第37話 人生の斜陽

 昼過ぎ、駅前の雑居ビルの前に停められた黒い高級外車。運転手がひとり待機しているようだ。

 その雑居ビル入口のガラス扉脇に掲げられた入居会社の案内の中に『4F ヨコヤマファイナンス』の文字があった。


 四階 ヨコヤマファイナンスの応接スペース――


 ガラスのローテーブルを挟んで置かれたソファに三人の男が座っている。奥側には黒髪長髪の若い男性、手前側には茶髪短髪の敦と、黒髪七三の佐久間が座っている。テーブルの上には書面が何枚が置かれ、敦がそれに署名をしていた。


「松永さん、こちらの書類のここにも署名をお願いします」

「はい……」


 にこやかな長髪の男の指示に従い、書面にサインしていく敦。もう躊躇することはなかった。


「はい、OKです。ご苦労さまでした。佐久間さん、お金の方は……」

「伝えておいた口座に送金してくれ。色々悪いな」

「いえいえ、とんでもないです。いつでもお気兼ねなくご命令ください」


 不倫の慰謝料として、貯金分を相殺した四千万円という多額の借金を抱えることになった敦。諦めの境地に達してしまい、目の前のことをただ処理していくだけになっていた。


「慰謝料の支払いは、これで全部完了。言っておくが、金利は法で定められた範囲内だからな。トイチ(十日で一割かつ複利という違法な超高金利)みてぇなあこぎなことはしねぇから、そこは安心しろ」


 佐久間の言葉にホッとする敦。


「次は、この借金をどう返済していくかだが、お前に返済手段を提供してやる。来い」


 ソファから立ち上がった佐久間に、敦はついていこうとする。


「松永さん」


 長髪の男性に呼び止められた敦が振り返ると――


「ご利用ありがとうございました」


 ――満面の笑みでそう言われた。

 乾いた笑いを浮かべてオフィスを出ていった敦。

 長髪の男は、満面の笑みのまま呟いた。


「また会えるといいですね」



 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇



 夕方、高速道路をひた走ってきた黒い高級外車。高速を降りると、潮の香りが漂う港町へと入っていった。かなり大きな船も停泊していることから規模の大きな漁港だと思われる。


(あぁ、漫画や小説でよくある漁船に乗せられて、ってヤツか……)


 想像通りの展開に、もう笑うしかない敦。目の前に停泊している漁船も、敦が知っている釣り船とは比較にならない大きさで、小型のフェリーレベル。いわゆる遠洋漁業の船舶だ。その船からは外国語が聞こえてきた。船員に外国人が多いのだろう。

 車のそばで待つ敦と佐久間に近づいてくるふたりの男。ひとりはがっしりした体系のいかにも漁師な色黒の男。もうひとりは、優しげに微笑んでいる外国人で、東南アジア出身のひとだろうか。


「やぁ、佐久間さん」

「よぉ、船長。手間かけるな」

「いやいや、キツい仕事だから人手不足で困っていたんですよ」

「コイツなんだが、役に立ちそうか?」


 船長と呼ばれていた色黒の男が、敦を品定めするように見ている。


「まぁ、大丈夫でしょう」

「そうか、良かった。おい」

「は、はい!」


 佐久間の鋭い視線にビビる敦。


「しっかり稼いでこいよ。船長の言うことはしっかり聞くようにな」

「はい。頑張ってきます……」


 それを見た船長は、笑顔で敦の肩をポンポンと叩いた。


「じゃあ、先に船に乗っててくれ。おい、案内してやってくれるか」

「イエス、ボス。アナタ、イッショ、クル」


 片言の日本語で一緒に来るように敦へ促す外国人の船員。敦は漁港をグルっと見渡し、日本から離れるのを惜しむようにゆっくりと船へと向かっていく。


(何年かかっても、借金をきちんと返済して、もう一度人生をやり直すんだ。そして、もう一度涼子を迎えに行くんだ。きっと涼子なら笑顔で迎えてくれるはず。だから、もう一度、もう一度……)


「――なんて思ってんだろうな」


 敦の背中を見つめる佐久間は呟いた。


「佐久間さん、絶望っていうのは希望があった方がより深くなるものですぜ」


 いやらしい笑みを浮かべた船長。


「ウチの船は若い船員が多いんでね、どうしてもんですよ。吐き出すがあればやる気につながりますし、当然漁の方でも働いてもらいますけどね」

「保険の方も加入させてあるから」

「はい、分かっております。いつも通りきます。操業中に事故はつきもの。もちろん、浮き輪は放ってやりますよ」

「救助はしないんだろ」


 佐久間はフッと笑った。

 船長は続ける。


「視界のすべてが水平線。周囲に水しかないのに飲めない。眠ることだってできない。浮き輪でプカプカ浮かびながら、果たして何日もつのやら……」

「壮大な水遊びだな」

「佐久間さんに喧嘩売ったことを心底後悔するでしょうね。地獄だってそこまでじゃないですぜ」

「まぁ、の具合が良ければ、そのまま使い続けても構わねぇ。飽きたら捨てろ。最終的に保険金が入れば問題ねぇ。ただし、二度と日本の地を踏ませるな」

「はい、承知いたしました」


 笑顔で頷く船長。

 佐久間が乗り込んだ黒い高級外車は、敦を見送ることなく漁港から走り去っていった。


 夕暮れ空の下、太陽がゆっくりと水平線の向こうへ沈んでいく。それは、微かな希望を胸に乗船した敦の運命を暗示しているようだった。


 その後、敦の行方は知れず、少なくとも涼子や亜希子が敦と再会することは二度となかった。



 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇



 その頃、亜希子と敦に『幸せの形』を壊された真一と美咲、そして沙織は――






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<次回予告>


 新章『第八章 家族』


 第38話 新たな出発



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