第2話 ぼくもノリで生きているらしい
満員電車で強引に圧縮されたぼくは、いつも通りに区立中学の校門をくぐった。
この学校に来るのも、今日が最後か。
もっとも、この学校に通い始めたのは一ヶ月前だし、それほど思い入れがあるわけでもない。
教室のみんなはバカみたいに騒いでいるか、スマートフォンを覗き込んでいる人ばかりだ。
ぼくは誰とも話さないし、誰もぼくに話しかけてはこない。
「……?」
何だろう。さっきから視線を感じるような。
ええと、何て名前だっけ、あの子。
髪が長くて、顔が小さくて。小柄で痩せてるんだけど、出るところは出ていて。
もちろん一度も話したことなんかない。
ちょっと近寄りがたい雰囲気で、友達もあまりいないみたいだ。
あっ、目が合った。
なんだろう。ものすごく怖い目をして、こっちを睨み付けてくる。
なんか恨みを買うようなことあったかな。いやない。話したこともないのに、恨まれる筋合いなんかないぞ。
でも、美人だよね。ぼくは嫌いじゃない。
あんな彼女がいたら、人生楽しいだろうなあ。
名前は……なんだっけ。さ……さなんとかさん?
そうこうしているうちに、担任の先生が入ってきた。
ホームルームをやって、体育館で校長のクソ長い――そして中身のない――演説を聴いて、教室に戻ると通知表を渡される。
ずらずらと三、四が並ぶ。可も無く、不可も無くってところだ。ちょっと四が多いかな。
いや待て。
道徳が一ってどういうことだ。
ぼくはそんな悪い人じゃないと思うんだけどなあ。
裏の通信欄には『暴力を振るってトラブルを起こさないよう、よく言い聞かせてください』だって。
言っておくがぼくは生まれてこの方、人を殴ったことがない。
誓って一度たりともない。
なのに何でこんな事を書かれるのかというと……いや、今さらどうだっていいか。もうこの学校、来ないし。
終業のチャイムが鳴ると、みんなは楽しい春休みに向けてはしゃぎながら教室を出て行った。
ちなみに二年から三年に進級する時、クラス替えはない。
教室の場所が変わるだけで、みんなにとっては何も変わらない日々が四月から始まる。
そこにぼくはいないけどね。そう思うと、少し寂しくもある。
ぼくは叔父さんの迎えを待たなきゃいけない。
昼過ぎまで学校に残らなければならないわけだ。
する事もないし、トイレでも行きましょうかね。
「……ウンコヨシ!」
ぼくは指差し呼称をして水を流した。
いつからかなあ、学校でウンコできるようになったの。
小学生の時はできなかったな。
なんか大便所使ってるとみんな騒ぐし。
今にして思えばあれ、何だったんだろう?
ああ、この学校でのウンコもこれで最後かな。
何の感慨もありゃしない。
さて、最後の手洗いをしよう。ちゃんと石けんでな。
「ん?」
ゴミ箱の中に、上履きが捨てられているのを見つけた。
落書きだらけだし、穴が開いているし、まあ捨てるよな。
今日は終業式だもの。
ぼくは教室に戻ろうとした。
「調子乗ってんじゃないわよ!」
何だろう。教室に誰かいるのか?
声だけ聞くと何やら穏やかじゃない雰囲気だ。
覗き込んでみると、さっきぼくを睨み付けた女の子が取り囲まれていた。
相手は三人。女子グループの中でもわりとやかましいタイプだったな。
いや。正義感が異常なまでに強いタイプだ。
「アンタねえ、バカにするのもいい加減にしなさいよね!」
「そうそう! わかってるんだから! アタシらを見下してんでしょ!」
おやおや、怖いねえ。女の派閥争いってやつはさ。
ぼくはもうこの学校を去る身だ。派閥も上下関係もありゃしない。
いや、待てよ。
ぼくは詰め寄られている女の子が、来客用のスリッパを履いているのに気付いた。
ああ、なるほど。
ゴミ箱に入ってた上履きの持ち主か。
陰険だなあ、胸糞悪い。
どうせ去るなら最後にちょっとくらい良いことしときたいよな。
通信簿の件もあるし。
どれ、助けてやるか。
「何やってんの?」
「ああ?
おー、怖い怖い。
「そうだね、関係ないっちゃないんだけどさ。ぼくは用事があって、この教室にいなけりゃならない。マンガ読むから、少し静かにしてくれると助かるんだがなあ」
「ハァ?」
すげえ顔だな。
みじんも可愛くない。
はっきり言わなきゃ伝わらないか。
気が進まないけど。
「うるさいから黙れ、って言ってるんだよ」
相手の目をまっすぐに見て、抑えた口調で声をなるべく低く。
不自然にならない程度に。
ぼくはもう、彼女たちに会うことはない。
だから、どう思われようとも知ったことじゃない。
案の定、彼女たちは青くなった。
「……ちょっと、やばくない? 笹原って、確か……」
「ば、バカ言わないでよ。ヤクザをボコったなんて、嘘に決まってるでしょ」
ああ、嘘だぜ。だが、その嘘を今ここでどうやってあばく?
真実はこうだ。
街でボコられた瀕死のチンピラに偶然出くわして、頼まれて救急車を呼んでやっただけだ。
ぼくは何の関係もない。
たとえそのチンピラが揉めた相手が本物のヤ――反社会勢力だったとしてもだ。
で、偶然その場にクラスの誰かがいたらしい。
噂にどんどん尾ひれが付いて、なんだかぼくはひどいアウトローということになっているようだ。
で、先生はぼくの話なんかろくに聞かずに、道徳に一を付けた。
事実じゃなくて、ただの噂の方が先生には真実だったんだな。
あれれー? おかしいぞー? 真実はいつも人の数だけある! 誰だ、一つなんて言ったのは。
このクラスでぼくが完全孤立していたのはあのチンピラのせいだ、コンチクショウ。
でも、今それを訂正する必要はないんだ。案の定、女子たちは青くなったからね。
「お、覚えてなさい!」
女の子たちは逃げるようにして教室を出て行った。
覚えてろとはいかにもテンプレな捨て台詞だ。
でも、ぼくは覚えていても仕方がない。
さて、三人の怖いお姉さんに吊し上げられていた彼女、丸っきり怖がってる様子がないな。
腕組みしてツン、としている。
「ええと、大丈夫?」
「……見ての通りよ、笹原信也くん」
あれ、ぼくの事知ってた。
でもまあ、考えてみれば当たり前だ。
転校してきたばかりのぼくは全員の名前を覚えきれなかったけど、彼女はこのクラスに元々いたんだから、ぼくの事だけを覚えればいいもんな。
「いちおうお礼を言っておいたほうがいいでしょ。どーもありがとう」
うわあ、すごく嫌そうな顔。
まるで感謝しているようには見えないな。
まあいいけど。
「でもねえお兄さん。あたし、助けてくれなんて一言も言ってないわ」
「ぼくも助けて感謝されようなんて思っちゃいない。あいつらがうるさかっただけだよ、お姉さん」
「お姉さんじゃないから」
真面目に言われても困る。
ぼくだって彼女の弟でもなんでもない。
お兄さんだのお姉さんだのってのは、ただの慣用表現だよ、慣用表現。
「そもそもあんなやつら、もうあたしに関係ないし。第一ねえ、あいつらがむやみやたらに喧嘩売ってくるのだって、単なる嫉妬でしょ。レベル低いんだもの。ちゃんと口で言えばわかるのに、表現する語彙を持っていないのよ。だからわめくしかできないの。ブス」
「だろうねえ、美人さん」
「喧嘩売ってるの?」
「いや別に」
ぼくは彼女の名前を思い出そうと必死になっていたけど、どうしても思い出せない。
何だっけ。
もちろん顔は知っていて、きれいな子だなとは思っていたけど。
どうせこの学校にも長くは居ないと思っていたし、事実そうなったわけだ。
でもまあ、叔父さんがいつだったか言ってたな。
世の中基本的に、きれいな女の人と話をするのは有料だ、そして次というものはあり得ない、とにかく肝臓を鍛えて財布の紐を締めろって。
肝臓だの財布だの、何言ってるんだかさっぱりだった。
大人は大変だな。
じっさい、ぼくは彼女とまた会うことはないだろうし、ちょっとお話できればそれでいいんだ。暇つぶしになるもんな。
ちょっと性格きついけど、別に嫌いじゃない。
猫なで声で金持ちイケメンにこびを売ってるような女の子より、ずっとマシだ。
「まあいいわ。今さらどうしようもないし」
「余計なことをしちゃったかな」
「いえ別に。多少は感謝してるわ。面倒くさいんだもの、あいつら。それより、帰らないの?」
「ぼくがさっき言ったことは本当さ。用事があるからここで待たなきゃいけない」
「ええ、そうでしょうね。だって――」
その時ブザーが鳴って、メッセージを確認すると彼女はスマートフォンをポケットにしまった。
型は古いし、角がすり減っていて傷だらけだ。
まだ使えるんだなあ。
彼女が画面を覗き込むのを見て、ぼくはようやっと名前を思い出した。
桜木さん、ぼくのことを全く怖がってないみたい。
噂を知らないはずないのにね。
もう、それだけで好きになっちゃいそう。
というかすでに好き。
美人だし、スタイル良いし。性格はちょっとキツいけど、そこはご愛敬だ。大した問題じゃない。
クラスメイトとの会話は、これで本当に最後。
いいのか? このままで、本当にいいのか? ぼくは異世界に行く。
この世界に、やっぱり思い出は必要じゃないか?
「またねお兄さん。あたしはもう行くから」
桜木さんは通学鞄を肩に掛け、踵を返した。
「待って桜木さん!」
「何よ」
「好きです! 付き合ってください!」
なんか知らないけど口が勝手に動いて、とんでもないことを言ってしまった。
最後の日に言ってどうするんだよ、もう。
でも仕方がない。
好きになったのは今日だ。
桜木さんは目を見開いて固まっていたけど、鼻で笑った。
「バカじゃないの。世界中であなただけは無いわ。常識的にあり得ないから。さよなら」
ぼくはその場に一人残されてしまった。
「……うん、まあ。言ってみただけだしな」
ワンチャンあるかと思ったけど、そうはいかないか。
世の中そんなに甘くはないんだなあ。
女の子に告白したのなんて初めてだけど、こんなもんなんだろうな。
あの振り方はどうかと思うけど、ぼくもあんまり人のことは言えない。
ちょっと不純だったし。
まあ、最後にちょっとだけ良いことができたと思うから、いいや。
いじめられている女の子を助けたんだもんな。
決して悪い思い出じゃない。
この想い出を胸に、ぼくは強くたくましく生きていくんだ。
じっさい、ちょっと学校生活きつかったんだよなあ。
体育の授業で誰もペア組んでくれないし。
なにが「は~い二人組作って~」だ。バカ教師め。
叔父さんから連絡が来たのは、それから二時間も経ってからのことだった。
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