第13話 背徳の沼

 店長に家の近くまで車で送ってもらい、自宅までの暗い夜道を歩いていた。私の心の中は家族への罪悪感で破裂しそうだ。


 店長はただひたすらに私を求めてきた。「亜希子、愛してる」「好きだ、亜希子」と何度も口にし、私にその欲望を乱暴なまでにぶつけてきた。昔の男たちを思い起こさせるような飢えた獣のような激しさ。気持ち良さは皆無だったが、私を求めてくるその姿に私の心は満たされた。快楽けらくの海に溺れていた頃と同じだ。

 別れるときにも、店長は車の中で強引に私の唇を奪い、長く、そして深い深い口付けを交わした。最後に「亜希子、心から愛してる」と言葉を残した。


 いざ店長から離れてみれば、自分の浅はかな判断、真一と美咲を裏切る行為に胸が苦しくなり、どれだけ馬鹿なことをしたのか、ただただ後悔することになった。

 やがて我が家が見えてくる。早く帰りたいのに、帰りたくない。あのふたりにどんな顔をすれば良いというのか。歩みが遅くなっていく。それでも一歩を踏み出せば我が家に近づいていくのだ。

 そして、玄関の前で立ち尽くす私。覚悟を決めて鍵を開けた。


 ガチャリ


「ただいま……」


 家に一歩入った瞬間、とてもいい匂いが漂ってきた。

 ダイニングキッチンからひょっこり顔を出す笑顔の真一。


「おかえり。お仕事、お疲れ様でした」

「お母さん、お父さんのビーフシチュー、めちゃウマだよ!」


 美咲も姿を見せた。

 私の心から罪悪感が溢れ出す……。

 あれ?

 罪悪感が溢れ……罪悪感が……。


「亜希子、どうしたの? 大丈夫かい?」

「お母さん……?」


 ふたりが心配そうな顔をして、私を見ている。


「あ、あぁ、ごめんね。じゃあ、お母さんも少しだけ食べようかな!」

「じゃあ、温めるから着替えておいで」

「私、サラダの用意する!」


 ダイニングキッチンに消えるふたりの姿。

 私の心の中でかすかに生じた罪悪感すら薄れていく。

 私は気付いた。


 バレなきゃ何もしてないのと同じだ――


 心の奥底で何かが鎌首をもたげ、背中を得も言われぬ快感が走った。

 私は玄関でひとり、にやけ顔を止めることができなかった。



 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇



 スーパーで働き始めて半年――


「あなた、ごめんなさい。今夜も夕飯の準備お願いしていい?」

「いいけど、随分と忙しいんだな」

「うん、ひっきりなしにセールをやってるでしょ。品出しやら売場の飾り付けやらですごく大変なのよ」

「あまり無理しないようにな」

「ありがと、分かってるわ」


 分かっていないのは、真一の方。

 あれからあつし店長との関係は続いていた。私は今夜も敦さんの求める声に応える。ただがむしゃらに私の身体をむさぼる性のケダモノ。私は今からその生き餌となる喜びに満ちている。

 何も知らない真一は、そんな私に優しい笑顔を向ける。そんな彼の笑顔を心の中で思い起こしながら、私は敦さんに抱かれるのだ。この最高の背徳感は、他では絶対に味わえない。あぁ、早く敦さんに抱かれたい!



 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇



 スーパーで働き始めて一年――


「亜希子、パートのシフトをもっと減らせないかい?」

「なんで?」

「ここ半年くらい、家のことは全部オレがやってるよね。協力はしてあげたいけど、ちょっと身体が辛いよ」

「じゃあ真一は、ようやく私が見つけた新しい生き甲斐を捨てろっていうの!? そんなに冷たい男だったんだ。妻の生き方を縛るなんて、最低だわ!」

「生き方を縛るなんて……」

「だってそうでしょ! 私のやることが気に食わないんでしょ!」

「……お母さん、何でそんな言い方するの? お父さん、毎日家のことを頑張ってくれてるじゃない……」

「美咲もお父さんの肩を持つのね! ふたりして私を責めて!」

「責めてなんていないだろ?」

「お父さんの肩を持っているわけじゃ……」

「もういい! とにかくパートは続ける! いちいちガタガタ言わないで!」


 私はそのままスーパーへ向かった。

 本当にうるさいふたり。一体何だって言うのよ。結婚なんかしなければ良かった! 子どもだって、私は敦さんとの子どもが欲しい! あんな生意気な娘なんていらない!

 私は何でもっと早く敦さんと出会わなかったのかしら……。



 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇



 スーパーで働き始めて一年半――


 美咲が深刻な顔をして私のところにやってきた。今度は何よ。


「……お母さん……どうしよう……」


 何を言っているのかよく分からないけど、どうやら初潮を迎えたらしい。何でいちいち私のところに来るのか。「生理用品ちょうだい」の一言で済むだろうに。面倒な娘だ。

 私はトイレに保管しておいたナプキンを持ってきて、美咲にポンと投げ渡した。


「あとはお父さんに聞いて」

「え……?」

「お父さんに聞いて! 聞こえなかったの!? 私もうパートに行く時間だから! まったくもう……」



 数時間後――


 パートから帰ってきたら、真一が激怒していた。彼が怒ったところなど見たことがなかったので、正直少し驚いた。


「君は母親だろ! どうして美咲に寄り添ってやらないんだ!」


 たかが生理で何言ってんだか。


「これから長く付き合っていくものよ。いちいち騒ぎ立てても仕方ないわ」

「初めて起こった自分の身体の変化に不安を持たないわけがないだろう!」

「だからナプキン渡したわよ。十分でしょ」

「美咲は泣きながらオレのところに来たよ……下着を血で汚して、使い方も分からないナプキン握りしめてな!」

「真一が色々教えたんでしょ? じゃあ、いいじゃない」

「いいわけあるか! 母親がいるのに、父親のところへ相談に行かなければいけないなんて、どれだけ美咲にとって苦痛だったか! 君も女性なんだから分かるだろ!」


 何なのコイツ。切れた私は言ってやった。


「じゃあ、もう別れようか」

「はぁっ?」

「私の考えややることにいちいちギャアギャア言ってきてさ。これってモラハラよね。自分の意見を立場の弱い妻に押し付けるなんて最低。本当に最悪だわ。だからいいわよ、離婚しましょうよ」

「亜希子、君ってやつは……」

「私はいつ別れてもいいから。口うるさいモラハラ旦那に、いちいち面倒で生意気な娘。もううんざり」

「…………」


 私の言葉に真一は黙り込んだ。

 そのうち本当に別れてやるからな、バーカ。



 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇



 スーパーで働き始めて二年――


 今夜も敦さんと夜のドライブ。いつも社用車なのがちょっとアレだけど、逆に何だか悪いことをしているような気になって、これはこれで何気に楽しい。まぁ、敦さんがいれば軽トラだって構わないしね。

 店を出てしばらくはシートを倒して身を隠す。これも誰かに見られないかドキドキだ。そして、国道の交差点でシートを戻し、周囲に見せびらかすように口づけを交わす。幸せの瞬間だ。

 目的地に着くまでの間、彼に愛を示そうと、私は敦さんに奉仕した。そんな私の頭を優しく撫でてくれる敦さん。すると、心の奥底にうごめく何かが喜びに打ち震える。あぁ、なんて幸せなのかしら……。

 私は、しがらみに縛られて虐げられている可哀想な姫。敦さんは、そんな可哀想な姫を救い出そうとする心優しい勇猛果敢な王子様。今夜も愛を確かめ合うために、白馬に乗って秘密のお城へ登城するのだ。


 私の見出した新しい『幸せの形』。夫と娘という大きな障害さえも燃料にして、私たちの本当の愛が燃え上がる。これこそが真実の愛。この幸せ、絶対に手放さない。私は心に誓った。






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<次回予告>


 新章『第三章 不義』


 第14話 空虚な人生



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