#4
夫らを見送ったあと、まりは卓を片付けて、行李から本を取り出した。
夫達はどうせ夕刻まで戻ってこないだろう。ゆっくり本でも読もう。頁を捲ってみたものの、文字が上滑りして頭に入ってこない。先程思い浮かべた天目茶碗のせいだ。
結婚前のまだ十代の娘時代に、まりは御所へ出入りしていた。
とはいえ、本来なら殿上人にお目見えも適わぬ雲の端の仕事をしていただけなのだが、ひょんなことからよく本を読む娘だと宮様の目に留まった。本をお貸しくださり、感想を述べ合った。使者や手紙を介しての交流がほとんどだったが、何度か直接謁見する機会もあった。
「時間があるなら顔を見せよと、宮様からの仰せでございます」
私如きの都合さえ気にして下さるのが、宮様だった。
使者に案内されたのはいつもの謁見の間ではなかった。宮中の長い廊下を奥へ奥へと進んでいく。一番奥の、あとから増設されたような小さな一室に案内された。
「どうぞごゆるりと」
まりを室内に通すと、使者は同席することなく下がっていった。
室内は四畳半の小さな空間だった。宮中にこのような場所があったとは。
狭い一室に几帳さえ立てず宮様が凛とお座りになっていた。
「あの……」
状況がつかめず動揺するまりに、宮様はくすりと笑う。
「こちらへお座りなさい」
「え、いえ、そんな。上座へは宮様がお座りくださいませっ」
床の間の前を示され、辞して入口にそのまま座ろうとしたまりを、宮様は制した。
「茶の湯だよ」
「え?」
「この部屋はね、茶室なのだよ。私が茶を点てる練習に付き合ってくれぬか。私が亭主で、お前が客人だ。もてなされる側が上座へ座るのだよ」
そう言われるままに、まりは示された場所に座った。
これが茶室――。まりはきょろきょろ視線を彷徨わせた。四畳半の空間は塵一つなく掃き清められており、床の間には禅語の軸が掛けられている。ほのかに香を焚いた甘い香りがする。宮様の前の畳は小さく炉が切られ、掛けられた釜からはしゅんしゅんと湯の沸く音がする。
まりが座に付いたのを確認して、宮様は帛紗を出して茶の道具を広げていく。
「茶室は初めてかい」
「はい。茶の湯は男のものでございますから」
最近市井でも茶を愉しむ者が出てきたものの、やはりまだ武人達の
「そんなに緊張せずともよい。茶室へは武人も刀を置いて入る。茶室の中では身分の上下はないのだよ」
宮様はそっと柄杓を手にして釜から湯を汲む。とくとくと茶碗に湯を注ぎ、茶筅を振る。一つひとつの動作が優雅で美しく、畏れ多くもじっと見入ってしまう。
宮様が差し出した茶碗を受取る。
黒地の茶碗には美しい紫陽花が描かれており、薄緑に泡立った抹茶がよく映える。正円形の飲み口から錐型にくびれた薄く繊細な碗は、宮様が扱うのに似つかわしいものだと感じた。そっと両手の内に温かい茶碗を
くっと茶碗を傾けて、茶に口を付ける。
「どうかな」
まりが一口飲んだのを確認して、宮様が尋ねる。
「にがい」
茶を飲んだことさえほとんどないのだ。ましてやこんなに抹茶を使ったものなど。思わず本音が出てしまい、くすと宮様がお笑いになる。
「これは薄茶だが、濃茶の点前だとどろどろになるほど抹茶が濃いのだよ」
「ひょえっ」
変な声が出て、あははと宮様も笑い声を上げる。
「いいよ。飲めなければお残し。無理して飲んで酔ってしまっては困るから」
「酔うんですか」
「さあ」
宮様はにこにこされていて、冗談なのだか本気なのだか分からない。
いずれにせよ宮様にいただいた茶を残すなどもったいないことができるはずもない。まりはずずっと茶を飲み切った。
「武人達よりも良い飲みっぷりだ」
宮様はからからと笑い、まりは頭から湯気でも上りそうだった。
「先日渡した本はもう読んだかい」
「はい! 読みました。とっても面白かったです」
「そうだろう」
しばし、読本の感想に花が咲く。互いに本の話を気兼ねなくできる相手は他にない。
「宮様が茶の湯を嗜まれるとは意外でした」
「ふっ、私も立場上いろいろあるのだ」
「ですが、茶の湯の修練ならば、私なぞより男性をお客に据えた方がよかったのではないでしょうか。私は茶の心得もなく、こんな読本の感想ばかりして」
密室で男達はこれからの日ノ本の在り方について談義しているらしいとは、よく聞く話だ。
「いいんだよ。本来、茶の湯とはこのようなものだ。茶室の中では俗世から離れ、身分に関係なく親交するんだ」
「政治の話など以ての外だと」
「そう。私もそのような茶の湯の考え方は面白く思っている。しかし、男共は適わぬ。結局集まれば政治の話ばかりで、分かっておらぬ。お前の方が茶の湯の心を持っておる」
「女も集まれば同じです。世俗の噂話ばかり」
「けれど、お前は違うだろう」
宮様がじっとまりを見つめる。その視線から逃れたいのに、逸らすことができない。
「金平糖」
「え?」
「まるで雨粒みたいで愛らしいと言っていたろう」
茶の前に出された干菓子をおいしいおいしいと言ってぱくぱく食べてしまったことを思い出して、顔が赤くなる。
「お恥ずかしうございます」
「それでいいのだよ。金平糖を雨粒に見立てたとは、用意させた内膳司も気付かなかった。お前はよい目をしている」
「畏れ入ります」
「目の前のものに心を注ぎ、周囲の自然に思いを馳せる。他に気付いたことはあるかい」
「このお茶碗も美しうございます」
掌中の茶碗を掲げる。
「天目茶碗だよ。お前のために紫陽花の絵柄のものにした」
宮様が優しい声で言う。
つゆの長雨。外では今日もしとしと雨が降っている。雨は嫌いだ。せっかくまとめた髪も湿気でうねってしまう。先程までずっと髪を気にしていたのに、宮様の一言でそんなことは吹き飛んでしまった。紫陽花の別称は「手毬花」だ。かっと顔に血が上る。
「……畏れ入ります」
絞り出すように言うと、宮様は「うん」とだけお応えになられた。
宮様からは新たに、茶の湯に関する本をいくらかお借りしたものの、すべて目を通したがまりにはしっくりこなかった。ただ、栄西禅師の著した『喫茶養生記』の一文だけが心に留まった。
――茶を久しく服すれば羽翼を生ず。
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