第23話 霧散した希望

 はぁ はぁ はぁ はぁ はぁ


 息を切らせながら、住宅地の中をひとり走っているセーラー服姿の少女。真一の娘である美咲だ。


(なんで……なんでこんなことに……)


 美咲は目に涙を溜めながら、自宅に向かって走り続けた。



 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇



 授業も終わり、中学校で友だちとおしゃべりをしていた美咲。そろそろ祖母である沙織に迎えに来てもらおうと、連絡をしようとした時だった。


 ~♪


 スマートフォンから電話着信の音楽が流れた。美咲が目をやると『音声通話 おばあちゃん』と表示されている。ナイスタイミングとばかりに電話に出た美咲。


「もしもし、おばあちゃん?」

『あっ! もしもし、美咲ちゃん!? 今どこ!?』

「どこって……学校だけど……」


 普段と違い何か焦っているようで、沙織の様子がおかしい。


『まだ学校なのね!』

「うん、どうしたの?」

『……いい、落ち着いて聞いてね。お父さん、会社で急に倒れたらしいの』

「えぇっ! お父さんが!? え、え、えぇ、なんで! どうして!」


 一瞬にしてパニックに陥る美咲。


『美咲! 聞きなさい!』


 沙織の一喝で、美咲は我に返った。しかし、スマートフォンを持つ手は震えている。


『いい、美咲ちゃん。美咲ちゃんには今から自宅に行ってほしいの』

「家に……?」

『嫌かもしれないけど、お母さんに事情を説明して、一緒にお父さんの救急搬送先の県立中央病院まで来てほしい。私もすぐに向かうから』

「も、持って行くものとかは……?」

『とりあえず、保険証だけ持ってきて』

「わ、分かった……」

『美咲ちゃん、お母さんに説明できる?』

「……うん」

『ゴメンね、美咲ちゃんに嫌な役目させちゃって……お母さんと電話が通じなくて……』

「ううん、とにかくすぐに家へ帰るね!」

『お願いね。じゃあ、病院で』


 電話を切った美咲は、慌てて自宅へと帰っていった。



 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇



 美咲の自宅――


 カチャ カチャ ガチャリ


 慌てて玄関に入る美咲。

 しかし、そこで身体が凍りついた。

 走りっぱなしで呼吸も整っていない中、美咲は視線を下に落として、あるものを凝視している。

 玄関に見慣れない男物の靴があったのだ。


(ウソでしょ……ウソよね……まさか、まさか私たちの家で……)


 そっと家に上がり、一階のダイニングキッチンや居間、浴室を覗いてみた。そこには誰もいない。

 美咲は二階へと階段を上がっていくが、その途中で聞きたくなかった音や声が聞こえ始めた。吐き気を必死で抑えて二階へ上がり、両親の寝室の扉の前に立った。中からは、ベッドの軋む音、そして時折母親のものと思われる荒い息遣いと嬌声が漏れ出ていた。


「……お母さん……」


 扉に向かって、小さく呼び掛ける美咲。その声が聞こえないのか、何かに夢中になっているのか、美咲の声は届いていないようだった。

 美咲は意を決する。


「お母さん!」


 美咲の叫びに、扉の向こうからの音や声がピタリとんだ。


「な、なに、美咲なの? 今、エクササイズしていて……」


 聞いてもいないのに、勝手に言い訳を始める母親の亜希子。

 美咲は扉を開けようとしない。


「お父さん、倒れたよ……」

「えっ!?」

「県立中央病院に運ばれたって……ねぇ、一緒に病院行こうよ……」


 美咲は祈っていた。母親が目を覚ましてくれるんじゃないかと。父親の危機に直面すれば、自分の愚かさに気付いてくれるんじゃないかと。


『大変! すぐに行くわ! 美咲は準備できてるの!?』


 お願い、そう言って。


『えぇっ! 真一が!? タクシー呼ぶから急いで行きましょう!』


 お願い、そう言って。


『美咲、すぐに病院へ行くわよ! 真一、すぐに行くから待ってて!』


 お願い、そう言って。

 美咲はただひたすらに祈っていた。


 しかし――


「あ、あぁ、そうなのね。ハイ、ハイ。分かったわ」

「分かったって何が……?」

「えっ、だから、伝えてくれてありがと……ちょっとダメよ……」

「病院、行こうよ……」

「や、そこは……んんっ……だ、だから美咲が行けばいいじゃない……」

「お母さん……」

「チッ、いいから早く行きなさいよ! 今すぐこの家から出ていって! あん、ダメ……」


 バガンッ


 扉を思い切り蹴飛ばした美咲。


「死ぬまでヤッてろ! この色ボケババァ! お前がくたばれっ!」


 美咲の心の中で微かに残っていた「家族の絆」という名の小さな小さな希望は、この瞬間完全に消え失せた。

 憤怒の表情を浮かべて一階の居間に戻った美咲は、棚の中に保管してある保険証を手に自宅を飛び出した。

 通りがかったタクシーを止める美咲。


「すみません、県立中央病院まで! 今、お金ないんですけど、料金は着いたら必ずお支払いしますので、お願いできませんか!? お父さんが倒れて……!」

「うん、大丈夫だよ。そういう事情なら支払いを待ってあげることもできるからね」

「すみません、お願いします!」


 美咲を乗せたタクシーは、県立中央病院へと向かっていった。


 美咲にとって、自宅は家族の幸せの象徴だった。自宅に帰ればたくさんの笑顔が待っていたのだ。しかし、今や自宅は汚染された建物に成り下がった。すべての希望を失った美咲。タクシーのリアウィンドウに映る小さくなっていく自宅を、美咲は一瞥いちべつもしなかった。






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<次回予告>


 第24話 新たな絆



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