第七章 後悔

第34話 臍を噛む

 どうしてこうなったんだろう――


 母親である沙織が運転する淡いメタリックブルーの軽自動車が郊外の住宅地を走っている。助手席には亜希子の姿があった。亜希子は、車窓に流れる景色を無表情に眺めている。


 三日前、自身の不倫による制裁を真一から受けた亜希子。自分が得られると思っていた慰謝料や養育費は、逆に自分が払うことに。さらに家と土地を譲渡してもらえることになったものの、残った住宅ローンも請け負うことになった。家と土地を売却しても残った住宅ローンはすべて賄うことができず、亜希子が負った慰謝料と負債の総額は五百万円近くにのぼった。加えて毎月の養育費の支払いもあるのだ。

 その後、家と土地の売却手続きは真一が行い、住宅ローンについても一旦真一が全額肩代わりすることになった。涼子への慰謝料も、現状では支払いの見通しが立てられない状況だったため、これも真一が肩代わりした。これら真一への多額の負債と美咲への養育費については、亜希子が収入を得られるようになってから毎月分割で返済・支払いを行うことに決まる。すべて真一の仏心によるものであるが、亜希子はそれを正しく理解できていない。


 実家に一旦引き取られた亜希子。その後、沙織からは何の言葉もなく、一切接してこない。亜希子は布団の中でただひらすらに『どうしてこうなったんだろう』という言葉を繰り返し呟いていた。まだ現実を受け入れられないのだ。


「亜希子。明日の朝、荷物を取りに行くわ。いいわね」


 沙織から言われた一言。そして今朝、着替えた後に車へ乗せられた。向かう先は、自宅だった場所だ。


 亜希子も沙織も一言も発しない車内。車は少し開けた大きなターミナル駅に差し掛かった。車窓に駅前の高級ホテルが映る。


(ここから始まったんだ……)


 パート先の店長だった敦に、この高級ホテルのレストランで愛の告白を受け、一度だけという約束で身体を交えた。「好きだ」「愛してる」なんて心を震わせた言葉も、今となっては空虚な言葉だ。あれが真実の愛だと思っていた。でも、全部嘘だったのだ。断罪の日、敦に言われた『公衆便所』という蔑みの言葉が心をいまだに握り潰している。


 車は国道に出て、一路自宅だった場所のある住宅地へと向かう。

 途中、派手なお城のような古ぼけた建物と、掲げられた看板が目に入った。


『ご休憩 3,000円〜/ご宿泊 5,000円〜』

『フリータイム12H 4,000円〜』


 敦とスーパーの社用車で頻繁に通った安ラブホテル。今時見かけないお城のような建物は老朽化が進んでいた。部屋だって設備が整っていたわけではない。それでも敦とここに向かう時は、秘密のお城へ王子様がエスコートしてくれて、白馬の馬車に揺られているお姫様なのだと自分自身を想像していた。冷静に見てみれば、こんな小汚い安いラブホテルで獣のように交わっていたのだ。動画や写真を撮影したのもここだった。敦の言われるままに卑猥なポーズを取り、そして交わっている姿を撮影した。以前はその画像や映像を見てうっとりしていたが、それを今見ると、それはまさに『公衆便所』と呼ばれるに相応ふさわしい姿だと感じた。


 やがて、車は住宅地へと入っていく。自宅だった場所は近い。

 そして、県営自然公園の脇を通過していく。


 ここの駐車場で敦と何度もした。車の中で愛し合うという異常なシチュエーションに興奮して、一度体験してからは自分から誘うこともあった。別に誰に見られてもいい。逆に、この真実の愛を他人に見せつけてやりたい。この時、亜希子は本気でそう思っていた。完全に不倫に狂っていたのだ。しかし、自分は公園の汚い『公衆便所』だったんだと、後悔の波に飲み込まれた亜希子は、車窓から目を逸らし、そのままうなだれた。


 沙織は、一軒の家の前で運転していた軽自動車を停める。亜希子が住んでいた家だ。しかし、亜希子は中々車を降りることができなかった。自分と敦がけがして、すべてを台無しにした家を前に、心の奥底からじわりと湧いてくる罪悪感によって身体が動かない。


「家の中では真一くんと美咲ちゃんが亜希子を見張ってるから。余計なことをしないで、荷物をまとめてすぐに出てきなさい。ふたりには必要以上の接触はしないで」


 まだ身体が動かない亜希子。膝の上で握っている拳、その力が強くなっていき、嫌な汗が背中を伝った。


「さっさと行ってきなさい!」


 沙織の一喝で身体をビクッと震わせた亜希子。


 ガチャッ


 大きな旅行用バッグを持って車を降りた亜希子は、かつて自宅だった家の玄関先までゆっくりと進み、扉の取っ手を手にした。






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<次回予告>


 第35話 罪と罰



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