第7話

 水族館直通のエレベーターの目の前まで来た。どきどきが止まらず目が輝く。遂に来れた喜びとここまで前途多難な道をたどり着いた達成感で胸がいっぱいだった。早く行きたい気持ちを抑えて一歩一歩踏みしめてエレベーターに乗る。今にも溢れ出そうなこのワクワク感は止まることを知らない。エレベーターの不思議な感覚を全身で受け止めて上がっていく。到着したチャイムが鳴るとそこはもう異世界だった。

「やばいよ彩!めっちゃきれい!!」

 青黒く照らされた館内は深海を想起させ、私たちを海中の旅に誘う。魚こそ展示されていないものの、もうすでに楽しんでいる。受付でチケットを見てもらい海の世界へ踏み込んだ。

 初めに出迎えていたのは暖かい海の生物たちだった。様々な色を身にまとって優雅に泳ぐ様はグミが水中を浮いているようだった。暖かさを演出する明るめのライトは土から顔を出すものや壁に張り付いているもの、サンゴ礁なども照らしていた。入口の深海らしさとはかけ離れた夏のような雰囲気が子どものような無邪気さを思い出させた。

「あ、あそこにクマノミいるよ」

「わぁほんとだ!なんかピンク色のクマノミもいるね」

「あれはハナビラクマノミっていうんだよ。かわいいよね」

 一匹一匹目に焼き付けて時々写真を撮る。可愛いものも見たことないような形のものも二人で話しながらじっくり見ていった。

 次の展示は冷たい海の生物たちだった。先ほどとは違いおどおどしい雰囲気で魚がゆっくり泳いでいる。室内と同じようにライトアップされた水槽には灰色や白など落ち着いた色の魚が展示されている。数分前のあの明るさとの差に圧倒される。私はこっちの雰囲気のほうが好きだ。尖ったような、まさに冷たいような空気が私を洗ってくれる。

「あのサメかっこいい。鼻の先が面白い形してるよ。なんか体がサメと言われたら想像するような形じゃない気がする…」

「ほんとだね。ええっとあれはゾウギンザメっていうらしい。あの鼻で砂の中の餌を探すんだって」

「へえ。海の生物って面白い形の子多いね」

 会話からも元気さは消えて、神秘的なものに触れる気分で話していた。ここの魚たちは、美しいと形容するのが最もふさわしい。海のミステリアスな部分に触れているようで楽しかった。カニやダイオウグソクムシなども見ながら海中から上がってきた。

 感想を言いあっていると緑色の世界が広がっていた。淡水の生物の展示がされている。まさに自然といった空間だった。太陽の光に照らされているように植物や生物たちは生き生きしていた。なんだか生物たちだけで暮らしていた世界に踏み入るようで気が引ける。湿った石や泥に小さい生物たちが和気あいあいと棲んでいた。ごつごつとした岩に擬態したハゼも、きれいな水にまっすぐ突き進むソードテールも、力強い生命力を持っていた。

「ねぇ彩、この中に飛ぶ生物とかいるよね?外に出ていっちゃわないのかな?」

「私も思ってた。けど出ていくところ見たことないし、ちゃんと飛び越えられないようになってるんじゃない?」

「不思議だね。けどこうやって直に見えると、より生き物との距離が近づいて嬉しいね」

 禍々しい色のかえるがガラスの箱のなかで跳ねた。湿った皮膚に照明の光がぼんやり反射している。様々なかえるや観賞用に飼われるような魚と触れ合い、とうとう最後のフロアとなった。時が経つのが早すぎて悲しくなってしまう。もっとこんな時間が続けばいいのに、よくある表現だが幸せなこの時間の永遠を密かに願っていた。

 歩くのを拒む足を無理に動かして最後のクラゲの展示にやってきた。そこはもうクラゲの世界。その美しさで私たちを惑わせ、妖美な世界へと惹きつける。紫や青、白のライトで華やかに舞うクラゲは、どこか中毒性を持っていた。オワンクラゲからカブトクラゲ、ハナガサクラゲなどが自由気ままに生きている。その中でもひときわ目立つ、いや、それしか見えないほどの美しい展示を目の前にした。壁一面に咲く、ミズクラゲの花たちだった。王道であり至高のクラゲ。白いライトを跳ね返すほどの気高さ、そして孤高の冷酷さ。もはや言葉は出ない。本当に息を呑んでしまうほどだった。

「すごいね。こんなの私初めてみたよ。クラゲってこんなにきれいだったっけ」

 上から下までくまなく見尽くして、もう目は他のものを見ることを受け入れなかった。数十秒その場に立ち尽くしてやっと意識が戻る。圧倒的な迫力に縛られていた。口を少し動き慣らしてからやっとの思いで声を出す。

「本当。すごいとしか言えないや。じゃあ写真撮る?」

「そうだね」

 カメラには収められないサイズも、魅力も、とりあえず思い出として撮っておいた。

「うわー眩しい!明るすぎるよ…」

「すごい良かったね。ほんと感動しちゃった。もう一周したいくらい」

「じゃあまた今度来よ?次は違うイベントやってる時に!」

 今までにない幸福感が体内に流され、破裂しそうになっていた。近くにカフェがあったのでキャラメルマキアートを2人で頼んで近くのベンチで飲んだ。その後はずっと話していた。笑いすぎて表情筋が痛いくらいに。喉が枯れるくらいに。

 帰るために駅に戻っていると、誰かが私の名前を呼んだ。

「あー!彩ちゃんじゃーん。久しぶりだねぇ」

 この変に高い声と小馬鹿にしたような笑顔。あいつは遠くへ引っ越したんじゃないのか。何故いるのか。幸せな時間から一気に絶望へと変わった。吐きそうだ。呼吸がだんだん荒くなっていく。もう吐く息はないのに肺だけが動いている。

「やっぱ女の子といるんだねぇ。そっちも元気にやってそうで良かったわ。じゃあまた今度。じゃーねー」

 今にも発狂しそうな口を慌てて手で覆ってしゃがみ込む。痙攣が止まらない。なんで、なんであいつが。首を爪で掻き続ける。もう無理だ。いなくなりたい。指にはどんどんと力が入って首の赤みも増していく。

「彩!!何してるの!」

 結宇が私の手を掴み首から離して止めた。結宇の手は私より少し暖かかった。いつもの明るい笑顔ではなく血相を変えた顔で私を見つめる。私はそれに怯んで少し興奮が治まった。

「…もう、早く帰ろっか」

 結宇は悲しそうな顔でそういった。今日は人生で二番目に嫌な日だ。

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