第35話 罪と罰
ガチャリ
亜希子は玄関の扉を開け、家の中に足を一歩踏み入れた。が、そこで身体がまた動かなくなる。家には、元夫の真一と娘の美咲が待っており、特に美咲は憎悪のこもった目で亜希子を睨みつけていた。
「よく平気な顔してここに来れるわよね」
美咲の言葉にうなだれる亜希子。
「お父さんが必死の思いで買ってくれたこの家を! お父さんが暖かな思いで築き上げてきた家族の幸せを! 全部アンタがめちゃくちゃにしたんだ! そんなに
声を震わせながら叫ぶ美咲。うなだれる亜希子の頬に涙が伝う。
「美咲、もうよしなさい」
「私、今ここであの女を殺したい!」
「美咲!」
真一に
「亜希子、必要なものは忘れずに全部持っていきなさい。残っていたものは全部捨てるから」
「えっ、全部……?」
「あぁ、全部だ。何に使われたか分からないものを使えない。だから、残っていたものは全部捨てる。家具、電化製品、もちろん寝具も。全部だ」
美咲のベッドでも行為に及んだことを思い出す亜希子。そのあまりに救いのない愚行に、もうただ後悔しかない。
「さぁ、時間が勿体無いから、荷物をまとめてくれ」
真一に促され、亜希子は無言で家に上がり、そのままクローゼットのある二階の寝室へとゆっくり向かっていった。
寝室に入り、衣服を取り出して畳んでいく亜希子。
『そんなに
『お父さんを裏切ってまで気持ち良くなりたかったのか!』
実の娘から言われた痛烈な言葉が、亜希子の頭の中をグルグル回っている。
冷静になって敦との行為を思い返した。亜希子は敦とのセックスに性的な快感を得たことはなかった。ただ乱暴で激しいだけの交わりは、時に痛みさえ感じるほどで、毎回達するふりをしていたのだ。
それでも亜希子が敦に溺れていったのは、自分をがむしゃらに求め、ひたすら愛してくれる敦の姿勢だった。乱暴なのは自分を求めてくれているから。激しいのは自分を愛してくれているから。だから自分も敦に愛を返したいと運転中の車の中で奉仕し、敦が望むプレイを行い、敦が望む卑猥なポーズを取り、写真撮影や性行為の動画の録画にも応え、子どもさえ作ろうとした。亜希子は、敦とのセックスで性的な快感を得たかったわけではなく、セックスを通じて精神的な充足を貪欲に求めていたのだ。
そこで亜希子はハッとする。亜希子は気付いた。今の状況が、男に
そんな自分の浅はかな行動によって辿り着いた先も――
『公衆便所』
――同じだった。
心の奥底から情けなさが滲み出てくるのと同時に、瞳から涙が滲み出てくる。寝室のベッドの上に散らばった衣服を前に、亜希子は静かにすすり泣いた。
荷物をまとめたバッグを手に一階に降りると、玄関には母親の沙織が、そして来た時と同じように真一と美咲が待っていた。
「忘れ物はないかい?」
「はい……」
真一の気遣いに、亜希子は小さく答えてスニーカーを履いた。
真一と美咲に向き合った亜希子は、頭を深く下げる。
「お世話になりました……」
その言葉を紡ぐのが精一杯だった。
顔を上げると、真一が亜希子を見つめていた。
「亜希子……」
「はい……」
数十秒、短くも長い長い沈黙。
ゆっくりと真一が口を開いた。
「……君を、幸せに、するという、約束が、守れず……申し訳なかった」
声を震わせながら元妻へ贈った最後の言葉。それは謝罪だった。
酷い裏切り方をした亜希子は憎い。それでも真一は最後に亜希子へ伝えたかったのだ。『君を心から愛していた』と。
真一はその場で膝から崩れ落ち、身体を震わせた。
「お父さん!」
真一に寄り添い、優しく抱きついた美咲。
ドクンッ
亜希子の鼓動が強くなり、過去の出来事が次々と脳裏に浮かんでいく。まるで走馬灯のように。
ドクンッ
『あれ? 長田(亜希子)さん、お疲れ様です。休憩ですか?』
ドクンッ
そう、あの時、『公衆便所』と呼ばれていた亜希子を庇い、亜希子を選んだのが真一だ。真一は亜希子の過去を知っても、それをすべて受け入れて手を差し伸べてくれたのだ。
ドクンッ ドクンッ
『きっとふたりを幸せにしてみせます』
ドクンッ ドクンッ
そう、あの時、真一は亜希子に約束してくれた。自分を、そして家族を幸せにすることを。そして、真一はその約束を果たすべく、亜希子を愛し、美咲を愛し続けてきてくれたのだ。
ドクンッ ドクンッ ドクンッ
『じゃあ、皆さん笑顔で! 撮りまーす。ハイ、チーズ』
ドクンッ ドクンッ ドクンッ
そう、あの時、この家を買った時だ。そこには誰もが
ドクンッ ドクンッ ドクンッ ドクンッ
亜希子は自らに問う。
それは一体どこにいったの?
ドクンッ ドクンッ ドクンッ ドクンッ
亜希子は自らに問う。
目の前の光景は何? どうしてこうなったの?
ドックン
亜希子は答えを導き出した。
ドックン
不倫は、秘密裏に自分自身を満足させる行為だと思っていた。
ドックン
違う。
ドックン
バレなければ何もしていないのと同じことだと思っていた。
ドックン
違う。
ドックン
不倫は――
ドックン
――家族に一生消えない傷を負わす苛烈な暴力だ。
パチンッ
自分のやってきたことに気付いた亜希子の頭の中で、何かが弾けた。
「いやあぁぁぁっ! ゴメンナサイ! ゴメンナサイ!」
膝から崩れ落ちた亜希子が泣き叫ぶ。
「あなたぁ! 美咲ぃ! 許してぇ! 許してぇ!」
真一と美咲に腕を伸ばす亜希子。
しかし、沙織に襟首を掴まれて引き戻される。
「やだぁー! ゴメンナサイ! 許してぇ! 真一ぃ! 美咲ぃ!」
亜希子は、大粒の涙をぼろぼろと零しながら絶叫し続けた。
真一と美咲に触れようと往生際悪くジタバタと暴れるが、沙織がそれを許さない。
亜希子は、ようやく自分の本当の罪の重さに気付いたのだ。
心から溢れ出る罪悪感と後悔に、泣き叫びながら謝罪の言葉を口にし、許しを請う亜希子。彼女にはもうそれしかできない。それは、あまりにも遅い気付きだった。
「亜希子! 立ちなさい!」
「いやぁ! ゴメンナサイ! ゴメンナサイ!」
「今さら謝っても遅い! 来なさい!」
「いやぁー!」
沙織に引きずられるように家の外に連れ出される亜希子。
涙に滲む真一と美咲の姿が玄関でゆっくりと遮られていく。
ガチャン
「……! …………! ……! ………………!」
家の中では、玄関の扉の向こうから許しを乞いながら泣き叫ぶ亜希子の声が聞こえる。
ガチャ バンッ ブオン ブオオオォォォォ……
小さくなっていく車のエンジン音。亜希子は、沙織の車に乗せられて去っていったようだ。
玄関では、床にうずくまりながら、身体を震わせて小さく嗚咽を漏らす真一を、美咲が優しく抱き締めていた。
こうして、この家にあった『幸せの形』は、永遠に失われた。
絶望の闇に飲み込まれる真一と、そんな父親に寄り添う美咲。
しかし、ひとは幸せを追求することが生きる大きな目的でもある。
この日、新しい『幸せの形』を求める真一たちの新しい人生が始まったのだ。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
一方、亜希子とともに真一たちの『幸せの形』を壊した敦は――
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<次回予告>
第36話 王国の崩壊
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