106 中堅ノアvs陰鬱の魔術師④

 とたん、ノアは安堵に満たされる。手にした剣が救いに見えた。そうか、これが正解だったのかと、強い衝動に駆られ、剣を首にあてる。


「今いきます。父さん、母さん」

「あは」


 メランコリが思わず愉悦の声をもらしたことにも気づかず、ノアは剣を握る手に力を込めた。

 その時、地下に突風が起こる。


「くっ。なんだ! 邪魔しやが、うあ!?」


 砂混じりの風に耐えられず、メランコリは吹き飛ばされる。ノアもいっしょに押されて、地面を数メートル転がり、とっさに突き立てた剣でやっと止まることができた。


「くそっ。僕はまた魔法にかけられていたのか……!」


 奴隷たちも悲鳴を上げている。しかし不幸中の幸いというべきか、鉄製の鳥かごのお陰で飛ばされずに済んでいた。


「こんな無差別に攻撃するなんてっ、ヴィクトールって人の仕業なのか……!?」


 そこでノアはハタと、鑑定士ラーニャの言葉を思い出す。『緑の魔石が風属性ガストね』彼女はハイジの魔石を見て、確かにそう言っていた。


「これは、ハイジさんの風……?」


 魔法が使えるようになったんだと喜びが湧くと同時に、考えがひるがえる。

 これは攻撃なんかじゃない。いつも冷静な彼が、無意味に周囲を巻き込むとは思えない。


「信頼、ですか。ハイジさん。この強風でも、僕たちならだいじょうぶだって、思ってくれたんですか」


 あるいは、ノアが苦戦することまで見越した、追い風。


「そうだ。ハイジさんは自ら敵を引き受けてくれた。アッシュさんは僕を信じて、背中を預けてくれた。そんなの冗談や上辺だけでできることじゃない。本気だ! ふたりは本気で、僕のことを仲間だと思ってくれている……!」


 ノアはあたりに視線を走らせた。すると後方、鳥かごに掴まったメランコリを見つける。


「最悪。手のひら切ったんですけど」


 男が大した血も出ていない手を見て、顔をしかめているうちに、ノアは剣を放し、ブーツの出力を上げて飛びかかった。

 すぐに風に煽られ、姿勢が崩れるが構わない。ほとんど倒れるようにして、相手の胴にしがみついた。

 押された鳥かごが、けたたましい音を立てる。


「うわっ。来るなよ死に損ない!」


 メランコリに襟を掴まれて、体を入れ替えられる。隣の鳥かごに、今度はノアが押しつけられた。だが、手だけは放さない。

 ふたりは組み合いながら、烈風に流されていく。上を取った瞬間、ノアはメランコリの顔を殴った。メランコリもすぐにやり返してくる。

 防御に回っている間も、ノアは足をめちゃくちゃに動かしたり、相手の鼻に指を突っ込んで魔法を封じたりして、隙を与えなかった。


「ふざ、けるな! 僕の美しい顔に……!」


 とりわけ鼻フックは効いた。メランコリは美意識が高いらしい。顔に触れられるのも、嫌そうな素振りを見せる。


「だったらこれはどうだ!」


 紫髪を束で掴んで、思いきり引っ張る。シュヴァリエの分のお返しだ。根こそぎぶち抜いてやる。


「イダダダッ! なんて野蛮なっ。放せ! やめろ!」


 メランコリの注意が髪へ逸れる。今だ。ノアは瞬時に上を取り返した。

 何本か抜けた髪ごと拳を握り締め、渾身の力で叩き込む。


「姉さんの痛みを思い知れ! この十日間耐えつづけた苦しみと! お前にはずかしめられた悲しみ全部だ! こんなもんじゃない! 姉さんの痛みはこんなっ、う……!」


 突如、ノアの意識が眩んだ。殴打された影響が今になって出たか、体の限界がきてしまったのか。頭が重怠く、胸に不快感がせり上がる。

 それでもなんとかくり出した拳は、まったく力が入らず、相手に不調を知らせただけだった。


「なに。もうへばったかい? ダサ。やっぱりお前は、役立たずのザコだね。ザコはザコらしく、地べたに這いつくばっているがいいよ!」


 動かなくなったノアに、メランコリは拳を見舞った。

 脱力し、無防備になっていたところへの打撃。あまりの衝撃に、ノアの上半身は崩れ折れる。

 とたん、胸にあった不快感が急激に高まった。とっさに口を押さえるも、衝動はすでにノアにも手に負えるものではない。


「うぷ……っ!」

「え?」


 きょとんと目を丸めたメランコリの上で、ノアは胃の中のものをぶちまけた。


「ぎゃあああああいやあああっ!!」


 断末魔に似た悲鳴が、控え区画中に響く。

 ノアは発狂したメランコリに振り払われ、地面に倒れる。だいぶ奥まで飛ばされたお陰で、風は弱まっていた。

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