第39話 踏み躙られた尊厳

 真一と美咲が沙織の家に暮らし始めた初日、思わぬ訪問者があった。亜希子の不倫相手だった敦の元妻である涼子が沙織の家を訪れたのだ。沙織も真一も大歓迎で涼子を迎え入れた。

 居間に通された涼子。


「まぁ、可愛い娘さん! 確か美咲さんでしたよね。はじめまして、涼子と申します」


 突然の父親と同年代の女性の訪問に驚く美咲。


「は、はい。美咲と申します……って、どなた?」


 沙織の隣で、真一と美咲の正面に座った涼子。美咲の問いの答えに窮するのを見て、真一が助け舟を出した。


「今回の件で仲良くなったお父さんのお友だちだ」

「あっ……そういうこと……娘の美咲と申します。改めまして、よろしくお願いいたします」


 聡い美咲は、真一の一言で涼子がどういう女性かを理解した。


「美咲さんは可愛いし、とってもしっかりされているし、真一さんの自慢の娘さんですね」

「ありがとうございます。でも、もう生意気で……」


 苦笑いを浮かべる真一をジロリと睨む美咲。


「お・と・う・さ・ん!」

「ほら、こうやって父親をいじめるんですよ」


 四人の笑い声が居間から溢れる。


「真一さん、今回の件では本当にお世話になりました」

「いえ、涼子さんもお疲れ様でした」

「ずっと泣いていた私を『最後まで頑張りましょう』、『辛い時は頼ってください』って励ましてくれて、経済的な支援までしていただいて、真一さんには本当に感謝しております」

「真一くんは涼子さんをずっと支援していたのね」

「支援なんて大げさですけど、こまめに連絡を取り合っていました」


 涼子は嬉しそうに話し始めた。


「真一さんって、本当に凄いんです! 私が辛くて、苦しくて、誰か助けて……って心が折れそうになると、必ず真一さんから連絡が来るんです。『涼子さん、大丈夫ですか?』って。心配だからと、私のところに飛んできてくれたこともありました。本当に心強かったです。真一さんがいなければ、私絶対に戦えませんでした」


 嬉しそうに語る涼子をニコニコ顔で見つめる沙織。


「ふふふっ。涼子さん、真一くんのことを本当に嬉しそうに語るわね」

「えっ!? いえ、そういう――」


 美咲もニマニマしながら涼子を見ている。


「『真一さんって、本当に凄いんです!』だってさ。良かったね、お父さん。むふふふ」

「み、美咲さん! あの、そんなつもりでは――」

「涼子さーん、顔真っ赤だよー」

「あの、その……」

「お父さん、今ならフリーだよ! 涼子さん、チャーンス!」

「こら、美咲! 大人をからかうんじゃない!」


 一連のやり取りで、涼子の顔は真っ赤だ。沙織も美咲もそれを嬉しそうに見ている。真一は慌てて話題を変えようとした。


「ところで涼子さん、今日はどうされたんですか?」

「はい、今日からこちらで暮らすと真一さんから伺って、せっかくご住所を教えていただいたので、ご挨拶をと思いまして」

「そうだったんですか、わざわざありがとうございます。オレはあの日以降、美咲とマンスリーマンションで暮らしていたのですが、涼子さんはご実家で過ごされていたのですか?」


 笑顔を浮かべてくれると思っていた真一は、少し辛そうに苦笑いを浮かべた涼子に驚く。


「あの……家を追い出されまして……」

「はぁっ?」


 涼子の言葉で、さらに驚いた真一。傷心の娘を追い出すということが理解できない。沙織と美咲もお互いに顔を見合わせあっている。


「だって、あの日、実家に帰ってこいって言われてましたよね?」

「私ももう三十半ばを過ぎていい歳ですし、もう嫁には行けないだろうから、出て行けと……」

「えっ、何ですか、それ。意味が分からない……」


 苦笑いすらできず、辛そうな涼子。


「孫の顔を見せることができないお前とは距離を置きたい、と……しばらく一緒にいて、そんな考えに至ったようです」


 真一たち三人は絶句する。実の親が傷心の娘にかける言葉だろうか。

 真一は、涼子が元夫の敦から受けていた仕打ちを聞いている。長い間、女性としての尊厳を踏みにじられ続け、ようやくそれから逃れられたと思ったら、実の親からも尊厳を踏みにじられる。あまりにも救いのない涼子に、掛ける言葉が見つからなかった。


「……涼子さん、これからどうされるんですか?」

「はい、実家にいる間に仕事を見つけました。従業員寮がある会社ですので、そこでお世話になろうと思います」

「そうですか……」


 シンとする居間。沈黙に耐え切れなくなった美咲が、パンッと手を叩いた。


「ねぇ! 逆に言えば、涼子さんを悪く言うひとはもういなくなったってことよね! 涼子さんの未来は明るい! その門出を祝いましょうよ!」


 ふふんと胸を張る美咲。それを見た涼子も、思わず吹き出してしまう。


「美咲ちゃんの言う通りだわ。私たちも新しい道を歩み始めたんだし、ご馳走でも作りましょうか?」

「おばあちゃん、ナイス提案! 賛成!」


 美咲は元気に手を上げた。


「涼子さん、今日はゆっくりできますか?」

「はい、真一さん。ご相伴しょうばんに預かってよろしいでしょうか」

「もちろんですよ!」


 満面の笑みを浮かべる真一。


「じゃあ、買い物に行ってこようかしら。美咲ちゃん、付き合ってくれる?」

「はーい!」

「あ、だったら私も――」

「涼子さんは真一くんと留守番しててくださいな」

「そうそう! お父さんと仲を深めておいて!」

「こら、美咲! 何言ってるんだ!」

「真一くん、ゆーっくりと買い物してくるからね。夕方までには帰るから」

「涼子さん、お父さんをゲットするチャンス! 涼子さんは真面目そうだから娘としても大賛成! お父さん、しっかりね!」

「美咲! いい加減にしなさい! 沙織さんまで!」


 沙織と美咲は、ふたりで笑いながら買い物へと出掛けていった。

 残されたのは、真一と涼子のふたり。

 会話もなくシンとする居間。家の前を車が通り過ぎていった音が聞こえた。


「あの……涼子さん、すみません。ウチの娘が変なこと言って」

「いいえ……」

「美咲、何だか浮かれてるみたいで……気にしないでくださいね」

「…………」


 返答のない涼子。


「涼子さん?」

「……気にしても……いいですか?」


 涼子はそっと立ち上がり、着ていたブラウスのボタンを外し始めた――






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<次回予告>


 第40話 祝福の口づけ



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