第5話 色欲を纏う

 助手席に母親の亜希子を乗せた白いライトバンが、美咲を乗せた赤いコンパクトなミニバンの前を走っている。ライトバンのリアゲートにも、ドアと同じように『スーパーマツナガ』という言葉が掲げられていた。

 社用車仕様のライトバンのせいか、窓にスモークは入っておらず、車内の様子はミニバンからでもおおよそ分かる。国道沿いに設置された街灯の明かりが、助手席の亜希子の顔を映したり、影に隠したりしているのが社用車のリアウインドウ越しに分かった。


「美咲ちゃん」

「はい……」

「答えづらかったら、答えなくていいから」

「…………」

「今追っている車に乗っているのは誰だい?」


 愛香の父親からの質問に、一瞬身体をビクリと震わせた美咲。

 そんな美咲を心配そうに見ている愛香。


「だ、誰だっていいじゃん! パパ、変なこと聞かないでよ! 美咲、気にしないでいいからね!」


 妙な空気に耐えられなかった愛香が、慌てて美咲を気遣う。


「……母です……」


 美咲はポツリと答えた。

 ミニバンの車内に沈黙が満ちる。聞こえるのはエンジン音とタイヤからのロードノイズだけ。

 美咲にとって一大事の状況であることを理解したふたり。


「愛香」

「うん」

「ここから先のことは、何を見ても、何も聞いても、そのことを絶対に誰にも言うな。絶対だ。分かったな」

「うん、分かってる」


 先程までの優しい口調ではなく、真剣なキツめの口調で娘の愛香を口止めする父親。最悪の場合、この先に待ち受けることは娘である美咲にとって、大きな、そして決して消えない心の傷になるであろうことが分かっているからだ。


 しばらく走り続ける二台の車。社用車の方は楽しげな会話が交わされている様子が伺えたが、ミニバンの中は三人とも何の言葉も交わさず、沈黙の空気を運んでいた。美咲の母親である亜希子の様子を見つめる三人。

 やがて、また信号につかまる。


「美咲ちゃん、横につけるかい?」

「……いえ、このまま追跡をお願いします」

「分かった」


 ハンドルを握り直す愛香の父親。愛香はただ心配そうに社用車の中の美咲の母親である亜希子を見ていた。


 その亜希子は、ここで誰も予想していなかった行動に出る。


「えっ、ウソだろ……」

「うそ、ヤダ……」


 父親と愛香は思わず声を上げた。

 亜希子は笑顔のまま、運転席に座っている茶髪短髪の男性の方へと身体を倒したのだ。


「美咲ちゃん、見るな!」


 愛香の父親は叫んだ。

 しかし、美咲はその様子をはっきりと見ていた。

 亜希子が男性の下半身の方へと顔を寄せていく瞬間を。

 何をしているかはシートに隠れて見えない。


 信号が青になり、社用車が進み出す。亜希子の姿は見えないままだ。

 引き続き追跡を続ける三人。美咲は社用車を睨みつけているが、愛香は両手で顔を押さえ、声を上げずに肩を震わせて泣いている。愛香もかなり大きなショックを受けていた。


「美咲ちゃん、まだ追うかい?」


 自分の娘の様子や美咲を心配して、遠回しに追跡をやめようと提案する愛香の父親。当事者ではない愛香でさえ大きなショックを受けているのに、美咲の心を考えたら結末を知らない方が良いのではないかと考えたのだ。

 しかし、バックミラー越しに見た美咲の顔からは表情が消え失せていた。


「追ってください」

「美咲ちゃん……」

「ごめんなさい。でも、娘として最後まで見届ける必要があると思っています」


 美咲の視線の先に母親の姿はない。ずっとシートに隠れたままだ。

 それでも社用車を睨み続ける美咲。

 愛香の父親は、美咲の意思を尊重することを無言で返した。


 追跡を続ける赤いミニバン。社用車側は、こちらにまったく気付いていないようだ。

 夜の国道をひた走る二台。やがて高速道路のインターチェンジが近付いてくる。そのまま高速道路に乗って遠出するのか。それとも――


 ――社用車の左側のウィンカーが点滅した。


 考え得る最悪の展開に、愛香の父親は天を仰ぎたくなる。

 社用車は、インターチェンジ近くのホテルへ入っていく。『スーパーマツナガ』の文字は、今時あまり見かけないお城のような下品な建物の中に消えていった。

 それを見送るようにして、その場を通過した三人のミニバン。愛香の父親は、少し走った先の路肩に車を停めた。誰も何も言葉を発せない車内。


「美咲ちゃん……」


 愛香の父親のつぶやきに、美咲はシートベルトを外し、スライドドアを開けてそのまま車外の歩道に飛び出した。


「美咲ちゃん!」

「美咲!」


 美咲はその場で膝をついてうずくまる。


「ふっ……おごっ!…………」


 歩道に激しい勢いで嘔吐する美咲。


「美咲ちゃん、大丈夫か!?」

「美咲、大丈夫!?」


 吐いても吐いても治まることのない吐き気。

 自分と父親を邪魔者扱いする母親。

 それでも心のどこかで、優しいお母さんにきっと戻ってくれると、そう信じていた。家族の絆は決して切れないんだと。


 ――家族の絆なんて、ただの幻影だった。


 母親の裏切り。美咲の中の「家族の絆」が霧散していく。

 アスファルトの歩道に広がる吐瀉物。美咲は吐き出すものが無くなっても、ただひたすらに嘔吐えずき続ける。自分の中に焼き付いている「家族」という名の嘘を吐き出そうとするように。






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<次回予告>


 第6話 揺らぐ絆



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