがする空気を胸いっぱいに吸い込むと、肺の中で船室のよどんだ空気と入れ替わり、全身の血がリフレッシュしたみたい。
「兄さん、あれ」
あずさが指さす方向には、何かが海面を跳ねていた。
「ああ、あれはイルカといって、魚に似ているけど哺乳類だよ」
「そのくらい知ってるわ、バカにしないで。あっ、また跳ねた! か~わいい~っ!」
知ってるならなんで聞いたんだよと思ったけど、まあいいや。
ぼくだって野生のイルカを見るのは初めてだからね。
「ば~か!」
え?
なんか甲高い声で馬鹿にされた気がする。
それも、水面から聞こえたような。気のせいかな。
「ゴミすてんなよ、にほんあしのゴミども! カカカッ!」
空耳だ。ああ、イルカは可愛いなあ。
ぼくは食い入るようにしてイルカを眺め、あずさは君枝さんと抱き合うようにはしゃいでいた。
「おまえらがいなけりゃ、うみはもっときれいなのに! めいわくなんだよ!」
「そうだそうだ! そんなんだからおまえらはにほんあしなんだ! ばかばかば~か!」
くそ、空耳が消えない。なんかイライラしてきたぞ。二本足で何が悪い。
「やあ、いい風だね」
声に振り返る。
そこでにこやかな笑みを浮かべていたのは、昨日のイケメン様だった。
「なんかイルカに叱られている気がするんだけど」
「ば~か!」
くそ、うるさいな。
「たまに向こうのイルカがこっちまで来ることがあるんだ。ゴミを捨てると怒るよ」
やっぱり空耳じゃなかったのか。
イルカの知能は人間を凌駕する、という説もある。
イルカ同士で会話をしているらしいけど、日本語を話すなんて聞いたこともない。
少なくも、地球では。
もしかしたら教えたら覚えるかも?
超音波で話すってことは、可聴領域の音も出せるはずだ。
「へえ、やっぱりきみ、向こうの人?」
「うん。僕は――」
ぼくを押しのけるようにしてあずさが前に出た。
「き、昨日はありがとうございました! あの、あたし桜木――ううん笹原あずさといいます! 十四歳の中学三年で、こんど新世界島に引っ越すんです! で、こっちは『兄の』笹原信也です」
あずさはぼくが兄であることをことさらに強調した。
「僕は
ユウの父親は、政府から委託を受けて新世界島の開拓事業を一手に引き受ける大企業、ワールド・ゲート社――通称WG――の取締役だそうだ。
「ついでに本土で買い物をしたくてね。島だと買えないものが色々あるし。この船も父の会社が持っているから、社割が利くんだ」
そう、ぼくらがこれから向かう新世界島は、ネット通販なんてものは無い!
ぼくたちが住む予定の場所を言うと、ユウはキラキラとした笑みを浮かべた。
「
潮風がユウの髪をなびかせるたびに、あずさの目はキラキラと輝いた。
ユウはまるでトム・ソーヤーみたいな服装をしているくせに、映画の中のスターみたい。
ああ、海面に反射した日光が真っ白な歯で反射して眩しいぜ。
「す、素敵……! あのっ、向こうに着いたらぜひお礼をさせてください!」
「そんな、気にしなくていいよ。当然のことをしたまでさ。僕のほうこそ、お兄さんにぶつかってしまったからね」
「でも! それじゃあたしの気が済みません! ぜひご連絡先を!」
そう言いながらあずさはポケットに手を入れると、はっとして俯いてしまった。
「そうだったわ……向こうは携帯の電波、無いんだっけ」
ユウはふふ、と小さく笑うと尻ポケットから手帳とペンを取り出した。
「これ、僕の住所。何かあれば、ここに電報をくれればいいから」
住所を交換する二人。
そう、異世界はさすが異世界というだけあって、地球の通信ネットワークから完全に切り離されてしまっているのだ! インターネットはおろか、電話すら使えない。
通信は全て郵便か、せいぜい電報くらいしか届かないのだ! 現代っ子のぼくにはまるで想像が付かないや。
生きていけるのかな?
船室に戻ると、あずさはユウの住所を書いたメモを何度も何度も見返しては、胸に当ててため息をついた。
瞳はうるみ、頬は赤らんで、つやつやとした唇は少しだけ開いていた。あんな数行の文字だけであんな顔ができるなんてなあ。これがイケメン
*
夜。ひどいイビキでぼくは眠れなかった。
誰だよもう、うるさいなあ。
「ンゴ! ナンデヤハンシンカンケイナイヤロ! ンゴゴゴゴゴゴ!」
って、叔父さんかよ。
叔父さんは早速、言語理解スキルで異世界の言葉を身につけたらしい。
信じられないかもしれないが、叔父さんは英語とタミル語、北京語を少し話せるんだ。
ぼくの英語の成績は三なのに。
「……ムニャムニャ……我的房子有屋頂、你想晒斑……」
寝言、うるさいなあ。
せめて意味のあることを言ってほしいもんだ。
ぼくは風に当たろうと階段を上った。
「あれ? どうしたんですか?」
階段の踊り場で、女の人がうずくまっている。
どこかで見たな。
ああ、そうだ。あずさたちと同じバスに乗っていた妊婦さんだ。
顔中に脂汗が浮いていて、顔色が真っ青だ。……まさか。
「う……」
「だ、大丈夫ですか?」
「産まれる……」
「ひえっ」
よく見れば足下に水たまりができている。
これ、破水ってやつじゃないの? すぐにでも産まれちゃう!
「すぐに人を!」
でも女の人はぼくの手首を掴んだ。ものすごい力だ。
「待って! い、行かないで! ああっ!」
「で、でもぼくだけじゃ!」
「あっ、あっ……あああーっ!」
どうしよう。どうしよう。どうしよう!
ぼくは男所帯で育ったから、もちろんどうすればいいのかさっぱりわからない。
どうしよう!
「何してるの?」
階段を上ってきたのはあずさだった。
「大変だ! 産まれそう!」
あずさは一瞬だけポカンとしたけど、女の人を見てすぐに唇を真一文字に結んだ。
「あたしが見ているから、兄さんは早く船員さんを呼んで! ブリッジに行けば誰か居るわ、もしかしたらお医者さんもいるかもしれない!」
「わ、わかった!」
ぼくは離陸しそうな勢いで最上甲板まで上がり、ブリッジを探した。
ブリッジは、ブリッジはどこだ! 医者はどこだ! イシャ!
「どうしたの?」
「あっ! トム・ソーヤー!」
「えっ? 何のこと?」
違う。トムじゃない。池本ユウだ。
「た、大変なんだ! 女の人が、赤ちゃんが産まれそうになってて! 医者はどこ?」
「何だって? わかった、こっちだ」
ぼくはユウに付いて走った。
なんと、ぼくはブリッジとは逆方向に走っていたんだ!
ユウが居なければもっと時間が掛かっていただろう。
一秒でも惜しいのに!
ドアを連打して開けてもらうと、船員さんに事情を話した。
「残念ながら医者は乗っていないんだ。船内放送で人手を募ろう」
特別に一等船室を空けてもらい、周りの人に手伝ってもらって女の人を運び込む。
すごい汗だ。呼吸も荒い。
ショックを与えないように。
慌てず、急いで、正確に!
ユウとあずさは船内を駆け回ってありったけのタオルを集め、厨房の人に手伝ってもらって大量のお湯を沸かした。
君枝さんが中で女の人を励ましている。
ぼくや叔父さん、山師の面々は不安げに通路で時を待っていた。
会話はない。
誰もが不安に押しつぶされそうになっていた。
そして永遠とも思える長い長い時間が経ち、東の空が赤く染まり始めた頃。
「おぎゃーっ! おぎゃーっ!」
産まれた!
目の下に隈を作った君枝さんが、疲れ切った、それでいて安堵した顔で出てきた。
「赤ちゃんもお母さんも元気ですよ」
船中が沸いた。
船内放送で出産の成功が伝えられ、ぼくたちは知らない人同士で抱き合って喜びを分かち合った。
よその母子なのに、どうしてこんなに嬉しいんだろう。
生まれたのは女の子で、
新しい世界にぴったりだ。
操舵手以外の全員がそっちに気を取られていたので、時空を越えるという一大イベントは気がついたら終わっていた。
とくに超科学の機械装置も魔法のアイテムも必要なく、座標さえ合っていればごく普通に行き来ができるみたい。
船首方向には地図にない巨大な島が現れていた。
富士山よりもずっと高い山が並んでいて、まるでノコギリの歯みたいだ。
「あれが……」
「そうだ。あれが異世界の陸地、
白いふさふさなお髭がダンディな船長が、パイプをくゆらせながら立っていた。
「あなたは」
「めいふらわあ丸の船長だ。先ほどは協力に感謝するよ。わしも赤ん坊を抱かせてもらったが、やはり新しい命は希望だな」
「ぼくも抱かせてもらいました。赤ちゃんって、本当に赤いんですね」
「だから赤ん坊と言うのだよ、はっはっは」
しわくちゃでサルみたい。……と思ったけど、それは心の中にしまっておこう。
船長は顔を上げた。
「わしとこの船は、今までに一〇万人の人々をあの島に送り込んだ。お前さんのような若者もいれば、全てを失った者も、何かから逃げ出そうとする者もいる」
「一〇万人もですか?」
「正規の人員はそうだ。だが、これまでに八万人の人々を本土に送り返した」
「じゃあ残っているのは二万人ですか?」
「はっはっは。計算上はそうなるが、そう単純にはいかんよ。死んだ者と生まれた者がいるからな。それに密航者の数となれば想像も付かん。わしゃもう知らんよ」
異世界行きを望む者は多く、政府ですら状況を正確に把握できないらしい。
ぼくたちの目的地は新世界島だけど、もちろん他にも陸地はある。
噂じゃ、アフリカ大陸なみの陸地もあるとか。
船を勝手に作って探検している人がいるとかいないとか……まあ、それはぼくには関係ない。
「とりあえず今回はプラス一ですね」
「そうだな。さすがに船内で生まれたのは初めてだが。やれやれ、さすがに驚いたよ」
「無事産まれてよかったですよ」
ぼくは赤ん坊が産まれる場面に生まれて初めて立ち会った。
生命ってのは、ああやって産まれてくるんだな。
この船に乗っている人たちも、地球で暮らす何十億の人たちも、ああして産まれてきたんだ。
そう考えるととても不思議なことに思えた。
希海ちゃんのお母さんは
法事で里帰りしていたけど、向こうで旦那さんが待っているそうだ。
家族ってのがどんなものなのか、ぼくにはよくわからなかった。
でも、今回のことで少しわかった気がする。
「異世界は夢と冒険のファンタジー世界ではない。生身の人間が暮らす社会なのだ。誰もが生まれ、そして死んでいく。本土で起こることは、あの島でも全て起こりうるのだよ」
そう言った船長は、帽子の庇を下げて目元を隠した。
目元に光るものが見えたのは、きっとぼくの気のせいじゃないだろう。
地球から転移して、気温は明らかに下がり始めていた。
シャツ一枚だと少し肌寒い。
船長はぼくの肩に手を置くと、近づきつつある新世界島を見つめた。
「お前さんは、わしの息子が若い頃によく似ておる。何があっても、諦めちゃならんぞ。生きてさえいれば、そこに必ず希望はある」
「……はい、船長」
二時間後、ぼくたちを乗せためいふらわあ丸は、新世界島の港にたどり着いた。
波のない静かな入り江を進む。
入り江を囲む崖はコンパスで書いたように丸くて、隕石がぶつかってできたクレーターじゃないかと言われている。
崖の上には一軒だけ大きなお屋敷があるほかは、木々で覆われていた。
海岸に沿って小さな家と、陸揚げされた漁船が並んでいた。
桟橋からはまっすぐに未舗装の道が延びていて、遠くに山の稜線が見える。
道を挟むようにして素朴な店並みが並んでいて、商店街になっているらしい。
これが、異世界。新世界島だ。
「どうした、信也。後ろがつかえているぞ。早く降りろ」
「う、うん」
叔父さんにせかされて、ぼくはおそるおそるタラップから右足を桟橋に着けた。
地面は全く揺れていないのに、今でも揺れている感じがする。
でも、ここは陸地だ。
異世界の、新世界島だ。
この一歩は一人の人間には小さな一歩だが、人類にとっては大きな飛躍だ。
これは世界で初めて月に行ったアポロ一一号のアームストロング船長の言葉だ。
月までの距離は三八万キロ。
でも、この世界は何光年先にあるのか、いや同じ宇宙にあるのかどうかすらわからない。
考えてみるまでもなく、ぼくはアポロよりも遠くに来た事になる。
ぼくはゴクリとつばを飲んで、残る左足も桟橋に下ろした。
これが、ぼくの異世界転生だった。
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