77 『いってきます』は約束①
消え入りそうな声がした。目を覚ましたステラが、怒ったような堪えるような顔をして、アッシュを見上げる。
寝乱れた髪。その奥にある桃色の目が、ふと揺らめく。ハッと息を詰める。少女の目には涙がにじんでいた。
「ステラ……」
若木のように細く儚い腕が、伸ばされる。アッシュがとっさに受けとめようしたその時、猛然と駆けてくる影が目に入る。
避けられた。止めることもできた。
しかしアッシュは突き飛ばされるままに身を任せ、朽ちた長イスの上に倒れた。木片に埋もれるアッシュに、乗り上げたのはエデンだ。
「ふざけんな! なにが遅くなっただ! 何時間かかってんだよ! どこ行ってたんだ! ひとことくらい言ってから行けばいいだろ! そんな簡単なこともできねえのかよ!? バカッ! バカッ! バカッ!!」
胸倉をわし掴み、固く拳を握り締め、エデンは言葉といっしょに殴りつける。何度も何度も振り下ろされるそれは、か細く震えていた。
まだ未熟な拳が、ひと際高く振りかざされた瞬間、ステラが飛びついて押さえる。
「もういい! もういいよお! アッシュはステラたちのところに帰ってきてくれたんだもん……!」
「よくない!!」
力任せに、エデンはステラを振り払った。転びそうになった少女を、ハイジが受けとめる。
そこでエデンは我に返ったように、自分の手を見た。怒りの中に、複雑な光彩が浮かんでは消えていく。
唇にきつく歯を立てる姿を見て、アッシュはエデンが孤児院に来た経緯を思い出した。
「……よくないんだよ。出かける時は『いってきます』って言うんだ。そんでちゃんと、『いってらっしゃい』って言ってもらわなきゃいけなんだっ。『ただいま』って言えるように……!」
エデンの父親は事故で亡くなった。その日彼は、こっそり家を出た。誕生日プレゼントを買って、息子を驚かせるために。
しかし彼は帰ってこなかった。強風に煽られた建設用の足場に、下敷きにされたのだ。
母親は必死に働いてエデンを育てたが、大病が見つかってまもなく、
「『いってきます』は約束なんだ! 『必ず帰ってくるよ』って! でも『いってらっしゃい』って言ってやんないと中途半端だから、だから俺が言えば、言ってれば……っ、帰ってこられるんだ! どんなに遠くに行っても! 時間がかかっても! 約束があれば……!!」
エデンは震える手でアッシュの服を掴み、強く揺さぶる。その拳を打つ涙は怒りではなく、健気な責任感と家族への深い愛情だ。
「約束があればちゃんと待てるから! 信じて、待ってられるからあ……!」
ステラが泣きじゃくる。母に
「ばか、なのだ。エデンも、ステラも……」
キッチン台は、玄関に一番近い場所だ。半分壊れた扉から、外がよく見える位置でもある。
ずっとそこで待っていたのか。硬くて冷たい床で、過去の痛みと不安に、押し潰されそうになりながら。
(こんなに愛しい子を放って、行くところなんかない)
アッシュはエデンのやわらかい髪に手を差し入れ、そっと胸に引き寄せた。ほんの少しだけ力を込め、抱き締める。
「ただいま」
「え……」
「いってきますは言えなくてごめんなのだ。でもずっと、エデンたちのこと思ってた。だからお土産拾い過ぎちゃったのだ」
「お土産なんて、いい……」
「うん」
物よりも大切なものを、この子は知っている。
微笑みを浮かべ、アッシュはエデンの額に額を重ねた。伝わるぬくもりに、人が帰ってくる本当の意味を知る。
そこが家だからじゃない。そこに大切な人がいるからだ。
「ねえエデン。私はちゃんと帰ってきたのだ。だから、あれを言って」
エデンは不思議そうに目を瞬かせていたが、やがて表情をパッと明るくする。
「おかえり!」
「ただいま」
少年の笑顔でアッシュは、長い夜が明けたことを感じた。
抱き締めたまま起き上がると、エデンはすっかりいつもの調子に戻って、
「なあ、もういいだろ。それよりお土産!」
「んー? お土産はいいって、かわいいこと言ってたのは誰なのだ? イデッ」
「このリュックだろ! 早く見せろ!」
目敏くリュックに気づき、エデンはぐいぐい引っ張ってくる。アッシュはまるで餓えた猛獣から逃れる思いで、荷物を捨ててその場から離れた。
するとステラもアルも、競ってリュックに群がる。
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