第33話 制裁の果てに

 慰謝料の総額が五千万円を超えた敦。法外な金額を請求してきた佐久間は反社組織の人間であり、そこに異論を挟むことはできなかった。

 ローテーブルに五枚の示談書をが並んでいる。


「松永さん、先程と同じようにすべての示談書に署名をお願いします」


 真一に渡されたボールペンで署名していく敦。

 しかし、最後の一枚で手が止まる。三千万円の慰謝料を示談金とする佐久間の示談書だ。ボールペンを持った右手の震えが止まらない。それは周囲にいる真一や涼子、沙織、五人の夫から見ても哀れなほどだ。


「松永さんが署名しなければ、この場は解散できませんよ」


 暗に『早くサインしろ』と促す無慈悲な佐藤の言葉。全員が見守る中、敦は手を震わせながらも示談書、そして委任状に署名を果たした。

 すぐに書面を回収する五人の敦の不倫相手の夫たち。


「皆さんも担当の先生によろしくお伝えください。公正証書にするための準備を進めていると思いますので」


 五人の夫たちは険しい顔付きながらも、どこかホッとしたように弁護士の佐藤の言葉に頷いた。おそらく佐藤は、涼子や夫たちの弁護士にも調整済みなのだろう。


「それでは、私はこれで失礼いたします」


 佐藤は真一と涼子、そして夫たちに微笑み、そのまま真一の家を後にしていった。それに続き、五人の夫たちが家を後にしていく。立ち上がって深く頭を下げる真一に、佐久間はポンポンっと背中を叩き、軽く手を上げて去っていった。


 そして、涼子が立ち上がる。


「涼子さん、オレお送りしますよ」


 優しい微笑みを浮かべ、首を左右に振る涼子。


「真一さん、本当にありがとうございました。私は一旦実家に帰ります」


 真一も笑顔で頷き、涼子を送り出そうとした。が――


「涼子、待ってくれ!」


 悲壮な表情で涼子に懇願する敦。


「今まですまなかった! 俺が愛してるのは涼子だけなんだ! これまでの浮気も、こんな女も、ただの遊びなんだ! 俺は目が覚めた! 涼子、頼む! 離婚だけは許してくれ! 涼子!」


 敦の言葉に、亜希子は目を剥いた。


「酷い! 愛しているのは私だけだって言ってたのに! あんなに愛し合ったのに! 全部ウソだって言うの!? いつか一緒になろうって誓ったじゃない! これが真実の愛だって!」

「そんなの全部ウソに決まってんだろ! ちょっとおだてたら簡単に股開くような頭の悪い女を伴侶にするわけねぇ! 涼子との絆を邪魔すんな!」

「あなたが愛のあかしを残したいっていうから、ゴム無しでさせてあげて、あなたを何度も私の中に受け入れたんじゃない! あなたが自分の子どもが欲しいっていうから!」

「お前とのガキなんかいらねぇよ! 溜まってたから吐き出しただけだ! お前なんか単なる『公衆便所』なんだよ! イカ臭ぇ便所女がふざけんな! 涼子、俺が愛してるのは君だけなんだ!」


 亜希子は言葉を失う。そして、脳裏にはあの頃の記憶がゆっくりと蘇る。『公衆便所』と呼ばれていたあの頃の記憶が。


 敦から吐き出されるクズな言葉に軽蔑の視線を送る涼子。自分にすがる敦を一瞥した後、微笑みを真一へ送る。


「それでは、また連絡いたします」

「はい、いつでも大丈夫ですので、気兼ねなくご連絡ください」


 笑顔を交わすふたりの様子を見て激昂する敦。


「そうか! 涼子、お前もこの男と浮気してたんだな! 俺もお前を訴えてやる! 莫大な金額の慰謝料を取ってやる! 覚えてろ! このクソブスの裏切り者!」


 そんな雑音を意に介さず、涼子は家を出ていった。

 その瞬間、敦に殴りかかる敦の父親。


「ぐはっ! や、やめ……うぐっ!」

「お前のせいだ! お前のせいで、何もかも失ったんだ!」

「ここで暴れるのはおやめください!」


 真一の一喝で動きを止める敦の父親。そのまま敦の髪の毛を掴み、敦を引きずるようにして居間を出ていく。


「本当に、本当に申し訳ございませんでした……人様の家庭をいくつも壊すなんて……育て方をどこで間違えたのか……」


 敦の母親は、何度も真一に頭を下げながら居間を出ていき、松永家の三人は家を出ていった。

 残ったのは、亜希子、沙織、真一の三人だ。


「……亜希子、行くわよ」


 母親である沙織の一言に、茫然自失の状態でゆっくりと立ち上がる亜希子。沙織は真一に向き合う。


「真一くん……娘の亜希子が本当に申し訳ございませんでした。亜希子は一旦実家に連れ帰ります。その上で改めて荷物を取りに来ますので」

「承知いたしました」

「真一くん」

「はい」

「よく頑張ったね」


 沙織の一言に、胸へ押し寄せるものがある真一。


「亜希子、来なさい」


 亜希子は何かをブツブツと言いながら、真一には視線を向けず、沙織と共に家を出ていった。


 美咲は、愛香の家で預かってもらっているので、今家の中にいるのは真一だけだ。シンとする誰もいない居間に立ち尽くす真一。

 水を一杯飲もうと、ダイニングキッチンに向かった。


『あなた、お帰りなさい』


 キッチンに優しい笑顔を浮かべた亜希子がいた。刹那の幻。幸せが溢れていたこのダイニングキッチンに、もうあの幸せは返ってこない。永遠に。


「ぁぅ……うぅ………」


 瞳から溢れ出る涙、そして爆発しそうな感情が胸の奥で渦巻く。


「うわあああぁぁぁぁ! ああああぁぁぁ……!」


 我慢できず、激しく慟哭どうこくをあげる真一。

 まるで道に迷った幼子おさなごのように、大切なものを無くしてしまった子どものように、真一は大声をあげて泣き続けた。


「うああああぁぁぁ……!」


 妻の亜希子の不倫から始まった『幸せの形』の崩壊。不倫が続けられたおよそ一年半で、そのすべては完全に壊れてしまった。それでも娘の美咲を守り、義母の沙織の協力を得ながら、亜希子と敦への制裁は遂げられたのだ。


 しかし、その先にあったのは、家族という『幸せの形』を失ったどうしようもない悲しみだけだった。



 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇



 三日後、亜希子が荷物を取りに自宅へ来ることになった――






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<次回予告>


 新章『第七章 後悔』


 第34話 ほぞを噛む



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