第40話 祝福の口づけ

 涼子はそっと立ち上がり、着ていたブラウスのボタンを外し始めた――


「りょ、涼子さん、待って!」

「待ちません」


 ブラウスを脱ぎ、スカートを落とした涼子は、下着姿で畳の上に寝そべった。


「真一さんに御礼をしたいのですが、私にはこの身体しかありません。こんなくたびれた身体で申し訳ないのですが、好きにしていただいて構いません」


 そう言うと、涼子は脱ぎ捨てたブラウスを自分の顔の上に掛けた。真一に自分の顔を見られないようにするためだ。

 真一は知っている。涼子が婚姻期間中に、元夫である敦から虐待とも言える仕打ちを受けていたことを。涼子の意思は完全に無視され、強引に寝室へ連れていかれ、不細工な顔を見せるなと顔を隠され、侮蔑の言葉を吐かれながら無理やり犯されていたのだ。それは夫婦間におけるレイプと言えるものでもある。どれだけ怖かったか、どれだけ悔しかったか、どれだけ痛かったか。涼子の負った心の傷の深さとその気持ちを思うと、真一が胸が激しく痛んだ。

 顔の上のブラウスをそっと取り除く真一。


「えっ?」


 驚く涼子に、真一は座布団を折りたたんだ即席の枕を作り、それを渡した。きょとんとする涼子の隣に、同じく即席の枕を作って横になった真一。涼子の目の前に真一の顔がある。


「あの……やっぱり、私が相手では――」

「涼子さんとそういうことをしたくないわけじゃないんだ。でも、その前に確認しておきたくて……凄くデリケートなことなんだけど……」


 申し訳無さそうな真一に、涼子は微笑み返した。


「はい、真一さんに悪意がないのは分かっていますので」

「じゃあ……身体の方は大丈夫?」

「身体?」

「ご病気されて、こういう行為を準備もなしにするのって、辛くないかなって心配で……」

「…………」


 涼子の顔から微笑みが消えた。


「涼子さん、本当は辛いんですね?」

「…………」

「本当は、ずっと痛いのを我慢されてたんじゃありませんか?」


 誰にも相談できなかった苦しみを、身体を重ねたことのない真一が察してくれたのだ。喜びと恥ずかしさが入り混じった複雑な感情が胸にうずまく。涼子は歯を食いしばり、枕にしていた座布団を涙で濡らした。

 手術後、元夫の敦は涼子をまったく気遣わなかった。本来であれば、お互いに夜の生活を幸せなものにするためにきちんと話し合い、身体の調子を確認しながら、涼子に負担や我慢を強いることのないように準備を整えるべきなのだ。しかし、涼子自身も自責思考に囚われていたために相談ができず、おそらく敦も聞く耳は持たなかっただろう。逆に、涼子へさらなる罰を与えることができるとほくそ笑んだかもしれない。涼子にとって敦との行為は、身体を無理やり引き裂かれるような、そんな激しい性交痛に我慢し続ける拷問のような時間だった。

 そんな涼子を安心させようと微笑む真一。


「涼子さん、泣かないで。オレ、涼子さんに辛い思いさせてまでしようとは思っていないです。でも――」

「あっ……」

「――抱き締めるだけならいいですよね」


 涼子を抱き寄せた真一。真一の胸元に涼子の頭が吸い込まれる。涼子が見上げると、優しい微笑みをたたえた真一の顔がゆっくり自分に近づいてきた。が、涼子にあの夜に言われた言葉が蘇る。


『お前のその不細工なツラを見せるんじゃねぇ!』


 思わず顔を背ける涼子。


「あっ……涼子さん、ごめんね。ちょっといきなりだったよね」

「違うんです! 違うんです……私……不細工なのは自分でも分かってるので……真一さん、優しいから……無理しないでいいですよ」


 自分を卑下する言葉を吐く涼子。長い間、尊厳を踏みにじられ続けた涼子は、自分の価値を完全に見失っていた。寂しげに微笑む涼子の姿を見て、真一はただただ悔しかった。なぜ彼女がこんな思いをしなければいけないのかと。


「涼子さん」

「はい……むぐっ!」


 ふと真一に顔を向けた涼子。真一はそのまま強引に唇を奪った。

 唇を離した真一は、驚いている涼子に語りかける。


「涼子さんはとても魅力的な女性です。今まで出会ってきた方々は、相当見る目が無かったのでしょうね」

「わ、私は目も、鼻も、口も小さくて……」

「はい、とってもお目々が可愛いですよね」

「可愛い? 私が……?」

「涼子さん、笑ってごらん」


 気が抜けてしまい、微笑みを浮かばせた涼子。


「ほら、やっぱり。涼子さん、とても可愛くて、とっても綺麗ですよ」


 涼子は微笑みながらも、涙が止まらない。


「真一さん」

「ん?」

「もう一度……もう一度、私に口づけしてくれますか……?」

「うーん……」


 悩む様子を見せる真一。

 涼子は「あぁ、やっぱり」と寂しげな表情を浮かべた。


 しかし――


「……一度だけじゃ嫌です」


 ――ぱぁっと喜びを溢れさせる涼子。ふたりは、もう一度ゆっくりと唇を重ねた。お互いを抱き締め合う力が強くなっていく。その唇は離れない。


『祝福の口づけ』


 涼子はこれまで感じたことのない、まるで天国へ昇るような幸せを感じていた。それは、この場限りの仮初かりそめの愛なのかもしれない。それでも涼子は良かった。自分が信頼を寄せる、そして想いを寄せ始めていた真一がこんな自分を求めてくれたのだ。


(もう……思い残すことなんてない……)


 沙織と美咲が買い物から帰ってくる直前まで、ふたりはただ抱き締め合いながら、お互いの唇を激しく求め合っていた。






----------------



<次回予告>


 第41話 四人目の家族



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