3

 ――逃げる夢を見た。

 空も周りに建っている建物も、全部絵具で塗りつぶしたみたいに真っ黒だった。知らない場所だったけれど、とにかくあちこちを曲がった。

 でも迷路みたいで出口が見えない。振り向こうとするけれど、体が言うことを聞かなくて前しか向けなかった。

 何もいないのに何かに追われている気がして、必死に走るけれど足は浮いているみたいで思うように動かない。

 逃げないと、どこか遠くへ。

 もっと、もっと遠くへ――


 ぼくは目を開けた。

 なんだ、夢か。

 夢と分かるとバクバクしていた心臓が落ち着いて、またすぐに眠くなった。目を閉じてうとうとした。そうしてしばらく気持ちよくなっていたけれど、もう一度目を開けるとそこは知らない部屋だった。

 ぼくは慌てて起き上がった。


 寝ていたのは白いベッドだった。そっと枕の辺りに顔を近づけて嗅ぐと、鼻がすーっとする匂いがした。知らない匂いだと思ったけれど、思い出した。

 あそこにいた人たちの中の、何人かの髪から同じ匂いがしていた。きっと同じシャンプーを使っているんだろう。


 ふと見ると、着ているのはいつもの白い服じゃなくて、上も下も同じネイビーの服に変わっていた。いつの間に着替えたのだろう。

 さらに足を見ると、包帯が丁寧に巻かれていた。

 顔を上げて部屋の中を見てみる。

 ベッドの真反対の壁には時計があって、もうすぐお昼になろうとしていた。

 右の壁際に小さなテレビ、その前に白いラグとその上にローテーブルが置いてあって、テーブルの前には青色のソファがあった。

 他にも茶色い棚が置いてあったけれど、扉も引き出しも閉まっていて中に何が入っているのかは分からない。


 テレビの横にはソファと同じ色のカーテンが付いた窓があった。カーテンは開いていて、灰色の雲で埋まった空が見えた。雨が降る音も聞こえる。

 それ以外には何も無かった。部屋の中にはコーヒーと焼いたパン、それと人の匂いがした。それも近い。誰かいるのだろうか。

 左側の奥にも何かあるみたいだけど、ここからじゃ見えない。

 急に怖くなった。

 どうしよう。逃げないと。

 どこから逃げようか目をキョロキョロさせていると、

「起きたか」

 左側の奥からぬっと男の人が姿を見せた。

 ぼくは後退った。ゴン、と頭と背中が壁に当たる。

「いたっ」

「悪いっ。驚かせた」

 ぼくは頭の後ろをさすりながら男の人を見た。


 男の人はぼくより少し年上くらいで、暗い金色の髪に、両方の耳にはたくさんのピアスをつけていた。あんなにつけて痛くないのだろうか。

 黒色のズボンに、上は目がチカチカするような、明るい赤や黄や緑なんかが入り混じった派手な服を着ていた。

 男の人は近づいてきてぼくの目の前にしゃがんだ。男の人の赤い、夕焼けみたいな色の目がぼくの顔を見つめる。小さい頃に見た、どこかの国にある山と夕焼けが映った写真を思い出した。その写真みたいな、きれいな目だと思った。


 知らない人だったけれど、きれいな目を見ていると不思議と怖くなくなった。男の人がニコニコしているのもあるかもしれない。

「君、名前は? 言えるか?」

「……ロイ」

「ロイか。俺はジン・ロナフォーンだ。ロイ、昨日の夜、この家の近くで倒れてたんだが、覚えてるか?」

 昨日の夜……そうだ、ぼくはあそこから逃げて来たんだ。

 ロイは頷いた。

「そうか。どうして倒れていたんだ? 誰かに襲われたのか?」

「えーっ、と……」

 襲われたわけではない。でも本当のことをこの人、ジンに言っていいのか分からなかった。分からなかったし、言っちゃいけないような気もした。

 どうしていいのか分からず黙っていると、ジンは何回か頷いて立ち上がった。


「話したくないなら、無理に話さなくていい。ロイ、どこか行くところあるか? 家族とか、知り合いは?」

 ぼくは首を横に振った。

 あの場所以外に行くところなんて無いし、あの場所にいた人たち以外に知っている人はいない。

 よくよく考えると、先のことを何も考えずに逃げ出すなんて、すごく馬鹿なことをしたと思った。自分と同じように先のことを考えずに行動して失敗する人の話を読んだことがあったのに。

 俯いて落ち込んでいると、

「大丈夫か?」

 ジンがぼくの顔を覗き込んだ。


「行くところがないなら、しばらくうちにいたらいい」

「うちって、ここはジンの家?」

「そうだ」

 ぼくは窓の外を見た。

「ここは?」

「ここって、家がある場所のことか?」

 頷くと、ジンは窓の前に歩いて行った。

「こっちに来てみろ」

 そう言われたからそっと床に両足をついて、ゆっくり立ち上がってジンと同じように窓の前まで移動した。


 ベッドから見えなかった左側の奥はキッチンになっていて、包丁やまな板、底が黒くなっているフライパンや鍋が置いてあった。

 コーヒーの匂いがさっきより強いけれど、嫌ではなかった。

 ジンの隣に立つ。ジンはぼくとほとんど同じ身長だった。

 彼が窓の外を見る。

「ここは第六ターブシティの中にある地域で、ここに住む人たちは『ダスト・エリア』って呼んでいる」

 第六ターブシティは分かる。

 名前そのまま、このターブ国にあるいくつかの都市の中で、割り振られた番号が六番目の都市だ。百年以上前はヴァプール国という別の国の都市だったというのを歴史の本で読んだ。

 でも、


「ダスト・エリア?」

 つまり、ゴミの地域という意味だろうけれど、その名前は聞いたことがなかった。

「そうだ。ダスト・エリアっていうのは正式な名前じゃなくて、ここに住んでいる奴らが勝手にそう呼んでいる。ここはとにかく汚くて、治安が悪くて危ない場所なんだ」

 ゴミ箱みたいだから、ダスト・エリアということなのだろう。

 改めてダスト・エリアと呼ばれている町を見る。


 町に建っている建物はほとんど黒色か茶色で、雨が降っているのもあるかもしれないけれど、暗く濁っていて金属の錆のようにも見えた。

「窓、開けてもいい?」

 どんな音と匂いがするのか気になった。

「あぁ。雨が降ってるから少しだけな」

 ジンが鍵を開けてくれたので、ゆっくり、少しだけ開けたけどすぐに閉めた。

「どうした?」

「臭い」

 ぼくは鼻を摘まんだ。

 音は雨の音しかしなかったけれど、臭いがひどかった。


 どう言ったらいいのだろう。雨水、排泄物、金属、腐ったもの、もう色んな臭いが混ざってそれが鼻をズドンと刺した。もう少し嗅いでいたら涙が出ていた。

「そうだろ? オレも初めてこの町に来た時はびっくりした」

 ジンは笑いながら言った。

 ジンは平気そうだった。ここにずっといたら慣れるんだろうか。でもしばらくは外に出たくないと思った。


 ゆっくり鼻を摘まんでいた指を離す。もう臭いがしないことを確認してふうと息を吐くと、グーっとお腹が鳴った。

「丁度昼だな」

 ジンが壁を見ると、時計がお昼過ぎを指していた。

「オレもお腹が空いたから、何か買ってくる。一緒に行くか?」

 ぼくは首を横に振った。あの臭いはできるだけ嗅ぎたくない。

「分かった。ロイの分も買ってくる。食べられない物とかあるか?」

「それは無いよ」

 もう一度分かったと言って、ジンはベッドの足元側にあるドアを開けた。

「じゃあ行ってくる」

 ぼくが頷くと、ジンはドアを閉めて部屋を出て行った。


 ふーっと肩の力が抜ける。

 ジンのことはまだ何も知らないけれど、悪い人や怖い人ではないように思った。

 ぼくが自分のことを黙っていても無理に聞こうとしたり怒ったりしなかったし、顔も声もずっと優しかった。

 だから、多分、ここにいれば大丈夫かもしれない。

 ぼくはベッドに戻ると、そこに座って大人しくジンの帰りを待つことにした。

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