105 中堅ノアvs陰鬱の魔術師③

 堪らずノアは孤児院を飛び出した。走って、走って、平民街へつづく坂道を駆け上がる。

 あんまりだと思った。事実だとしても、アッシュとハイジはそれを責めたりからかったりする人ではないと信じていた。

 だって。


――どうして? 力の強さじゃないのだ。隊長に必要なのはここ。心の強さ。


 だって。


――ノア"も"、がんばっだな。


 だってあんなにやさしい声で、表情で、言葉で、認めてくれた。受け入れてくれた。仲間だって!


「あ!?」


 ふいに足がもつれ、ノアは転んだ。ひざを打った痛みが余計にみじめさを呼び、涙がにじむ。

 そこで気づいた。地面が黒い。ハッと顔を上げると、平民街の街並みも人々も消えて、空は夜よりも濃い闇に閉ざされている。

 広いのか狭いのかもわからない真っ暗な空間に、ひとり取り残されていた。


「アッシュさん……? ハイジさん? 姉さん……!」

「ノア……」


 これは姉の声だ。ノアは喜色を浮かべて振り返る。

 しかしシュヴァリエの姿を見たとたん、笑みは凍りついた。ワンピースが元の色がわからないほど汚れ、ボロボロに破れている。その裂け目から、血に濡れた傷とやせ細った肢体があらわになっていた。


「ノ、ア……」


 髪は艶を失い干からびて、唇は荒れひび割れている。なによりいつも微笑みを湛えていた目が、ノアの大好きだった栗色の瞳が、落ちくぼんで、虚ろに淀んでいた。

 子どもの頃から密かに自慢だった、気品あふれる美貌びぼうはもう見る影もない。


「ノア……」

「姉、さん」

「ノア、あなたが悪いのよ」


 自然とあとずさっていた足を止める。いや、動けなかった。まるで幽鬼ゆうきのような姉の姿を見て、すべて思い出した。

 シュヴァリエは〈ヴィサンガ団〉に捕まったこと。オークションで奴隷として売られたこと。それもこれも、クズ屋になりたがったノアのためだったこと。


「あなたさえいなければ、こんなことにはならなかった。私ひとりなら、十分暮らしていけたのよ。無能なくせに、クズ屋なんかになりたいって言い出すバカな弟がいなければ!」

「うっ。姉さ、あが……!」


 ノアは肩を突き飛ばされ、転倒した。シュヴァリエは馬乗りになり、枷のついた両手でためらいなく首を絞めてくる。

 温厚な姉からは、想像もできない力だった。目は血走り、取り憑かれたように恨み言を叫ぶ。


「みんな、みんなっ、お前のせいだ! 私が不幸になったのも! お父さんとお母さんが死んだのも!」


 いつの間にか姉の後ろに、こちらを覗き込むふたつの顔があった。忘れもしない、事故死した父と母だ。

 しかしその眼窩がんかに目玉はなく、底知れない深淵がノアを見ている。


「死ね! 死ね死ね死ね! 死んで侘びなさいよ! 返してよ! お前のせいでめちゃくちゃになった私の人生をっ、返せ!!」


 シュヴァリエに抗っていた手が、誰かに掴まれた。見ればアッシュとハイジが左右にいて、ノアの手を押さえつけてくる。足にも、エデンとステラとアルがまとわりついていた。

 けれどもう、振り払う気力もない。

 仲間に裏切られ、姉に恨まれる生なら、このまま終わってしまいたかった。




「かわいそうに。辛いんだね」


 誰かが髪をいている。コンクリートの天井だけが映る視界に、細い指が見えて、目元をやさしく拭ってくれた。


「ほら。もう泣かなくていいよ」


 頭が割れそうに痛くて、心が重くて、ぐしゃりと潰れてしまいそうだ。

 涙の理由はわからない。もう考えることに疲れた。そばにいるのが誰かなんて、どうでもいい。未来なんて、知らない。

 目覚めてしまった罪悪感に、ただひたすら打ちひしがれる。


「だいじょうぶ。すぐ楽になれるから。これを使いなよ」


 胸の上になにか置かれて、手に掴まされた。

 それは古びた旧聖府軍の剣だった。クズ屋最終試験に合格した日、古物市場でシュヴァリエが買ってくれたものだ。

 今思えばあの時のお金も、無理をしていたのかな。


「姉さん……。ごめんなさい、ごめんなさい、ごめ、なさ……っ」

「しーっ。苦しいね。痛いね。今終わりにしてあげる」


 紫に染まった爪先が、ノアの心臓の上に置かれる。桃色の光が幻惑的にあたりを照らした。

 ノアの頭をひざに乗せ介抱していた者――メランコリは、妖艶に微笑む。


「〈ノワール〉」


 すべてを塗り潰す黒印こくいんが、ノアの胸に刻まれた。

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